2023年2月9日

作家・塩野七生さん なぜ松山に? 俳句のまちが結んだ訪問

「松山でなければ断っていた」。そう明かしたのは作家の塩野七生さんです。
代表作「ローマ人の物語」など実に50年以上にわたり地中海世界の歴史を描き続けてきました。ことし1月に初めて松山市を訪問しましたが、そのきっかけはある「俳句に親しむ女性」だったといいます。どういうことでしょうか?

(NHK松山放送局 荒川真帆)

あの大作家が松山に?

塩野さんは1937年生まれ。20代でイタリアに遊学した後、「ルネサンスの女たち」で作家デビュー。ローマ帝国の興亡を描き国内外でベストセラーとなった「ローマ人の物語」をはじめ「ギリシア人の物語」など数々の作品で知られ、近年は「日本人へ」と題して民主制のあり方などに独自の視点で切り込んだエッセイ集が話題を呼んでいます。

記者のわたしも読者のひとりですが、その作家が「松山に講演に来る」と聞いたのはことし1月。真っ先に感じたのは「長年イタリアを拠点に執筆活動を続けている塩野さんが、なぜわざわざ地方都市の愛媛・松山に来るのだろう?」でした。
壮大なローマ帝国と松山のイメージがにわかに結びつきません。

主催元に事前の経緯を尋ねてみても「当日までお答えできない」とのこと。ただ「愛媛在住の女性が作った、ある『歌』を塩野さんが胸に留めていたことが関係しているらしい」との話を聞きました。
「あの『大物作家』がごく一般の人の歌に関心を抱くことがあるんだ」。ますます気になります。

チラシに書かれた講演会のタイトルも「なぜ松山に来たかったのか」。
早速、当日の取材を申し込みました。

いよいよご本人登場

講演開催日の1月31日。
松山市のホテルの会場にはおよそ400人の来場者が詰めかけていました。

司会者の紹介や挨拶などのあと、満場の拍手のなか会場に姿を現した塩野さん。
黒のジャケットに白のパンツ姿で、胸元にはグリーンの宝石が光るネックレス。
杖を支えにゆっくりと中央に歩んで着席すると、会場を見渡し、こう語りかけました。

(塩野さん)
「なんだかこれほどのおおげさな講演て、あたくし50年以上の作家キャリアのなかで10回くらいしたかなというくらいなんです。本質的に作家というのは、ひとりのために書いています。だからきょうもみなさんは自分ひとりのためだけに話していると思って聞いて下さい」

85歳を迎えていた塩野さん。わたしの席は会場の一番後ろでしたが、塩野さんの静かな口調から醸し出される厳かな雰囲気に、会場がやや圧倒されているようにも感じました。

自身の作家キャリアや作品について語った後、塩野さんは「なぜ私が松山に来たか。松山でなければ、断っていたと思う」と切り出しました。
同時に会場の大型モニターに映されたのは、ある短歌です。

「高窓に 赤くつめたき火星きて ローマ史最終巻をひもとく」

(塩野さん)
「岡田さんていう方なんですけれど。『ローマ人の物語』の最終巻の15巻を読んで、これを『歌会始』でお詠みになったと。15巻まで読んでくれたのだと。『ああ、こういう人が愛媛にいるんだ』、松山に行ってみたいと思っていた」

作り手は西条市の女性

歌会始の様子(2008年)

この歌を作ったのは、愛媛県西条市に住む岡田まみさん(61)です。
今回「顔は出さない」という条件で、取材に応じてくれました。

岡田さんがこの歌を作ったのは15年ほど前にさかのぼります。
毎年皇居で行われる「歌会始」で、応募総数2万首以上の短歌のなかから、入選作品の10選の1人として選出。2008年、当時の天皇皇后両陛下や皇族方の前で披露されました。

その頃書店に勤めていた岡田さんが、特に愛読していたのが「ローマ人の物語」。
この作品は塩野さんが55歳で書き始め、1年に1冊のペースで15年をかけて刊行されていました。岡田さんは、ついに最終巻を手に取ったときの感慨深さを表現しようと歌を作るに至ったといいます。

(岡田さん)
「当時、夜空によく火星が見えていたのですが、英語で言う『マーズ』は戦いの神の名前に由来しています。赤々と光る火星は、昔の人たちに『戦いの星』と呼ばれていたというのもうなずけるなと思っていて。そこから、2000年もの間、絶え間なく戦いに明け暮れたローマ人に思いを飛ばして、イメージを膨らませて作りました」

さらに岡田さんは、この短歌は当初「俳句」として作ろうとしていたという話も教えてくれました。

(岡田さん)
「愛媛は俳句のまちなので、私も俳句のサークルに入って楽しんでいました。
この短歌も、最初は句として作っていて、その出来はいまいちだったんですが、句の先生から『赤くつめたき火星』の表現が面白いので、推敲してみてはと勧められました。たまたま歌会始のテーマが『火』でもあったことを知って、短歌にしてみようと」

歌会始で披露された後、岡田さんの元に意外な人からはがきが届きます。
それが塩野七生さん、作家本人からでした。

塩野さん直筆はがき 「あなたの短歌を書斎の壁に張りつけました」とある

はがきには、編集者から短歌のことを伝え聞いた塩野さんが、歌会始に選ばれたことへのお祝いのメッセージが直筆で書かれていました。返信を送り、やりとりはその1回だけだといいますが、岡田さんははがきを大切にしながら、著作を読み続けてきたといいます。

それから10年以上がたった昨年。岡田さんは再び驚きます。
仲介者を通じて、突然「塩野さんが岡田さんに会いたいと言っている」との申し出があったからです。

(岡田さん)
「驚きと戸惑いとうれしさと、色んな気持ちがこみ上げました。一度もお会いしたこともないのに、よく覚えていてくださったなと思って」

松山に来た経緯

今回、塩野さんが松山で講演することになった経緯は、主催者である地元の「いよぎんホールディングス」が打診したのが始まりです。塩野さんの知人を通じて講演依頼の相談をしたところ、「愛媛であれば歌を作った岡田さんがいる。岡田さんに会えないか」と、話が進んだそうです。

手前が岡田さん 会場別室で対談

講演会のあと、岡田さんは塩野さんと初めて面会。

岡田さんが数々の作品を生み出したことに感謝を伝えると、塩野さんは「現代を生きている人の時間を少しもらって、(作品を通して歴史の世界に)連れて行く」、「フリーの立場で書いていますが、幸い印税に男女差はありません」などと応じていました。

塩野さんのタイトなスケジュールのなか、対談は予定を大幅に超えて30分以上におよびました。

「ローマ人の物語」にサインをもらう岡田さん

(岡田さん)
「どんな方だろうと緊張していましたが、エレガントでユーモアのある方という印象を持った。とても嬉しいです。頂いた本のサインは娘にも自慢しようと思います」

理由はほかにも

講演会では塩野さんが松山訪問を望んでいた他の理由も明かされました。

ひとつは、塩野さんの母が高松の出身だったことなどから、瀬戸内海を見てみたいと思っていたこと。

もうひとつは、松山出身の軍人・秋山好古に関心を抱いていたこと。
特に、陸軍大将としてトップに上り詰めた好古が退役後は故郷に戻り中学校の校長を務めたことに触れ、好古の「人生哲学」について独自の見解を語りました。

(塩野さん)
「私の想像では、彼は『死』を間近で見つめ、同時に『生』についても考えていたのではないか。死を広く深く見た人間が、『次の時代に出来ることがあれば』と校長になったのではないか」

このほか、ロシアによるウクライナ侵攻にも言及し「第二次世界大戦の過ちを経て共生の方法を探っていたのが欧州だったが、プーチンはそれを破った」「日本の私たちも許してはいけない」などと指摘。日本の安全保障や外交のあり方など塩野さんならではの鋭い視点を述べたほか、参加者との質疑応答では「著書の大ファンだ」という男性に対し「読んでくれるだけでうれしいです。(気持ちが舞い上がるので)作家を殺すのに刃物はいらないですね」と応じ、相好を崩す場面も。
2時間にわたる講演会は終了しました。

「松山は勉強できる環境」

著書のなかでは、今の政治や社会を一刀両断に厳しく批評することもある塩野さん。
一方で今回の取材では、物腰の柔らかさや繊細さも感じました。そしてひとりひとりの読者の感じ方や考え方に愛情を持って接している。そんな一面が見えました。

一人の人の歌をきっかけに訪問が後押しされたことを踏まえると、愛媛ならではの出来事にもみえます。

ちなみに塩野さんは、翌日の知事との対談の場で、短歌や俳句について、こんな風にも話していました。

(塩野さん)
「文章が短いからといって、『(意が)通じない』と言うことではないんですね。日本には短歌や俳句がある。私のように何も長い文章じゃなくても、要するに形式はなんでもいいんです、内容なんですね。だから(若い人は)少しお勉強をしてくれたらいいと思う。松山には、それを勉強できる、教えてくれる環境がたくさんある」

塩野さんは今回、数日をかけて四国に滞在し、各所を巡るということでした。
初めての松山への旅で、作家は何を感じたのか。
残念ながら直接お話を聞く機会はありませんでしたが、いつか著書に松山が登場することを一読者として期待したいと思います。

この記事を書いた人

荒川真帆

荒川真帆

新潟県上越市出身、08年入局。
長崎、大阪、社会部などを経て現在。文科省など教育取材を長く担当。
座右の銘は「愛ある野次馬根性」。現在は2歳児の主張に翻弄される日々です。