極寒のアラスカ1600キロ走破
- 2023年04月19日

マイナス40度まで下がることもあるアラスカの氷雪の大地を1600キロ走るレースがある。そんな過酷なルートを誰が作ったのか。愛媛県出身の明治の冒険家がルーツだと聞いたらきっとあなたは驚くのではなかろうか。
(NHK松山放送局 宇和島支局 山下文子)
世界最長の極寒のレース

そのレースは毎年アラスカで開催される。
「アイディタロッド・トレイル・インビテーショナル」である。
走行距離は主要都市アンカレッジ近郊からアラスカ西部の町ノームまでの1000マイル(約1600キロ)だ。

2月26日出発。
氷と雪に覆われた道を黙々と歩き、制限時間である30日以内の完走を目指す。
ことしの大会に参加したのは世界から集まった14人。
過去のウルトラマラソンの実績などから選抜された猛者たちで、日本からはただ1人が挑戦権を得た。

大阪市在住のランナー、北田雄夫さん(39歳)である。
これまで灼熱の砂漠や危険なジャングルなど世界7大陸の数々のアドベンチャーマラソンに参加し、日本を代表するアドベンチャーランナーと言っていい。
このレースに特別な思いを抱いていた。

北田雄夫さん
「6年越しの夢だったんです。これまで日本人がだれも挑戦したことのないレースで、しかもこの道を切り開いたのが日本人だったというので、なおいっそう挑戦したいと強く思ったんです」
ルートを切り開いたのは愛媛の冒険家

道を切り開いた日本人とは100年以上も前の冒険家、和田重次郎である。
明治8年に愛媛県に生まれ、17歳で単身アメリカへ渡航した。
ふるさとに残した母親に豊かな暮らしをさせたいと、航海中に船長から英語や測量を学びアラスカにたどり着いた。
犬ぞりを巧みに操り、得意の測量技術でまだ未開だった大地を次々と開拓した。
アイディタロッドのルートもその一つでその道は地図にも刻まれている。

2021年12月、北田さんは重次郎が生まれた愛媛を訪れている。
アラスカのレースを走る前にどうしても訪れたかったのだという。
北田さん
「愛媛を訪れて、重次郎さんの功績を地元の人たちが大切に思っていることを知りました。レースに参加する自分への応援の言葉もたくさん頂いて、ご縁ができたこともうれしく思いました」
先人の苦労を知る
レース中は何度も重次郎のことが頭によぎったという。
過酷な状況になるたびに愛媛の先人の苦労を想像した。

100年以上も前、和田重次郎はどのような気持ちで道を切り開いていったのだろうか。
ルート上の最高地点「レイニー・パス(標高1021メートル)の峠では猛烈な向かい風を受けた。遥か先、そびえ立つ山々の向こうには北米最高峰のマッキンリーがあるという
北田さん
「通信手段もない明治の時代によくこんな道を進んだなと何度も思いました。他にも凍った川を200キロ北上したり、海の上を50キロ進んだりします。重次郎さんは犬ぞりだったと思いますが人間の足で進むにはとんでもない道です。崖や森の中を貫く場所もあり、勇気をもらいたいときには重次郎さんを思い出していました」

レース中、マイナス40度まで冷え込むこともあった。
立ち止まると体温が下がってしまうため、夜を徹して進まなければならない。
まつげは凍ってつららのようになっている。
足元を照らすわずかなライトの光のみを頼りに前へ進む。
しかし、苦しみながら進んだ先には、見たことのない絶景が待っていた。

北田さん
「朝日とか夕日とかすごく自然が美しくて、重次郎さんもこの同じ景色を見たのかなって思いましたね。頑張ったご褒美のようでした」

重次郎が作った道は今は現地の人が使っている。
村に近い場所では犬が北田さんが引くそりを追いかけてきた。
ルートの一部は凍った川や海の上にあり、冬だけに現れる生活の道でもある。
レース中にも地元の人が行き来する姿を見ることがあった。
北田さん
「この道があるから、家族や友人に会いにいくことができるわけですよね。すごく人々に愛されている道なんだと実感しました。途中の村では犬に会ったり、スノーモービルでコーラを差し入れてくれた人もいて。村の入り口では地元の人たちが待っていてくれたこともあって本当に温かい気持ちになりました」
心の支えとなったSNS

スタートから27日目。
ゴールまであと80キロの地点で最大の困難が待ち受けていた。
過去最悪クラスのブリザードがやってくるというのだ。
レースの制限まであと3日を切っている。
焦る気持ちを抱えつつも抗えない自然の脅威に立ち止まるしかなかった。

ルートの途中には、小さなシェルターのような小屋がある。
北田さんはそこに避難することにした。
扉を開けると吹き飛ばされそうな強風と雪に襲われる。
シェルターには食料や暖を取るストーブもあるが1日半まったく外に出られなかった。
30日以内にゴールというタイムリミットが刻々と迫る。

そんなとき、北田さんを支えていたのは日本から届くSNSからのメッセージだった。
北田さんがいる位置はGPSを使って大会のホームページでリアルタイムで更新されていた。
日本から多くの人が見守って応援してくれていることが前へ進むエネルギーとなった。
北田さん
「“北田さんが進む一歩が、私の一歩にもなっています”というメッセージを頂いたんです。僕が進むことが誰かの力になっている。そう思ってもらえるんだというのが本当にうれしくて励みになりました」
「本気で生き抜いた」と実感

嵐は去り、再び歩き始める。
29日目でようやくゴールの町、ノームに入った。
日が暮れかけるなか街の明かりとともに人々の姿が見えた。
くたくただった北田さんは思わず声を上げた。
「わあ、やったー。うれしい」

3月27日にゴール。
記録は28日と17時間18分であった。
14人が参加したレースで完走したのはわずか3人。11人は途中で脱落した。
北田さんはゴールした初の日本人として歴史にその名を刻んだ。
北田さん
「一言で言うと最高でした。人の温かさと自然の美しさ、壁にぶち当たっても進んでいく面白さとそこに人生や生きる喜びというのを強く感じました。39年間生きてきて本気で生き抜いたというのを初めて思いました」
ゆかりの愛媛からも応援

和田重次郎の功績を後世に残そうと松山で活動している和田重次郎顕彰会の上岡幹夫さん(67歳)も北田さんの挑戦を見守った1人だ。
上岡幹夫さん
「重次郎が犬ぞりで走った道を、北田さんは自らの足のみで進んだというのは本当にすばらしいことです。まるで重次郎がよみがえって北田さんに乗り移ったんじゃなかろうかと胸が熱くなった。ぜひこの貴重な体験を愛媛の子どもたちに話してもらいたい」
インタビューを終えて

「ほおに少し凍傷を負ったくらいで、もうすっかり元気です」。レースを終えて10日ほどの北田さんは優しい笑顔でインタビューに答えてくれた。自身で撮影した膨大な量の映像を提供して下さり、それを見るとまるで私も現地に行ったかのような錯覚を覚えた。厳しくもあり美しくもあり、現地の人々の優しさもあった。これまでに見たことのないあらゆる瞬間が収められていた。
「僕は寒さに弱くてそりを引くのも苦手でしたが、一歩踏めば前に進む、ゴールできることもあるということを分かち合えたらうれしい」
そう話す北田さんは自分自身の弱い部分を見つめることで、できないならどうすればいいのか最善の策は何かを一つ一つ自問自答しながら困難に立ち向かっているように見えた。
小柄な日本人だった和田重次郎もかつてアラスカのマラソン大会にランナーとして参加したことがあり、そのときの写真も残っている。重次郎もまた、アラスカの地で自分自身と向き合い、一歩ずつ踏み出すことで偉業を成し遂げたのではなかろうか。
北田さんは早くも次の挑戦に向けて準備を進めている。同じ1600キロのレースだそうだが今度はヒマラヤの6000メートル級の山々にまたがるレースだ。

北田さん
「重次郎さんのことを知らなかったらここまで深い思いや喜びを感じることはできなかったですね。日本人の重次郎さんが道を作ったこともうれしいですし、それを辿ったことも誇りに思えました」