熊本地震のリアル 女性たちの熊本地震
『わたしのせいだ』

「もしも・・・あのとき・・・」 あの日、女性は4歳の娘を亡くしました。「私のせいだ」と、ずっと自分自身を責め続けてきました。「どうしてもっと優しくできなかったのか・・・」 あの日、女性は母親を亡くし、自宅を失いました。ずっと後悔し続けてきました。おととしの熊本地震。家族、仕事、そして日常が奪われました。絶望の中にいた彼女たちの救いとなったのは多くの人たちのやさしさでした。「今度は私たちがみなさんの力になりたいー」 大阪の被災者と当時の自分を重ねながらメッセージを寄せてくれました。

(NHK熊本 杉本宙矢 高橋遼平 本庄真衣)

坂田由理子さん


熊本県益城町で被災 熊本市のみなし仮設で暮らす

ふいに目にしたニュースに動揺しテレビの電源をとっさに消してしまいました。

大阪北部の地震。家のなかにいた80代の女性が物の下敷きになって亡くなったと知り、熊本地震で亡くなった92歳の母親と重ね合わせてしまいました。

苦しそうな母のうめき声。2階で寝ていた自分は生き残り、1階の母は建物の下敷きになり死にました。

いまも後悔していることがあります。付きっきりの介護のなかで母は「長生きしてごめんね」が口ぐせになっていました。

どうしてもっと優しくできなかったのかな。ぎゅっと強く抱きしめて、「長生きしてほしい」って心からの思いを伝えられなかったのかな。あの地震がなかったら、いつか伝えられたはずの、当たり前の気持ちだったのに。

自分を責め続けてきました。母と過ごした思い出の家も跡形もなく壊れていました。「何もかも失ってしまった」。どん底でした。

それでも、ここまで生きてこられたのは、たくさんの手助けのおかげでした。母の救出にあたってくださった警察、消防、自衛隊のかたがた。丁寧に探してくださり、本当にありがたかった。

り災証明の申請に訪れた益城町役場には笑顔で対応してくださる職員のかたがたがいました。みなさんだって被災して大変だろうに。そう思うと、その笑顔に目いっぱいの人の優しさを感じ、少しだけ救われました。

今回、被災したかたがたもさぞかし心細く、不安に感じていらっしゃると思います。でも、時間が経てば、つらい日々も少しずつ、少しずつ、やわらいでいきます。

ご家族を亡くされた方、どうかご自身を責めないでください。大災害の前ではどうにも出来ないことがあるんだと、私もいまは、少し、思えるようになりました。

中村貢榮さん


益城町の自宅が全壊 熊本市のみなし仮設で暮らす

大阪の地震の話を聞き、災害の怖さを改めて感じました。

熊本地震のあと私は避難所でおよそ4か月過ごしました。その後、隣の自治体のみなし仮設で避難生活を送っていて3回目の夏を迎えます。自宅の再建工事が始まるまでにまだあと2、3年かかると言われ不安な気持ちで毎日過ごしています。

地震が起きるまでは、普通に暮らせることが当たり前だと思っていました。住んでいた益城町には、近くに母が住んでいました。母の家も自分の家も解体してしまったので、いまは更地になっています。たまに見に来るのですが、見るたびに悲しくてつらい気持ちになります。

以前は母と毎日のように会って、近くのお寿司屋さんで一緒にご飯を食べに行ったり買い物に出かけたりしていました。しかし、「熊本は余震も多くて不安だから」と、母は私のきょうだいのいる福岡に移りました。母とも会えず寂しいです。

誰かに相談したいことがあった時に、なじみの人に会えなかったり頼れる人が近くにいなかったりするので、ひとりでいる時間が増えました。眠れなくなったり体調が悪くなったりしました。なかなか病院に行く気にもなれませんでした。

でも、みなし仮設の支援員の方にお世話になって、今はちゃんと病院にも通えるようになりました。地震から2年たって、少しは前向きになれたのかなと思っています。

壊れた家の片付けや生活支援の面などで全国のかたがたにお世話になり、たくさんの人の力を借りてなんとかここまで頑張って生活できています。

みなさんがそれぞれ大変な中で、なかなか「助けて」と声をあげにくいと思います。それでもできるだけたくさんの人に助けてもらって下さい。困った時はお互い様。いまは、そう思えるようになりました。

宮崎さくらさん


熊本県合志市 宮崎花梨ちゃんの母親

私の娘、花梨が亡くなったのは病院でした。

“大阪で震度6弱ー”。テレビに映った病院の様子を見て、あのときのことがフラッシュバックしてきました。

「福岡の病院しか受け入れ先はありません。移動中に心臓が止まるのも覚悟して下さい」

主治医の沈痛な言葉に、不安で胸が張り裂けそうでした。当時4歳の娘は重い心臓病のため人工呼吸器をつけ、透析も行っている不安定な状態で運ばれ、なんとか転院先までたどり着きました。

しかし、日に日に容体は悪化、5日後に息を引き取りました。それからというもの、私の目の前は真っ暗になりました。

「手術が終わったら幼稚園に行こうね」 果たせない約束に胸が締め付けられ、誰も着ることのない制服を眺める毎日。

「もしも・・・あのとき・・・」「わたしのせいだ」

後悔だけが頭の中で渦巻き、自分を責めました。当時の私は誰の言葉も受け入れる余裕がなく小さな子どもが元気に遊ぶ姿が目に入ると、涙が止まりませんでした。

何が起きたか理解できず、言葉がうまく出てこなくなりました。それでも私にとって救いだったのは、ひと言ひと言に耳を傾けてくれる人たちがいたことです。

小さな体で手術を乗り越え、過酷な環境での移動を耐え抜いた娘の頑張りを思えば、私が辛いというのは些細なこと。娘に「お母さんすごいね」って褒めてもらえるよう、精いっぱい生きようー。2年経った今ようやく、少しずつ、そう思えるようになりました。

これから続いていく日常や現実は辛いかもしれません。逃げたくなるときもあると思います。そういうときは、逃げていいのだと私は思います。私も逃げたり、避けたりしながらなんとか生きています。

被災した辛さ、大切な人を失った悲しみ、簡単に「わかる」とは言えません。けれど、最も辛いことは誰にも顧みられず、忘れられることだとこの2年で私は痛感しました。

だから、私たちは見ています。一緒に助け合っていきましょう。みなさんは1人ではありません。

伝え続ける

私たち、熊本放送局の記者も2年前、地震の恐怖を経験しました。

徐々に記憶が薄れる中、何をどう伝えていくべきか。私たちが出した答えのひとつは、取材を通じて「被災地をつなぐ」ということでした。

これをきっかけに何か一つでも新たなつながりが生まれることを祈りつつ、被災地に寄り添って伝え続けたいと思います。

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