2022年4月28日

“支援の先に自立を” ウクライナから避難した人たちにできること

ウクライナから避難してきた1人の女性は、4年前とは別人のようにやつれきっていたと言います。

彼女を受け入れたのは愛媛県鬼北町出身の研究者、木村真三さん。
故郷を出て、家族と離れて暮らすことになった人たちと、私たちはどのように向き合っていくべきなのか。
木村さんが見据えていたのは、「支援」の先に「自立」を促すことでした。

(NHK松山放送局 清水瑶平)

別人のようだったオリガさん

4月5日、日本中の注目を集めながら政府専用機が羽田空港に着陸しました。
降り立ったのは、ウクライナから避難してきた男女20人です。

このとき、迎えに来た人たちの中に、木村真三さんの姿もありました。
木村さんについては、以前にも特集記事で紹介したことがあります。

>>ウクライナの写真が問いかけるもの 「思う」ではなく「考える」

木村真三さん

鬼北町出身で獨協医科大学の准教授を務めています。
20年以上にわたってウクライナのチョルノービリ原発事故の調査を続け、ウクライナの人たちと深く交流してきました。
今回の軍事侵攻を受けて支援のために奔走していて、避難者の受け入れの準備もしていました。
そして今回、1人目の受け入れが決まったのです。

木村さんが迎えたのはルヴァン・オリガさん(34)です。
キーウでIT機器販売の仕事をしていましたが、オフィスビルはロシア軍の攻撃によって崩壊し、スーツケース1つで避難してきました。

ルヴァン・オリガさん

「ウクライナに残っている両親や親戚、それに友人がどうしているか心配です。日本を自分の2つめの家のように感じられるようになりたい」

オリガさんは現地で剣道を習っていて、剣道の先生を通じて4年前に木村さんとも面識がありました。剣道の稽古に必要な単語以外、日本語はほとんど話せません。

両親は故郷に残ることを希望したため、たった1人での避難です。
木村さんが研究拠点としている福島県二本松市で生活することになりました。

私は今月14日、木村さんとオリガさんの2人に、リモートで話を聞きました。
木村さんはオリガさんとの再会したとき、驚きを隠せなかったと言います。

木村さん
「会った瞬間、誰だかわからなかった。そのくらいしょうすいしきっていました。本当に10歳くらい老け込んだように感じました」

オリガさん
「穏やかで平和な生活を失った人も、自分の子どもや両親が命を落とした人もいます。本当に困難な状況で、精神の安定を保つことはとても苦しかったです」

福島に重なった避難民たち

避難してきた人たちの姿を見て、木村さんはある記憶を思い起こしていました。
11年前に起きた福島第一原発の事故、そして、影響を受けた人々の暮らしです。

木村さんは福島の事故が起こって以降、チョルノービリだけでなく福島でも調査を行い、放射線量の測定を続け、現地の人に寄り添ってきました。
ふるさとを離れざるを得なくなり、分断された家族が、ウクライナから避難してきた人たちに重なったといいます。

木村さん
「あのとき、福島には避難勧告が出なかったけれども、自主的に避難をされた人々がたくさんいました。父親を福島に残し、母親と子どもたちが県外に避難するっていうケースが多くありました。そのときと、全く同じ状況が起きてるなっていうことを感じました」

笑顔を取り戻したのは“農作業”

たった1人で避難してきたオリガさんを、どう支えていくのか。
木村さんがまず行ったのは、故郷に近い環境を整えることでした。

オリガさんの生まれはキーウではなく、北部のチェルニーヒウ州にある農村でした。
そのため、農家を受け入れ先として探し、農作業を日常的に行えるようにしたのです。

木村さん
「ウクライナの人たちは非常に土を愛しているんです。やはり土に親しみたい、オリガさん自身も農業をやりたいということを常々言っておりましたので、なら農業で支援をしようということになりました」

ウクライナの人たちをよく知る、木村さんだからこその発想だったかもしれません。
木村さん自身もオリガさんに言われて草刈りを行い、くたくたになったそうです。

ジャガイモの収穫やブロッコリーの植え付け。
地元の人に教わりながら汗を流すオリガさんの表情は、見違えるように明るさを取り戻していきました。

オリガさん
「私は幼いころから農作業に慣れ親しんできました。強制されたわけではなく、望んでやってきたんです。農作業をすると、心が満たされると感じます。素晴らしい野菜や果物を収穫できるととても満足した気持ちになれるんです」

“支援”の先に“自立”を

次に木村さんが解決しようとしたのが、言葉の問題についてです。
地元の国際交流ボランティア団体に頼んで、今月16日から日本語教室を始めてもらいました。

互いに英語でコミュニケーションを取りながら、一生懸命に言葉を覚えようとしていました。
「覚えた日本語を聞かせて下さい」と私がお願いすると、オリガさんは笑顔で「おはようございます」「こんにちは」「おやすみなさい」「いただきます」と答えてくれました。「本堂」や「寺」という単語も話していましたが、これは剣道の時に覚えたのかもしれません。

木村さん
「支援というよりは自立ということができるようにさせる。2、3日面倒を見ることは多くの人に可能ですよね。でもそれをずっと1年2年3年と続けていって対応していけるかといったら、それは非常に難しい。だから僕は長期的な展望を持って付き合うということ、そういう責任を持たないといけないということを考え、行動しました」

ウクライナから避難する人はまだまだ増える可能性があります。

愛媛県でも、3月から県内に避難を考えている人から相談を受け付ける専用の窓口を設置しました。「住居の提供や就業支援をしたい」といった声も寄せられています。

実際、受け入れることになった場合に大事なことは何なのか、尋ねました。

木村さん
「もしかしたら自分たちにも同じことが降りかかるかもしれないということを考えてほしい。例えば愛媛の人たちであれば、この前の豪雨災害で大変なことがあった、そういった中で自分たちがどうしてほしかったかということを考え直していただいて、何をすればこのウクライナの人たちが幸せになるかということを、自分に置き換えてほしいと思います」

日本との懸け橋に

リモートの画面越しにも、元気が伝わるようになったオリガさん。
ただ、ウクライナのことに話が及ぶと、表情は曇りました。

オリガさん
「なぜロシアが私たちにあのように振る舞うのか、全く理解できません。私たちを『兄弟である』というならなぜ私たちを滅ぼそうとするのか。この戦争ができるだけ早く終結して、平穏な日々を取り戻せることを願っています」

オリガさんの両親や友人の多くは比較的安全な場所にいるということですが、軍に配属され、戦線にいる親類もいるということです。可能な限り連絡を取りながら、安否を確かめていますが、彼らのことが頭から離れることはありません。

それでもオリガさんは、故郷に戻らず、日本で生活を続けることを決意しました。

オリガさん
「もちろん、ウクライナに戻りたいという気持ちは強くあります。しかし、私は日本で生活を築いていきます。例えば、一方の国で働いてからもう1つの国に移って休暇を過ごすなど、そういう選択肢もあるかと思います」

そして、こう続けました。

オリガさん
「私が望むのは、日本で働いてウクライナとの懸け橋になること。お互いの国への理解を深めて、相手の習慣や文化への疑問を氷解させていくこと。そんな役割を果たすことを選びたいと思います」

ウクライナの人たちは、それぞれの事情と思いを抱えて避難してきています。
オリガさんのように第2の人生を日本で歩もうという人もいるでしょう。

そうした人に本当に必要なのは「支援」だけでなく、その先にある日本での「自立」を支えていくこと。

木村さんの言葉と行動は、その1つのあり方を示しているように感じました。

この記事を書いた人

清水 瑶平

清水 瑶平

2008年入局、初任地は熊本。その後社会部で災害報道、スポーツニュースで相撲・格闘技を中心に取材。2021年10月から松山局。学生時代はボクサーでした。