三浦龍司選手(浜田市出身)インタビュー全文
こんにちは。アナウンサーの中原真吾です。
9月6日(月)放送の『しまねっとNEWS610』、皆さんご覧いただけましたか?
島根県の内外で活躍している方にお話を伺う「しまねっとーく」のコーナーで、浜田市出身の三浦龍司選手にお話を伺いました。
この記事では、放送ではお伝えしきれなかった部分も含めたインタビューの全文を文字にして公開します!
お時間ある時にご覧ください。
ちなみに、三浦選手の東京オリンピックのレースの見逃し配信・ハイライトはこちらからご覧いただけます。
https://sports.nhk.or.jp/olympic/sports/athletics/event/men-3000m-steeplechase/phase/atm033100/
Q東京オリンピック男子3000m障害入賞、三浦龍司選手にお話を伺います。よろしくお願いします。
Aお願いします。
Qまずは日本選手初の入賞おめでとうございました。
Aありがとうございます。
Q快挙を成し遂げて周囲からの反響はいかがでしたか。
Aすごくこれまで以上、これまでの大会以上に多くて、自分でもびっくりするぐらいというか。LINEの通知もすごく増えました。
Q何通ぐらい来たんですか。
A300通くらいきたので、返すのが大変でした。
Qうれしい悲鳴ですね。
そしてきょうはいま三浦選手の後ろにあります、(順天堂)大学の部活の仲間からもらったという寄せ書き入りの日本国旗を持ってきて頂きました。この日本国旗をもらった時はどうでしたか。
Aたくさんの寄せ書きをして頂きましたし、身内ネタみたいなユニークなコメントもあったので、部活の仲間らしくて元気をもらいました。
Qユニークな言葉というのはどういうものだったんですか。
A「転ぶなよ」という日本選手権の身内ネタを入れてくるようなコメントもあるので、緊張が程よく緩むというか、みんなが応援してくれているっていうのを感じる寄せ書きでした。
(三浦選手は東京オリンピック出場を決めた6月の日本選手権で、転倒しながらも日本新記録を出して話題になりました。中央上、青文字で愛のあるメッセージが書かれています。)
Q今となってはあの日本選手権の転倒はもういじられる話になっているんですか。
Aそうですね。だいぶいじられますね(笑)
Q結構いじられるタイプなんですか。
Aちょくちょく。日本選手権のことは特にいじられますね。大会出るごとに「転ぶなよ」って言われますね(笑)
しかも後輩に書かれているものなので、先輩の威厳が…(笑)
Qやはりそれは部活の仲間じゃないと書けないものですね。
Aそうですね。
Q改めてこの日の丸を背負って戦った東京オリンピックという舞台はどうでしたか。
Aシニアの国際大会という経験はこれまでなかったのですごく貴重でしたし、あの独特な空気感、オリンピックっていう4年に1度の舞台を経験することができて、自分でもすごい貴重な体験ができたなと思いますし、陸上競技者としてレベルアップというか、1つのポイントを踏むことができたなと思います。
Q予選のレース、日本記録をおよそ6秒更新する好タイムで、多くの人がテレビの前で驚いたと思うんですけれども、この予選の走りはどうして実現できたんでしょうか。
Aいろんな要因があると思うんですけれども、まず1つが予選1組目だったっていうのと、レース展開が自分たちの慣れているような国内レースに近かったレース展開だったっていうのもあると思います。自分の先頭の集団や選手をうまく使って、障害の飛び方のロスも少なく順調に進められていて、ラストもうまくスパート切り替えることができましたし、自分のいつも通りの走りをできたというのがこの結果につながったんじゃないかなと思います。
Qかなり予選のレースが終わった後は手応えはありましたか。
Aまさか予選レースから着順で通って、しかもタイムもあそこまで、(8分)一桁出すことができたというのは自分の中でも驚きでしたし、しっかり決勝につながる走りが出来たなという手応えはありました。
Qしかもこの予選のレースは全体でも2位のタイムでした。オリンピックが始まる前は決勝進出が目標というふうに話していましたが、実際この予選のレースが終わったあとメダルもいけるんじゃないかなと思いませんでしたか。
Aそうですね。メダルを目指したいなっていう気持ちは出てきましたし、そういった狙った走りをしていって積極的な走りをしていこうっていう気持ちは、予選レース終わってから出てきたかなと思います。
Q(決勝のレースでは)まず序盤でトップに立ちましたがこれはどういう判断だったんでしょうか。
A予選レースの再現をできるだけしたかったっていうのも1つなんですけど、うまいこと使われないようにするっていうのも1つで、できれば最初からリズムよくいって障害に対してロスがないように進めていって、後半のラスト1000m400mっていうところで、もう1度切り替えるっていうところで勝負をしたいなっていう思いがあったので、最初1000mで集団に潰されてしまわないための1つの対策として、前に出ました。
Qなるほど。ただ結果的にはその後順位を落とすことになります。海外の選手に追い抜かれていった時心境的にはどうだったんでしょうか。
Aじわじわというか、1000m~2000mの時点でどんどんどんどん離されていって、ある程度集団が分かれたというところで力関係みたいなところがはっきりしたなっていうのがあったので、視覚的なところもそうですけど、走っていてどんどん前にいかれる感覚が、やっぱり実力というか力の壁っていうものは感じました。
Q走りの内容自体も予選のレースとは何か違う感覚があったんでしょうか。
A最初の1000mの入りが予選に比べて遅かったですし、その後の中間層がかなり変動があったというところは違うところだと思いますし、自分の中では障害に対して無駄が多かったっていうのは大きな違いなので、予選に比べて決勝は何かとちょっと考えすぎたり、無駄なロスをする場面が多かったなと思います。
Qロスのところ、解説してもらってもいいですか。
A障害の越え方は大きく2種類あるんですけど、障害に足をかけて越えていく方法と足をかけずに短距離のハードリングのように素早く滑らかにいくっていう方法があるんですけど、前半ずっとぼくは足をかけるやり方で飛んでいたんですけど、そこにいくまで自分は片方の足でしか合わせられないので、なかなか臨機応変にっていうところが難しくて、つまってしまう場面があったので、予選レースではそういうことはなかったんですけれども決勝では少し目立ってしまったので、そういったところで1秒なくてもそれが積み重なって、タイム的にはロスしていたのかなって感じです。
Q決勝がある程度ゆっくり進んでいたことが障害を飛び越えることの難しさにつながったっていうことですか。
Aそうですね。滑らかにいかなかったり、テンポが合わなかったっていうのはある程度スピードが遅くなることで生じるものなので、そういう弊害はあったかなと思います。
Q今振り返ってこのトップに出るという判断は正解だったか、それともちょっとミスだったか、どういうふうに感じていますか。
A結果的に入賞することができたので正解だったと自分は思いますし、そこでトップに出ることでおじけづかないというか、集団には流されないぞっていう、後続というか海外の選手に対して意思表示じゃないですけど、できたのは何らかの抑制になったりすることもあるので、戦略的にいっても、正解だったんじゃないかなと思います。
Qそしてラスト1周を残したところでは入賞にはまだ1つ足りない9位だったと思うんですけれども、その時点では自分の順位は把握していたんですか。
Aそうですね。残り2周切ったあたりで順位は見ていましたし、先頭との差というか入賞圏内というところは1つの視野としてちゃんと見ていました。ラスト1周の時点で9位で、自分の前の選手が近かったというのもあったので、1つでも前、入賞はしっかりしていこうっていう気持ちはありました。
Qということはラスト1周が迫ったところでは入賞はいけるなというふうに感じながら走っていたんですか。
Aいやあ、どうなるか分からなかったのでイチかバチか、仕掛けてイチかバチかっていうところでした。
Q入賞に向けてはラスト1周どんな思いで走っていたんですか。
Aもうがむしゃらにというか。がむしゃらですけど国際大会で他の選手の余力具合が分からない状況なので、自分の自信のあるというか、競ったとしても負けないんじゃないかっていうところ、水濠を切ったあたりから仕掛けようっていうのは考えていました。
Q改めてレースを終えて世界のレベルというのはどういうふうに感じましたか。
A簡単に言えば強かったですし厚かったのはもちろんなんですけど、ケニアやエチオピア勢というのはオリンピックに出場出来なかった人たちも出場した選手と同じ競技レベルを持っているので、国内での選手層がまだまだ厚いですし、今後世代交代していくってなった時もまだまだ越えていかないといけない壁っていうのも多いです。個人としても(8分)一桁を出すことができたんですけど、一桁の前半を、しかも安定して出し続けないといけないっていう走力も、これから戦っていくならこうでいなきゃいけないっていう理想というか、最低限のラインみたいなものが見えてきたので、それは東京オリンピックを通じて感じることができたと思います。
Qそういう意味ではメダルへの距離、まだ遠いなと思ったかそれとも近いなというふうに思ったかどっちだったでしょうか。
Aパリオリンピックを目標にしていて残り3年で考えれば、遠くはないのかなと思うんですけど、決して近くもないですし、一筋縄ではいかないなっていうのは痛感しました。
Q今回は19歳で臨んだ初めてのオリンピックでしたけれども、オリンピックの緊張感・空気感というのはどうでしたか。
A独特でしたし隣に海外選手がいるっていう場面が今まで本当になかったんで、自分も背が小さいですし体格的な面でも予選はすごく圧倒されていたっていうのはありますね。
Q今回も浜田市ではパブリックビューイングが行われました。そのパブリックビューイングの映像も実際に見たそうですけれども、地元からの応援というのはどういうふうに感じましたか。
A懐かしい浜田JASのスタッフの方や自分の中学校の時の友達の姿も見ることができて、変わらずに応援してくれたり、中学校のときと変わらないような様子を見ることができたのですごく懐かしいなという思いと、離れた所でも応援してくれている人がいるっていうのがすごくうれしかったです。
Q映像を見たのは、どういうタイミングだったんですか。
A決勝の前だったと思います。今まで経験のないことだったので新鮮でしたし、コロナ禍でも応援してくれているってはすごくうれしかったし、決勝の前に見たので、決勝に対する意欲にもつながりました。
Q今回、東京オリンピックで入賞を果たしたことで「三浦龍司」という名前は全国により一層知れ渡ったと思います。三浦選手の今後の目標はどういうところに置いていますか。
A大きな目標としては、パリオリンピックでメダルを取るというところなんですけど、短期中期的な目標としては来年再来年の世界選手権に出場してまずは海外のレースに慣れていく、海外の独特なレース展開っていうところを経験していくっていうのも1つですし、1年を通して駅伝シーズンやロードシーズンもあるので、オリンピックっていう目標に向けての通過点として、それがトラックにつながることもすごくあるので、しっかりこなしていって最終的な目標につながるようにしていきたいと思います。
Qパリオリンピックで狙うメダルの色はどの色ですか。
A自分の中で一番の今の目標なので、そこは金でいきたいなと思います。
Qロードの話も出ましたけれども、三浦選手は箱根駅伝ですとかハーフマラソンとかいろんなところで活躍していますけれども、やはり本命は3000m障害ということなんですか。
Aそうですね。本命はさんしょー(=3000m障害)で譲れないかなと思います。
Qパリオリンピックの金メダルに向けてわたしたちも島根から応援しています。どうもありがとうございました。
Aありがとうございました。
投稿者:中原 真吾 | 投稿時間:18:18