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大泉町から宝塚トップスターへ 紫吹淳 2つのふるさとの情景

  • 2023年01月04日

大泉町に生まれ育った少女は、15歳で“ふるさと”を離れた。直線距離でおよそ400キロ。その土地、宝塚がその日から第2の“ふるさと”になった。いつしか「トップスター」と呼ばれ、それは、その場を離れた今も「元」が付いただけで消えない肩書きだ。

大泉と、宝塚。

義理人情と、きらびやかな舞台。

彼女の2つのふるさとの情景だ。

(前橋放送局記者 田村華子/2022年7月取材)

書くことができなかった 5か月

インタビューから5か月。私は紫吹さんをどう記事で描いたらいいのか、考えをまとめきれずにいた。宝塚ファン歴13年、青春を宝塚にささげてきたものの、20年近く前に退団した紫吹さんは、あくまでテレビや過去の舞台の映像の中の人。

画像提供:東宝演劇部

実際に目の前にした元トップスターは、気さくにたくさんの笑顔を交えてインタビューに答えてくれたが、どのような視点で、その有り余るほどの魅力を伝えればいいのか、の結論にはなかなか至らなかった。

発言を一言一句、文字にしたものを何度も読み返した。

そして、おぼろげながら見えたのは“今の紫吹淳”を形づくる「2つのふるさと」という視点だった。

“上毛かるた”が原風景

第1のふるさと、大泉町。

紫吹さんは、中学校卒業まで、ここで過ごした。幼い頃から習ってきたバレエを続け、中学生になると、発表会での相手役の男子生徒より身長が高くなった。「長身過ぎる」という理由で、バレリーナになる夢は諦めた。

子どもの時は「群馬の子ども」らしい生活を送っていたという。

ーーー群馬の思い出は

「赤城山にも、榛名山にも登りました。『太田金山子育て呑龍』にも行きました。上毛かるたに出てくる場所にはいろいろ行きました。また“焼きまんじゅう”は大好きですね。群馬にしかないじゃないですか。宝塚に入る時に、両親が焼きまんじゅうを持たせてくれたぐらいでした。上毛かるたも、もちろん持っています、今でも持っています。宝塚時代に、群馬出身の上級生がいたんです。廊下で『鶴舞う形の!』と言われるので『群馬県!』と群馬出身ならではの“合言葉”もあったくらいです」

“紫吹淳”誕生の裏側

「長身でもバレエなどが踊れるよ」

周囲からのそのひと言が、大泉町を離れて宝塚に向かうきっかけになった。「宝塚」は、それまで一度も見たことがなかった。しかし、宝塚音楽学校には見事“1発合格”だった。

人知れず、語ることもなかった苦労もあったはずだ。ただ、その日から「トップスター」への階段を一気に駆け上がっていった。

宝塚歌劇団の特徴の1つが“芸名”。
音楽学校を卒業して1986年に入団以来、彼女が彼女であることを示す“紫吹淳”という名はどう誕生したのか。

紫吹淳さん

「通常、音楽学校の2年目の夏休みに芸名を考えて、よくとしに、その芸名で初舞台を踏みます。一生懸命考えたんですが、希望が通らなくて…」

そう明かした上で、続けた。

「でも提出日になっちゃって、同期に『しぶき・れい』にしたらって言われたんです。ただ、あなた『れい』って顔じゃない、『じゅん』にしなって…じゃあわかった『じゅん』にするって」

ーーー同期の一声だった…

「そんな簡単に、適当につけた名前なんですが、36年使っています(笑)」

“第2のふるさと”数々のエピソードが

「紫吹淳」は、その日から、紫吹淳、本人のものだけではなくなった。

スポットライトを浴びた舞台から、その声で、踊りで、華やかな衣装で観客の心を揺さぶり、あすに向かう活力と、時に勇気さえ与え続けてきた。

日本中の人が知る“宝塚”=“第2のふるさと”。

そこでの思い出を語る時の紫吹さんは、大きくきらきらとした瞳を、さらに大きく見開いていた。
たとえば、舞台中の着替え。シックなスーツから、大きな羽根をまとった衣装に一瞬で変わり再び登場することに私は、心躍らされ、そして、いつも驚かされている。

「宝塚って1分あったら“早着替え”って言わないんです。“1分ある、大丈夫、大丈夫”みたい感じで」

ーーー1分!

「5人くらいのスタッフに、“ばーっと”身ぐるみはがされて、また“ばーっと”着させられて、とりあえず舞台に出て、舞台上で一息ついたり…」

当然アクシデントもある。

「はかまを着るシーンでは、ズボンみたいに2つ穴があるうちの1つに両足を突っ込んじゃったんですよ。そうしたら着たあと“あっ!歩けない!”ってなったことも(笑)」

最後まで背負う“看板”

入団から15年後の2001年。月組トップスターに上り詰めた。その後、その肩書きを背負い過ごした3年の思い出も、あっけらかんと語った。

「私、素がボーッとしているんですよ。トップスターになる方って、すごくしっかりしているんですよね。そういう(しっかり)風に思わせるのが大変でした…」

ーーー舞台上での苦労は

「退団公演でバンパイアという人間ではない役をやりました。永遠に生き続ける(役)で、舞台上で動き続けたことで、一番やせちゃいましたね、ずっと動いていたので」

誰もが得られるわけではない「トップスター」の称号。その「看板の重さ」について質問した時、紫吹さんの目が、心なしか鋭くなったように感じた。

「今でも“元・宝塚トップスター”という肩書きはとれない。退団したら背負うものはないだろうと思っていたんです。ただ、仮に私がもし、きょう亡くなったとしても“元・宝塚トップスター”という肩書きは、絶対に出るんだろうなと。最後まで背負う大きな看板だと思っています」

畑違いでも私は「わたし」

2004年に宝塚歌劇団を卒業後は、女優としてドラマや舞台に出演。“ふるさと”宝塚を一歩出れば、そこでは「一からのスタート」だったという。

ーーー新たに芸能活動をする上での苦労は

「宝塚で3年半トップスターをやらせていただいて、周りが、ちやほやしてくれたので、自分は“すごい人”だと思っていたんですよ。ただ、女優としては一からやらなければならず、私のことは誰も知らないと感じていました」

その“紫吹淳”の名が再び広く知られるきっかけになったのは、意外にもバラエティー番組。10年ほど前から畑違いと言える場所での出演が増えたが「もともと出たくないと言っていた」という。

きっかけをくれたのは、ファンの間では知る人ぞ知り、紫吹さんが“ばあや”と呼ぶマネージャーだった。

「“ばあや”に“はめられて”番組に出るようになったんですよ…でもやらせていただくうちに“楽しいな”と思って。新しい扉を開けさせてもらえました」

ーーーバラエティー番組をきっかけにファンになった方もかなりいると思う

「宝塚ってやはり夢の世界で、ちょっと手の届かない感じがある中で“親近感を感じる”と言っていただくことが多いです。バラエティー番組での私も含めて『わたし』です。私の一部分、ということで応援していただけたらなという思いに、どんどん変わっていきましたね」

活躍の場を広げながら、でも、紫吹さんが大切にするのはやはり“舞台”だ。舞台の魅力について独特の表現を交えて語った。

画像提供:東宝演劇部

「舞台ってやっぱり『生』。『生』でお客さまからエネルギーをいただいて、そのエネルギーをお返しして。劇場の空間が“エネルギー交換”みたいな、循環していく感じが舞台の醍醐味かなと思います。テレビなど映像の感動とはまたちょっと違う感動が味わえます」

観客のエネルギーを得て、さらにパワーアップした自分が、観客にエネルギーを与える。
その「紫吹淳」の展望を語る時に、繰り返したのは第2のふるさと=「宝塚」というワードだった。

「紫吹淳は宝塚で生まれて、宝塚で育ててもらいました。宝塚も(2024年で)創立110年で、まだまだ歴史が続くと思います。先輩として、後輩の子たちに“先輩が頑張っているな、私も頑張ろう”と思ってもらえるような先輩の姿であり続けたいなと」

“第1のふるさと”心根はそこに

真の生まれ故郷である大泉町は、15歳で出て以来、様変わりした。今、人口のおよそ2割が外国人が住む街になった。

ーーー国際色豊かになったなという感じは

「ご近所さんも、ブラジルの方がお住まいになっていますし、実家に帰った時に、ポルトガル語が書かれたお店の看板がありました。ふるさとが“あれ?いつの間に?”という感じです」

大きく変化する“ふるさと”。でも、心根は、間違いなくそこにある。

「群馬の皆さんへのメッセージを」と求めた私に対して、発したひと言目は「今でも持っている」という「上毛かるた」だった。

「上毛かるたにいいことが書いてあって、群馬の方は、かるたそのままの県人だなと思っています。義理堅くて、根性があって、働き者で」

力あわせる二百万(およそ200万の県民全員で力を合わせていこうという札)」

雷と空風 義理人情(=らいとからっかぜ ぎりにんじょう/群馬の気候と群馬県民が義理人情に厚いことを表した札)」

こうして描写される群馬の県民性にも触れて、さらに思いを語った。

「上毛かるたに詰まった群馬のいいところを胸に、私も前に進んでいきたいと思います。群馬県で暮らす、みなさんも県人としての誇りを持って明るく楽しく過ごしてほしいです」

明るさ、品、自信、そして誇り

「ふるさとの良さは、離れたからこそわかる」とよく聞くことがある。

15歳で離れた“第1のふるさと”に対し、遠く宝塚から、どんな思いをはせていたのだろうか。その点を聞く時間はなかったが、“2つのふるさと”への思いの強さが、30分のインタビューで強く印象に残ったのは事実だ。

初めて目の前にして感じた「紫吹淳」をあえて短いことばで表現させてもらえば、「明るさ」「」「自信」だった。

映像の中の世界の彼女そのままの「明るさ」。
常にピンと張った背筋と丁寧なことばづかいを崩さない「品」。
そして、その生き方や女優という仕事について迷いなく話す様子にかいま見えた「自信」。

それらのベースにあるのが、2つのふるさとで培われた「紫吹淳としての誇り」だと感じた。

 

  • 田村華子

    前橋放送局記者

    田村華子

    2021年入局。県政担当。12歳に宝塚に一目ぼれしてから、13年間にわたり宝塚ファン。

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