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弱者を犠牲者にした大空襲の夜

  • 2023年08月03日

250人以上が亡くなった松山大空襲から78年。当時小学生だった大西郁(おおにし・かおる)さんは、同居中の寝たきりの伯母を置き去りにして逃げたことを、今も悔やんでいます。
大西さんは、戦後長い間、この記憶を胸の奥にしまっていましたが、5年前の西日本豪雨をきっかけに語り部活動を始めました。その思いを伺いました。

(NHK松山放送局 都倉悠太)

寝たきりの伯母を連れて逃げるはずが

「(伯母を)助け出すために、もっと方法を考えて、色々とやりようがあったんじゃないかなと」

松山市在住の大西郁さん、90才。
松山大空襲の時、同居していた体の不自由な伯母を置き去りにしてしまったことを、今でも悔やんでいます。

大西さんは6人兄弟の末っ子。母親がご病気で4歳の時に亡くなり、年齢が50歳ほど離れた伯母の家に預けられました。

伯母の家は、松山市の中心街にある菓子問屋でした。
そこで暮らすようになって3年経った昭和13年(1938)、伯母が脳溢血で倒れ、寝たきりの生活になりました。
昭和20年(1945)には、戦況の悪化で、愛媛県内各地に米軍の爆撃による被害が出ていました。当時、大西さんは12歳。伯母は60歳くらい。この時は、伯母の家で、伯母と夫など5人で暮らしていました。

伯母・サダヨさんとの写真 真ん中が伯母 左が大西さん

「伯母さんは本当にだんだん悪い状態になっていましたから、付きっきりで食事の世話も、下の世話もしないといけない状態でしたね。だから手や足が細くなって、動きが悪くなるんですね。看護婦さんは毎日のようにやってきたけれども、戦争が激しくなって看護師さんも来てもらえなくなったので、私たちが手や足を伸ばしてあげたり、マッサージをするなど、そういうふうなことを子供でもしないといけない。誰に言われたわけでもないけれども、自発的にしていました」

大西さんは、松山大空襲の半年前に、家族で、空襲時の避難計画を事前に立てていました。
近所で履物屋を営んでいた町内会長から、「有事の際は、リヤカーを貸してあげるから、伯母さんを乗せて逃げなさい」と言われていました。大西さんは、空襲警報が鳴ったら、自分が真っ先にリヤカーを取りに行き、伯母を乗せて逃げると、本人にも伝えていました。

「伯母さんはね、生きる意欲はあったと思うんです。”このままにしてもろても構わんのよ”って言ってましたけれども、”私らがそんなことできるわけないじゃないの。おばさんと一緒に逃げるんよ!”と言いきかせましたね」

忘れられない松山大空襲の夜

昭和20年1945年7月26日、夜11時過ぎ、松山市内についに空襲警報が鳴り響きました。松山市史によると、死者は251人。市内の家屋の半分以上が米軍によって焼かれました。警報が鳴る前、蚊帳を吊った伯母の部屋で、大西さんはいつも通り、伯母と一緒に寝ていました。

「何しろ蒸し暑く、寝苦しかって、やっと寝ついたなーと思ったら、サイレンがものすごく、ふだんのサイレン以上に響きだしたんですよね。
もう家の中でも会話しづらいぐらいの大音響のサイレンでした。
怖かった。これは、きょうは絶対に空襲になるんだなって。
飛行機も何も見えない、サイレンだけですけれども、あの異常さっていうのか、それを感じましたね」

事前に決めていた有事の際の避難計画に沿って、大西さんは、リヤカーを借りに町内会長の家に向かいました。
しかし、大西さんは町内会長の家の前で立ちすくんでしまいました。

「リヤカーの上は、既にその家の人の荷物が1つ2つ積まれ、貸して下さいとは言えない状況でした。もうそれは、"あー貸してもらえる状態ではないな"と。 伯母さんにどう伝えていいか。本当、金縛りに遭ったような気分でしたね」

空襲警報によるパニックもあり、リヤカー以外で伯母を助ける方法が浮かばなかった大西さんは、大きな絶望感に包まれました。
それでも何とか伯母を助けたい一心で、伯母の家に戻ろうとしましたが、姉に止められ、手を引っ張られて逃げました。

「 (伯母が待つ)家に戻ることは止められました。姉さんは赤ちゃんをおんぶして。 姉さんは伯母さんを助ける方法はないとすぐに気が付いた、決心したんでしょうけれども。私は、”伯母さんどうするの、伯母さんどうするの”と、そのまま姉さんと、手握られて走ったんですけれども、大きな声で言った記憶があります」

伯母を置き去りにしてしまったことに、大西さんは逃げながら心残りを感じていました。

「伯母さんは”もうリヤカーを借り入れなかったんだろうな”と覚悟したと思うんですよ。
せめて一言でも声をかけたかった。時間があったのにね。伯母さんの部屋に入れさせてもらえなかったから。一言も声をかけないで、私逃げたから。いつまでもそれが心に残るんですね」

伯母を迎えに行こうとするも

大西さんは、松山大空襲の夜、姉と一緒に、夜通し6キロほど歩いて、翌朝、避難先の親戚の家にたどりつきました。
その日は、消耗した体を休め、その翌日の7月28日、夜明けの時間に避難先を出発。伯母の元に行こうとしました。

「伯母さんがね、焼け死んでいるのは、自分の頭では分かっているんですけれども想像ができなかったですね。まあ言うたら、白骨になっているわけでしょ、もしかしたら、直撃弾を受けて、木っ端みじんになっているかもしれない。いろんなこと考えるわけですよ。だから、それをいろいろ想像しながら、松山(市内中心部)に向かって歩いている。すごく嫌な時間でしたね」

しかし、姉と一緒に伯母の家に向かう途中、大西さんはグラマン戦闘機の機銃掃射を受け、負傷してしまいます。

「疲れと空腹で、トボトボと歩いてたんですけれども、グラマン戦闘機が1機だけ、ヒューンっと近くに迫ってきて、高い所からすーっと降りてきたんですね。操縦している人が見えたぐらい。顔が分かるぐらいまで近づいて、ポカンと立って見てたら、機銃掃射で、バリバリバリとね(撃ってきました)。
目の前に来ましたけれども、まさか自分が狙い撃ちされるとは思いませんからね。目を隠すような建物も何にもない一本道歩いてたんですから。機銃掃射がバーッと草むらに当たって。それの破片が私の左腕に当たって。何やしらー?と、ポテポテ血が落ちてる。その後、兵隊さんが駐屯しているお寺に連れてってくれたんですよ。
そこで、破片も取ってもらったし、止血してもらって。それで、もう真っ青になって、ペタっと。伯母さんのお骨を拾いに行くつもりでしたが、もう馬力がないんです。そしたら姉が”もうそこで寝といてやって、私一人で行くから”と言ったんです。 
伯母さんがね、木っ端みじんになっているかも分からない。その伯母さんを見るのは怖かったから。それをしなくてもよくなった。ちょっと安心感はありましたね」

大西さんの代わりに、姉が一人で伯母の自宅に向かい、4,5時間経った後、戻ってきました。

「実際、伯母さんはもう、寝たままの姿で、お骨になっていたそうです。でも、それを見なくてもいいような事故にあったのは、”伯母さんが、その姿を、郁には見せたくなかったんよ”と姉は言うんですけれども。
 ”伯母は、そのまま上を向いて、寝たきりの、綺麗なお骨になっとったよ”って言われたんで、何となく安心しました。
伯母さんの最後のことを考えたら辛いんですけれども、直撃弾も受けずに、広い座敷の真ん中で、白骨になって亡くなっていた。それだけでもよかったんかなって思いましたね」

大西さんは、事前の避難計画で、リヤカーを借りることができなかった場合も想定しておくべきだったと後悔しています。

「あの混乱の中では、行政に頼れない。家族が自分の身の安全もちゃんと考えて、いろいろな処置をして、こういう場合にはこうやらないといけないっていうことを事前にもっともっと考えとかんといかなかったんですよね。
リヤカーは借りれなかったけれども、ひょっとしたら、大八車みたいなもんでも、借りることが出来たんじゃないかなと思ったりもするわけです。 二重三重にね、構えておく必要があったんじゃないかなと。
後で反省するんですけれども、その時はもうリヤカーが借りれるって思ってるから、安心しとったんですよね。でも二重三重に、事を構えて考えておくべきだったんだなと」

西日本豪雨きっかけに語り部に

大西さんは、戦後長い間、戦争の記憶を心の奥にしまっていました。
そんな体験を、語り部として多くの人に伝えようと思ったのが、5年前の2018年の西日本豪雨でした。

「やっぱりあの空襲の時の体験と重ね合わせて、弱者を救うことができなかったことを思い出しました。 今、いろんな災害が、各地で起こるじゃないですか。その時もやっぱり一番弱いものが見捨てられる。避難がもっと上手にできていたら、救えた命がもっともっとあったんじゃないかなと。
伯母さんのときの体験と重ね合わせて、いろんな災害のときには、重ね合わせるように思い出しますね。助け出せないで、大きな災害に飲み込まれて、死者が増える。伯母さんの時も一緒やなと思い出しました」

大西さんは、松山市が募集する「戦争の語り部」に応募。現在、市内の小学校に出向き、自らの戦争体験を伝えています
 弱者を犠牲にする戦争を二度と繰り返してはならない。
過去の辛く悲しい記憶が、語り部としての原動力となっています。

「やっぱりね。一人でも多くの小学生に、自分の体験を伝えたい。絵空事のように、戦争のことを思ってるお子さんが多いじゃないですか。それがちょっとでも、体験者の口から生々しい話が聞けたら、ある程度分かってもらえるかなって。
今の世の中、いろんな紛争があるじゃないですか。その紛争に巻き込まれる住民たちの苦悩。それが私たちの戦争の体験と重なるから。そのことを一部分でも、小学生に感じてもらえたらな。そういうことはいつも思いますね」

大西さんは、自分の語り部活動を通じて、多くの人に伝えていきたいと考えています。

「私の語りで、皆さんがどう捉えてくれるか分からないんですけれども、少しでも戦争の悲惨さと、弱者が一番に見捨てられる実態、そういうことを、一人一人が自分自身のことと考えてほしい。何か災害の時に、どうしようかとかいうことを、一人一人考えてくれるようなことになればいいかなと思います」

取材実感

大西さんにお聞きしたのは、今から78年も前の出来事です。しかし、大西さんは、まるで昨日の出来事のように、情景描写から心の動きまで、確かな記憶としてお話しになりました。 そこまで鮮明に覚えていらっしゃるのは、大西さんが伯母への複雑な思いを、今までずっと抱え続けているからではないかと感じました。
大西さんは、語り部活動を始めてから4年が経過した去年の夏、伯母の墓前に、手記を置いたそうです。伯母のことをいつまでも思い続けていることと、語り部活動を通じて、戦争の悲惨さを広く伝えているという報告のためです。


80年近く経ってもなお、人の心に影を落とす戦争。

日本を取り巻く国際情勢や、世界各地で今なお紛争が起こっていることを思うと、戦争を他人ごとではなく、自分事として考えていくことも大事だという思いを強くしました。

*この大西郁さんのインタビューは、ラジオ深夜便の「戦争平和インタビュー」で、8月9日(水)午前4時台に、ラジオ第1とFMで放送されます。
是非お聴き下さい。

  • 都倉悠太

    松山局アナウンサー

    都倉悠太

    2015年入局。青森、鹿児島を経て2023年春、松山に。担当番組「ギュッと!四国」。四国の朝に活力を!と意気込む。

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