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坂本龍一さん死去から半年 同級生が語る活動の原点とは

  • 2023年10月26日

日本人で初めてアカデミー賞の作曲賞を受賞し、音楽グループ「YMO」のメンバーとしても活躍した坂本龍一さんが亡くなってから半年が経ちました。
亡くなったことが発表され、各界から追悼の声が上がる中、学生時代を共にしてきた元衆議院議員の塩崎恭久さんもSNSで思いをつづっていました。
世界的音楽家が亡くなってから半年。塩崎さんに坂本さんとの思い出を尋ね、活動の原点を探りました。

(NHK松山放送局 奥野良)

1988年に映画「ラストエンペラー」の音楽で日本人で初めてアカデミー賞の作曲賞を受賞し、音楽グループ「イエロー・マジック・オーケストラ」=「YMO」のメンバーとしても活躍した坂本龍一さん。
2014年に中咽頭がんと診断され、治療後に音楽活動を再開しましたが、2年前の2021年に、新たに直腸がんが見つかったことを公表。
治療を続けていましたが、ことし3月28日、71歳で亡くなりました。

塩崎さんの公式X(旧Twitter)

各界から追悼の声が上がる中、坂本さんと同じ学校に通っていた元衆議院議員の塩崎恭久さんもSNSで思いをつづっていました。

「彼のコンサートのたびに会ったり、メールでやりとりしたりしていました。彼はメールの返事がすごく早かったんですが、彼が亡くなる3、4か月前にメールをしたけど返事がなかったので、よっぽど体調が悪いのかなと思って心配しているうちに亡くなりました」

ニューヨークの坂本さんの自宅を訪れたときの写真

2人の出会いは中学校のブラスバンド部でした。
塩崎さんが部長を務めていた頃、1つ下の学年に入ってきたのが坂本さんでしたが、周囲とは異なる存在だったといいます。

塩崎さん
「部活に入ったはいいんだけど、さっぱり練習に来なくてわれわれは授業が終わると放課後、練習していましたけど、彼はほとんど来ませんでした。『練習に来ないとだめだろ。本番になったらみんなにも迷惑かかるよ』と言うと、彼はニヤニヤしていて、やっぱり来なかった。でも本番になると何の問題もなくきちっと演奏してくれるんで、こいつは何か面白いやつだなと思いました」

アメリカへ留学する塩埼さんの歓送会

2人の距離が一気に縮まったのは、高校時代。
塩崎さんがアメリカに1年間留学したため、帰国後は坂本さんと同じ学年になりました。
映画や音楽、それに政治などを語り合い、家族よりも長い時間を共にしたといいます。

塩崎さん
「ちょうど私がアメリカに行った時、アメリカはロックミュージックの最盛期で“ジミ・ヘンドリックス”とか“ピンク・フロイド”とかそういう人たちが活躍していました。そのレコードを私がたくさん日本へ持って帰ってきて、私の家の地下に大きいステレオがあったので、坂本くんに聞いてもらいました。よく私の家に来て泊まったし、私も彼の家によく行く、そんな毎日が続いていましたね」

東大安田講堂事件

その頃、日本は1960年代で学生運動のまっさなか。まさに激動の時代でした。

高校で演説する坂本さん

生徒会長だった塩崎さんは坂本さんと一緒に学校でストライキを起こし、学校改革に取り組んだといいます。

塩崎さん
「あまりに自由がなく受験偏重の教育に不満を持っていたので、もっと自由な教育をやらないとダメだと思って改革をいろいろやろうとしたときに、彼が面白がって私についてきました。先生たちも結構、真剣に議論してくれて、制服も自由になりました」

大学卒業後は音楽家と政治家とそれぞれ別の道へと進んだ2人。
それでも、2人は「高校時代」がその後の原点だったといいます。
坂本さんは、生前みずからの著書で次のように話しています。

高校生活の終盤で、ぼくは学校や社会の制度を解体するような運動に身を投じていたわけですが、同時代の作曲家たちも、既存の音楽の制度や構造を極端な形で解体しようとしていた〔中略〕坂本龍一の原型は、このころすでにできあがっていたのかも知れません

塩崎さんも政治家としての原点は「高校時代」だったと振り返ります。

塩崎さん
「自由にならないで型にはめられそうになっていることについてすごい抵抗があって、この社会をどうやったら政策に直せるかということを考え続けていました。その原点ができたのは高校時代で、古いヒエラルキーみたいなものを壊しフラットな社会にしていこうと」

一方、坂本さんは音楽家でありながら、社会活動にも取り組んできました。
東日本大震災の2年後には、被災地の子どもたちと一緒にオーケストラを結成するなど復興を支援してきました。
当時、坂本さんはNHKの取材に対して次のように話しています。

「演奏していた子どもたちは、きっとこの2年半あまり傷つきながらも、大人のように振る舞って頑張ってきたと思うんですよ。胸の中に閉じ込めてあるいろんな感情というのがこの間あったと思うんですけど、音楽はそういう閉じ込めてある感情をカチッと開いてあげる効果がある」

坂本さんが亡くなって半年。
塩崎さんは、坂本さんが取り組んできたこの活動を支援していくことを決め、最後に思いを語りました。

「子どもたちの未来を作っていこう、手伝いをしようという彼の思いに心をはせながら、坂本くんがやりたかったことは、お手伝いできる範囲でやっていきたいと思う。しかし、それにつけても彼の新しい音楽が聴けないっていうのは、大変残念なことだし、世界の音楽にとっても残念なことだと思う」

取材後記

平成生まれの私にとって、坂本さんというと「戦場のメリークリスマス」の音楽しか知りませんでした。しかし、取材の中で坂本さんが“テクノポップ”という新たなジャンルを築いたほか、社会的な課題や環境問題にも取り組むなど常に新しいアイデアや価値を求めて、世の中に疑問を投げかけていたことを知りました。
坂本さんが生きていたら、いまどのような疑問や課題に向き合い、それを音楽でどう表現するのだろうかと思う取材となりました。

  • 奥野良

    奥野良

    2019年入局。警察・裁判取材を経て現在、行政取材を担当。趣味はサッカー観戦で、国内だけでなくヨーロッパのスタジアムにも足を運ぶ。

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