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太田市出身 斎藤佑樹が語った「群馬愛」経営者としての再出発

  • 2022年04月25日

斎藤佑樹さんが早稲田実業のエースとしてチームを初優勝に導いた時、25歳の私(記者)は9歳。野球少年でなかったこともありますが、失礼を承知で率直に言えば「“ハンカチ王子”と呼ばれて注目されている人がいる」。その程度の印象しか残っていませんでした。

斎藤さんが生まれ育った太田市の支局で取材を進めている私。

引退した今、群馬にどんな思いを持っているのかを聞きたいと申し込んだインタビューの第一声は、斎藤さんの私に対する意外なひと言から始まりました。

(前橋放送局記者 中藤貴常/2022年1月取材)

“なで肩”の記者に

めっちゃ、なで肩ですね

白い歯を見せながら話した斎藤さんは、カメラが回っていてもいなくても、とにかく爽やかでした。

“ハンカチ王子”と呼ばれ甲子園のマウンドで脚光を浴びた高校3年生は今、33歳。11年の現役生活に終止符を打ち、新たな道へ歩みを始めたことしの年始。彼が見せたのは「強い自立心」そして「強い群馬愛」でした。

“ハンカチ王子”と呼ばれて

斎藤さんの冒頭の「ひと言」のおかげで、インタビューは終始、和やかな雰囲気で進みました。ですので、私も直球の質問をすることができました。

高校時代、われわれ報道陣がその「一挙手、一投足」に注目した日々について。その後、大学、プロと進む中での報道陣との向き合い方について。

斎藤佑樹さん
「(報道陣が)煩わしい時もありましたね。甲子園の時にハンカチを使ってそのハンカチに対してフォーカスされた。本当はやっぱり野球選手として“結果”にフォーカスしてほしかった。ただ、スポーツビジネスという風に考えていくと、メディアの方たちがいて成り立つことだと思うんですよね。そのおかげでこうやって野球が成長してきたということはあると思うので。やっぱりメディアの方たちと共存していく、という言い方が正しいのかは分かりませんけど、メディアの方たちの力をうまく使いながら、やってこれたかなって思います」

プロで11年、必ずしも思ったような結果は残せませんでした。それでも“結果”を求める姿勢に対する“自負”をのぞかせました。

「2020年の秋頃に肘を痛めて、もう2021年シーズンで肘のこともあるし結果が出なかったらやめよう、ここで区切りつけようと思っていました。本当に野球馬鹿と思われるかもしれないんですが、本当に野球が大好きで、最後の最後まで2021年のシーズン、ふた桁勝利できるんじゃないかと。そのためにトレーニングを積んで練習もしてきたので(ふた桁勝利できる)その思いが最後までありました」

斎藤佑樹=経営者

“結果”は思ったように残せなかったけれど“結果”を追い求め続けた自分は誇れる。なので、引退セレモニーでは胸を張りました。

「やり続けてきたことに後悔はありません」

早速、第2の人生に向けて動き始めました。去年12月、会社を立ち上げたのです。その会社名が話題になりました。その名も「株式会社斎藤佑樹」。込めた思いがありました。

斎藤佑樹さん
「早稲田実業、早稲田大学、北海道日本ハムファイターズ。どこかで守られていたんですね。誰かに守られ、どこかに所属している“斎藤佑樹”じゃなく、自立した“僕個人”を出していきたいなと。だからこそ、できないこともたくさんあるし、責任もすべて自分に返ってくる。その分できることもきっと増えるはずだし、その覚悟を持ってやっていくと決めました」

33歳、本当の自立の時でした。

経営者となった今、会社で具体的に何を進めていくのかはまだ模索中です。自身の経験をや発信力を生かし、ビジネスとして野球界はもちろんスポーツ界の発展や環境整備をしていきたいという思いがあるといいます。

「野球を中心としてスポーツをよりよい形にしたい。もちろん最初はメディアの方たちを通して発信していくことも多いと思うんですけど、ただそれだけではなく、スポーツがよりよくなるために、何かいろいろなビジネスを考えていきたいなと思っています」。

斎藤佑樹=考える人

経営者として“考え”を巡らせることが多いここ最近。その原点は地元での日々にあります。
小学1年生で野球を始めた斎藤さん。幼いころから“好奇心の塊”のような少年だったと振り返ります。

斎藤佑樹さん
「好奇心は、昔からあったと思いますね。物事に関して“これってなんでこうなってるんだろう”というのがすごい多くあった。ただ歩いているだけで“なんでこの石って、ここにあるんだろう”とか。その“なんで”というのを見つけるのが好きで、だから体のこともそう、野球を取り巻くいろいろなこともそう。その“なんでだろう”を突き詰めていくとやっぱりみんなが求めてるものにつながるんじゃないかって(今も)思っています」

地元の中学校の軟式野球部で過ごした環境も、斎藤さんの今を形づくっています。

「中学3年生の時に、チームメートが本当に少なかったんですよ。紅白戦も出きないような人数でした。でもその中で選手みんなで知恵を出し合いながら“勝つためにはどうしたらいいか”という戦略を練ることがすごく楽しかったのは記憶していますね。それがその先の人生において“考える力”を身につけさせてくれたんじゃないかなと思っています。確実にあの小中学校の9年間がなかったら、今の僕はない。環境も含めて、素晴らしい場所で野球をやらせてもらったなと考えています」

持ち前の好奇心から生まれる、考える力。今後の経営へのヒントにつながり始めています。

野球一筋だったこれまでの生活。引退後は、ほかのスポーツへの関心が高まっています。
去年12月には地元・太田市が本拠地のバスケットボール男子、Bリーグ・B1の群馬クレインサンダーズの試合を初めて観戦しました。

「野球から離れて、いろいろなスポーツを見たときに、野球ってもっとこうしたらいいなというアイデアが生まれてくるかもしれません。まさにこの前バスケットを見たとき(会場での)光や音楽の使い方は、見ているファンとしてはすごく楽しかった。これを野球に使えたら、どう変わるんだろうって思いました。外から見ることによって野球界に対して還元できることもあると思う」

斎藤佑樹=群馬県民

斎藤さんが語った第2の人生。その多くを占めたのが地元・群馬への「愛」でした。

斎藤佑樹さん
「やっぱり自分は群馬県民なんだと。生まれ育った故郷に何か恩返しはできないかと、ずっと思っていました。ただ選手であるうちは結果が大事ですし、そのためのトレーニングをしないといけなかった。それが今、やっと自由に動ける時が来た」

去年、群馬県が注目されたのが、その「魅力度」。
民間の調査でランキングが低かったことが話題になりました。
そのことを尋ねると「あえて群馬県出身の僕だから言いますけど…」と少し語気を強めました。

「やっぱり群馬県の魅力ってたくさんあるのにまだ知ってもらえてないところがあると思うんですね。温泉がたくさんある、スキー場もたくさんある」

だから、みずからの発信力が生かせると考えています。

「“群馬に足りないものはこれだ”“じゃあ斎藤佑樹にできることはこれだ”ということをマッチさせられたら何かできるんじゃないかなって。よくも悪くも現役時代からたくさんのメディアの方とお付き合いさせてもらっていて、僕が発信力を持っている、と言うとおこがましいですけど。それでも少しは(発信力が)あると思うので、それをうまく使いながらやっていきたい」

群馬と自分。言葉を重ねる中で、壮大な夢も語っていました。

「野球人として、いつかやっぱり野球場をつくりたいですね。それが本当にかなわない夢かもしれないけれど。東京からもさほど離れていない、そして、広い土地がある。それを考えたらスポーツをするためにはすごく“もってこい”の場所だと思う。群馬だったら可能性としてはあるんじゃないかな、と考えています」

そう話しつつ「でも1番は…」と続けました。

「自分の周りにいる人たちが笑顔になるようにやっていきたい。なおかつ、そのもっと周りにいる人たちが楽しく過ごせるように…。すごく漠然とした答えなんですけど、でも本当に身近な人たちが楽しく幸せに過ごせるように、努力したいなと思います」。

取材を終えて

「周りの人が、笑顔で、楽しく」

かつての甲子園のスターが、なんだかとても身近な存在に感じました。

斎藤さんが、熱く、熱く、語った30分間あまりのインタビュー。その中で、斎藤さんが「あの甘塩っぱい味付けが好き」と語ったのが地元・太田では有名な「焼きそば」についてでした。てれくさそうに話すその姿が、太田に戻っても目に焼き付いていた私。早速、その日の夕食は「甘塩っぱい焼きそば」をいただきました。

  • 中藤貴常

    前橋放送局 記者

    中藤貴常

    警察・司法を2年あまり担当後、現在は両毛広域支局で行政・スポーツなどを幅広く取材

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