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これまでの放送 2017年9月1日(金)の放送

『浜辺の歌』の成田為三 口ずさめば、誰もが懐かしい気持ちになる日本の名曲「浜辺の歌」。
今から100年前、秋田出身の作曲家、成田為三(1893-1945)によって
作られた。
この曲があまりにも有名な成田ですが、その人物像はあまり知られて
いない。激動の時代、戦争の波や病によって、運命に翻弄され、
消し去られてしまったひとりの作曲家の人生を掘り起こす。
『浜辺の歌』の成田為三
口ずさめば、誰もが懐かしい気持ちになる日本の名曲「浜辺の歌」。今から100年前、秋田出身の作曲家、成田為三(1893-1945)によって作られた。
この曲があまりにも有名な成田ですが、その人物像はあまり知られていない。激動の時代、戦争の波や病によって、運命に翻弄され、消し去られてしまったひとりの作曲家の人生を掘り起こす。

「音楽少年、ヒットメーカーになる」

音楽とは無縁の一家に生まれた為三が本格的に音楽と出会ったのは、師範学校に入学後のこと。すっかり音楽の虜になった為三だが、“音楽で食べる”事など都会でも通用しなかった時代。本当の夢をひそかに胸に抱き、地元の小学校に教師として赴任した。音楽の授業以外の時間もバイオリンを持ち込み、歌を教えるなど自由な行動で子供達の人気者になった為三だが…音楽への道が諦めきれず、わずか1年で退職。こっそり受験していた東京音楽大学に見事合格した為、上京する。東京ではドイツ帰国直後の山田耕筰に師事しすぐに才能を開花させた。その在学中に書いた作品こそ、処女作にして初ヒットとなった「浜辺の歌」である。

本格クラシック作品への挑戦、そして葛藤

20代の間、児童雑誌「赤い鳥」専属の作曲家として多くの童謡曲を生み出し、大活躍していた為三。33歳になると「西洋の優れた作曲法を日本の旋律に応用させたい」と音楽の最前線ベルリンへ渡った。5年間の留学を経て学んだ西洋音楽の技法を日本に伝えようと、意気込み帰国した為三だが、持病が悪化。楽壇での活躍を断念し、世間がもつ“童謡作曲家”という印象を払拭するかのように、器楽曲や管弦楽曲を次々に書き上げていった。しかし、時代のなかでその音楽は評価されない日々が続いてしまうのだった。

再起~西洋音楽の技術をニッポンへ!~

自身は子供に恵まれることはなかったが、大の子供好きだった為三。人付き合いが苦手で、帰国後に作品に批判を受けてからはさらに内向的になり、書斎に閉じこもっていた。そんな彼の唯一の楽しみは、学校から帰ってきた近所の子供達と一緒に遊ぶこと。その様子を見ていた弟子が「もう一度、子供達の為に曲を書いてみては」と口にしたことがきっかけで、為三は再始動する。ドイツで学んだ作曲の真髄、対位法のひとつである「カノン」を合唱に組み込もうと考えたのだ。「和声を重んじる日本の合唱曲は、男子やアルトは単なる伴奏にさせられるだけである。それじゃ誰も面白くない。子供たちは皆、主旋律を歌いたいんだ。音楽は楽しくなきゃいけない。」現在の学校の合唱コンクールでも多くの楽曲にみられる「輪唱」は、こうして日本の音楽教育の場に登場したのだ。

足かせだった、あの曲への再挑戦

まだ本格的な作曲法を学んでいなかった頃の作品として「浜辺の歌」が世に出続けることを嫌っていたという為三。しかし誕生から26年後、自身の原点であるこの曲と向き合い、7つの変奏からなる器楽曲へと生まれ変わらせた。シンプルな旋律の様々な変奏への移り変わりに、為三が辿った波乱万丈の人生の歩みが重なる。「浜辺の歌変奏曲」は、その大半が東京大空襲で焼失してしまった為三作品のうち、1984年に発見された貴重な作品である。番組では初演者である小原孝さんが30年ぶりに演奏する。

ゲスト

片山杜秀(政治学者・音楽評論家) 片山杜秀(政治学者・音楽評論家)

片山杜秀(政治学者・音楽評論家)

慶應義塾大学法学部教授にして
近代日本音楽のエキスパート

楽曲情報

浜辺の歌変奏曲
成田為三
小原孝(ピアニスト)

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