2022年4月19日

宇和島城は海だった?

視聴者の40代の男性からこんな投稿が寄せられました。
「宇和島城はもともと海に囲まれていたと知った。その時代の地理が知りたい」
宇和島城のまわりは海だった?松山市出身の私にも初耳でしたが、早速調べてみました。

(NHK松山放送局 西浦明彦)

古い地図が県立図書館に残されていると聞き、特別に見せてもらいました。
これは今から300年あまり前、江戸の元禄時代に宇和島の城下を描いた絵図です。
確かに城の西側は海に面し、堀には海水が流れ込んでいます。

しかし今、城の周りは完全に埋め立てられ、市街地が広がっています。
地元の人たちはここがかつて海だったことを知っているのでしょうか。
宇和島駅の前で地元の人に話を聞いてみました。

「知っています」
「なんとなく聞いたことがある」
「学校で習いました」

10人ほどに聞きましたが、ほぼ全員が知っていて、地元では常識のようです。

宇和島市教育委員会 西澤昌平 学芸員

まわりが海だった時代、景色はどう見えたのか。
宇和島の歴史に詳しい学芸員の西澤昌平さんに案内をお願いしました。
宇和島城の天守を目指し城山を上っていると、西澤さんが城と海が近かったことが分かる痕跡を教えてくれました。

それは石垣の石です。よく見ると表面にポコポコと穴が空いている石が散見されます。
西澤さんによりますと海の中で石に付着した貝が石の成分を溶かした結果、穴が空いてしまうんだそうです。

西澤学芸員
「宇和島では山で採れる石と海辺で採れる石は違います。城のふもとまで海だったので、岸に船を着けて、そのまま山に持ち上がったと考えられます。海が近かったからこそ、石垣にこういう石材が残っているのです」

どんな景色が広がっていた

城山の頂上、市街地を一望できる見晴らしのいい場所に来ました。
今は海に向かってビルや住宅が広がっています。

ここで市の観光アプリを起動すると、海に囲まれていたかつての景色をVR=仮想現実で見ることができます。

VR宇和島城~よみがえる伊達な城~(アプリ)

西澤さんによると、城のふもとには直接海に出入りできる門もあったそうです。
かつての宇和島城は海を生かした堅固な守りを誇っていました。

なぜここまで大規模な埋め立てをしたのか。西澤さんは宇和島藩主・伊達家の事情が大きいのではないかと推測します。

伊達政宗の長男で宇和島藩伊達家初代の秀宗は徳川家康から10万石を拝領します。
しかし秀宗が隠居した後、一部が3万石の吉田藩として分かれます。

その結果、宇和島藩の実質的な石高は7万石になってしまいました。
西澤さんによると10万石と7万石の違いは大きく、宇和島藩にとってはメンツに関わる問題だったといいます。

西澤学芸員
「10万石の格を持っていると、重い役目も負わされますが、周りからは一目置かれる立場でもあります。元々は10万石の役目を務めていた宇和島藩にとっては思うところがあったのだと思います」

もともとリアス式海岸地帯で土地が少ない宇和島で、7万石から10万石に石高を戻すには、海を埋め立てて新田開発するしか手がなかったのではないかと西澤さんは考えています。

今も残る昔の面影

次に昔の面影がよくわかるという場所に案内してもらいました。

交通量の多い市街地の道路です。西澤さんは道路表面の色の違いに注目しました。
目を凝らして見てみるとコンクリートの部分とアスファルトの部分に分かれています。
かつては海で新田開発で埋め立てられたこの場所。
西澤さんは水はけをよくするための水路が通っていて、コンクリートの部分の地下に残っているのではないかと見ています。

続いて、訪れたのは古地図に新田という文字がいくつも記されたこの地域。

城南中学校のグラウンド(宇和島市)

今では学校が建ち並ぶ文教地区になっています。
西澤さんは、これも新田開発の名残なのだと言います。

西澤学芸員
「学校の整備には広い土地が必要ですが、宇和島の市街地には武家屋敷や町人町があり、土地の確保が難しかったのです。広い土地を探すと必然的に新田開発した田んぼが候補になってきます。新田開発の結果が文教地区になったということが宇和島の特徴だと思います」

西浦の感想

宇和島城には観光でこれまでも何度か訪れたことはありましたが、正直海が近いという印象はありませんでした。
西澤さんは戦乱の世が終わり藩の政治が軍事より経済優先にシフトしたことも、新田開発の埋め立てが進んだ要因とみています。
自分の住んでいる町がどうして今のような形になったのか。ちょっと興味を持って調べると新たな発見がありそうです。
歴史に思いをはせながら街歩きをしてみると、見慣れた光景がいつもと違って見えるかもしれません。

この記事を書いた人

西浦明彦

西浦明彦

2005年入局。大阪局、首都圏局などを経て松山局に。妻と娘を前任地の高知に残して松山の実家で単身赴任中。20年ぶりの松山での生活を満喫しています。