ページの本文へ

WEBニュース特集 愛媛インサイト

  1. NHK松山
  2. WEBニュース特集 愛媛インサイト
  3. 松山が生んだ“第零代ミスタータイガース” 景浦 將【2】

松山が生んだ“第零代ミスタータイガース” 景浦 將【2】

大学野球
  • 2023年09月21日

ファンの間では“第零代ミスタータイガース”とも呼ばれ、あの沢村栄治のライバルだった景浦將。
松山出身でプロ野球草創期の強打者として、さらには投打の二刀流として語り継がれている伝説の野球選手です。
前回は景浦の“悲運”の夏の甲子園までを紹介しましたが、今回はあまり知られていない大学時代の活躍をわずかに残る資料からたどってみます。
※2023年9月の阪神セ・リーグ優勝にあわせて、2021年4月に掲載した景浦將についての連載を一部、再編集して紹介します。
                                          (NHK 正亀賢司)

 

景浦は野球の超名門、松山商業から東京六大学の立教大学に進学します。
この当時は、今のプロ野球にあたる職業野球はなく、野球の花形は東京六大学野球でした。
東京六大学野球は、早稲田・慶應義塾・明治・法政・東京・立教の6つの大学で構成されています(この順番は連盟のホームページの記載に依拠しています)。

東京六大学野球は大正14年(1925)の秋からリーグ戦が始まりました。
栄えある1回目の優勝は早稲田でした。早慶戦(慶應側からでは慶早戦)で著名な早稲田と慶應が優勝を分け合いながら明治が連覇するなどして、リーグ戦人気は高まっていきます。
景浦が立教に入学したのは昭和8年でした。
実力、人気ともにリーグをけん引し、スター選手が集まっていた早稲田か慶應ではなかったことを意外に思う人もいるかもしれません。このときまでの優勝回数は慶應7回、早稲田3回に対して、立教はわずか1回。現在に至るまで優勝がない東京にさえ(失礼!)後れをとって最下位になることも何度もありました。
後にあのミスタージャイアンツを輩出したとはいえ、令和2年までの立教の優勝回数は六大学で5番目の13回です。4位慶應の37回と比べるとものすごい差です。
なぜ立教だったのか。おいの景浦隆男さんに尋ねてみました。
詳しいことはわからないとのことでしたが、景浦のそれまでの実績から推測してくれました。

おいの景浦隆男さん

「甲子園で活躍したとはいえ、そこまで目立った選手ではなかったからもしれない」

確かに松山商業では「エースで4番」というわけではありませんでした。エースでなかったことはともかくとして、打順は6番や7番を打つことが多かったようです。隆男さんは、「松山商業のころはまだまだ体が小さかったと聞いている」と、その理由を述べています。

とはいえ、立教であり、花形の東京六大学野球へと進んだのです。そして、1年生ながら早くも神宮球場で躍動するのです。
この年のリーグ戦は現在のような春と秋の2リーグ制ではなく、春1回、秋2回の総当りの1シーズン制でした。当時の新聞などから、景浦は春の試合には出場した形跡はありません。
リーグ戦デビューは9月17日。現在の東京大学、当時の東京帝国大学との試合でした。7番投手として出場した景浦は2回の第1打席で左中間を破る2塁打を放ち、先制点を奪います。6回、8回にもヒットを打った景浦は3安打の大活躍(現在で言うところの猛打賞)。そして、投げてもすごかったのです。わずか4安打に抑え、1失点の完投勝利。まさに投打の二刀流で東京六大学野球で鮮烈なデビュー戦を飾ったのです。
当時の朝日新聞ではこの景浦の活躍を「攻守にわたり縦横に活躍せる」「新人の秋をおう歌してゐた」と絶賛しています。
その後も景浦は1年生ながら投手として、野手として試合に出場し、立教は見事に2回目のリーグ制覇を達成します。11勝3敗1分けという成績でした。景浦の入学と同時に立教が優勝するなんて出来過ぎの感はありますが、事実は事実です。

翌年以降、完全に主力選手となった景浦は主に右翼手(ライト)として打順は3番や5番を任されることが多くなります。もちろん投手としても力投を続けました。
そして、3年生になった景浦はさらに輝きを増します。秋のリーグ戦で2本のホームランを放ち、ホームラン王になるのです。現代からすると「少ない」と感じる人がいるかもしれませんが、なかなかホームランが出にくい時代ということを考慮すると立派な数字です。いよいよ強打者・景浦が誕生するという気配です。

この翌年、景浦らの立教大学野球部は台湾遠征を行います。この台湾遠征は景浦にとっては2度目かもしれません。

台湾遠征

景浦の出身地、愛媛県松山市にある野球歴史資料館「の・ボールミュージアム」には、景浦の遺品が展示されていることは前回も紹介しました。おいの隆男さんから寄託されたものですが、この中に「昭和9年 台湾遠征記念写真」があり、学生服姿のりりしい景浦を確認できます。昭和9年の何月かはわかりませんが、ホームラン王になる以前にも景浦は台湾遠征を行っていたようです。
今回の台湾遠征を前に景浦は、現地の「台湾日日新報」に西郷準投手とともに立教の中心選手として紹介されたという記録が残されています。それほどまでに注目されるスター選手になっていたのですね。
ちなみに、西郷準とはその名字からも推察できるように西郷隆盛の孫です。早稲田大学野球部の初代監督で学生野球の発展に貢献した飛田穂洲(とびた すいしゅう)はこの西郷準を「投げてよし、打ってよしの大投手西郷」と激賞したとも言われています。
なお、この台湾遠征を立教は11戦全勝という完璧な成績で終えたとのことです。

松山商業時代にある程度の活躍は見せたものの、主力中の主力とは言えなかった景浦が大学野球で飛躍したことがわかります。おいの隆男さんは「松山商業入学当時は細く、体もそんなに大きくなかった」と語っていました。そして、「体が大きくなるにつれて野球もうまくなっていった」と話します。
高校野球を最後にガチに取り組む野球から離れる人は多くいます。また、高校野球の成績で野球選手としての評価が決まりがちな風潮が、現在の野球界には依然としてあると思います。
大学野球に舞台を移して活躍した景浦を見ると、選手の成長、ピークはいつあるかわからないと考えさせられます。

今回の最後に、立教野球部に伝わっていたエピソードを紹介します。昭和20年代後半までに、立教には「景浦さんの記録」と語り継がれていた“伝説”があったようです。
当時の野球部の監督は「景浦さんの記録を破れるのはこの男しかいないでしょう」とうれしそうに語っていたそうです。「この男」とは誰なのか。立教といえば、野球ファンなら誰もがわかるミスタージャイアンツの長嶋茂雄さんです。
「景浦さんの記録」とは、当時東京の東長崎にあった立教野球部グラウンドのレフトの後方に2階建ての民家があったのですが、景浦の打球はその2階を越えることがしばしばだったというのです。長嶋さんもこの民家の2階を越える打球を放つようになり、のちにプロ野球で大活躍することは説明不要でしょう。
この伝説から見ても、景浦は相当な選手であったことが理解できると思います。

さて、いよいよ最終学年を迎える景浦は神宮の舞台でどんなプレーを見せたのでしょうか。「海内無双」とまで評された大活躍を想像するところですが、景浦には思わぬ運命が待ち構えていたのです。

 

  •  正亀賢司

     正亀賢司

    好きなことは歴史と野球を探求すること。2019~21年まで松山局で勤務。現在は報道局の映像取材デスク。

ページトップに戻る