― 西南戦争最大の謎 熊本城炎上に迫る ―

大河ドラマ「西郷どん」の主役、西郷隆盛率いる薩摩軍と政府軍が戦った日本最後の内戦、西南戦争。シリーズ「西南戦争」の2回目はこの内戦の最大の謎とされる熊本城炎上の真相に迫ります。申し遅れましたが、前回に続き、西南戦争の取材をしつこく続けている熊本放送局記者の正亀賢司がお伝えします。

― 熊本城天守閣炎上 ―

明治10(1877)年2月19日午前、突如、熊本城の天守閣から火の手が―。
それは、西郷隆盛率いる薩軍が熊本に迫る中、政府軍の出先機関・熊本鎮台が篭城の準備を進めていた時のことでした。この火災で、天守閣と本丸御殿は焼失します。

― 熊本城とは ―

熊本城は、戦国屈指の猛将で築城の名人とされた熊本藩初代藩主、加藤清正によって築かれました。熊本城は天下の名城とうたわれました。この写真は焼失前の天守閣を撮影した貴重なものです。

― 篭城準備を急ぐ熊本鎮台 ―

鹿児島を出発して北上する薩軍約1万3000人に対し、鎮台側は3000人余り。熊本鎮台司令長官の谷干城は、熊本城に立てこもる篭城戦を決意します。谷の指示のもと、鎮台兵は篭城戦のために武器や兵糧を運び込むなど準備を進めていました。

― 真相は闇の中・・・ ―

ところが、突然、天守閣から火が出ます。2月19日の昼前に出火したこの火事で熊本城の天守閣と本丸御殿が焼け落ちてしまいます。天守閣とは城の象徴であり、当時の熊本城天守閣には鎮台の中枢機能があったとされています。なぜ天守閣から出火したのか、その原因は今も特定されていません。そして、今もその原因について論争が続き、熊本市では去年、、その謎に迫るシンポジウムまで開催したぐらいです。

― 出火説は主に3つ ―

主な出火説は3つです。1つは熊本鎮台が自ら火を放った「自焼説」です。もう1つは、どこからともなく火がついてしまった「失火説」。残る1つは、薩軍のスパイ、もしくは薩軍に内応した鎮台兵による「放火説」です。
では、この3つの説について検証していきます。そして、いよいよ結論が・・・。

― 自焼説 ―

まずは鎮台が自ら火を付けた「自焼説」です。
この説を有力とする専門家や研究者は多くいます。その1人の熊本城顕彰会理事の富田紘一さんに、自焼説が有力とする根拠を聞きました。富田さんは昭和42年から平成12年まで熊本博物館の学芸員を務めるなど長年にわたって熊本城の調査・研究を続けています。富田さんは、鎮台が自ら焼いた理由として、「天守閣は敵の攻撃の一番の目印となるため、そうなることを防ぐために事前に燃やしたのではないか」と指摘しています。

― 発掘調査で出なかった“証拠物” ―

そもそも熊本県権令(現在の熊本県知事)から政府への最初の電報の内容は「本日十一時十分鎮台自焼セリ」というものでした。

その上で、富田さんは、天守閣や本丸御殿の発掘調査であるものが見つかっていないことが、自焼説を裏付けるとしています。あるものとは焼けた米、炭化した米です。この時、天守閣周辺には篭城戦のために必要不可欠な兵糧が集められていたとされています。富田さんは「自焼で決まりだと最も思ったのは、焼けた米が発掘調査で出てこなかったことだ」とし、鎮台が兵糧を運び出した上での計画的な火災で、米は燃えていないから炭化米も出てこなかったと見ています。さらに、通常であれば火災の原因を調べるはずの鎮台や政府が原因究明をした形跡がないことも、自焼説を有力にしていると富田さんは考えています。

― 失火説 ―

一方、篭城戦に参加した鎮台兵の日記など膨大な史料や文献を読み込んでいる大阪大学名誉教授の猪飼隆明さんは、失火が一番妥当だと主張しています。

― 失火説の理由は日記の記述 ―

猪飼さんが注目するのは、兵糧の管理責任があった熊本鎮台の会計担当者の日記です。「焼失後、糧米を調査」などと書かれたこの日記には、火事で兵糧が焼けてしまい、鎮台があわてて米などの食糧を買い集めたと書かれています。

計画的な火災であれば、兵糧を運び出した上で火をつけるはずだ―猪飼さんは、火事で兵糧が焼けてしまった上に、兵器も慌てて移動させたとする日記の記述もあることから、自焼説はありえないとしています。その上で、薩軍のスパイによる放火も「記録がない」などとして否定し、失火説を支持しています。

― 放火説 ―

では、放火説についてはどうでしょうか。篭城参加者の中には、「逃げた者がいたが、放火したのは彼らではないか」「賊の仕業だろう」と、薩軍のスパイ、もしくは、薩軍に内応した鎮台兵が放火したと推測する日記を残している人もいます。理論的には可能だとする専門家もいますが、放火だと決定づける明確な証拠は見つかっていません。

― 当時の人たちは城をどう見ていた ―

3つの説を検証し、いよいよ結論を出したいと思いますが、その前に当時の人たちが炎上をどう受け止めたかを紹介します。こうした熊本城炎上の論争は今も続いていますが、その熊本城はおととしの熊本地震で大きな被害を受け、20年かけて復旧が進められています。今でこそ熊本県民のシンボルとなっている熊本城ですが、当時の人たちは熊本城炎上をどう見ていたのでしょうか。

熊本博物館の木山貴満さんによると、当時の熊本の人たちの日記に、熊本城下に住んでいた人たちの間でもその出火原因について、「自ら焼いた」「薩軍に騙されて肥後の侍が焼いた」などの様々な噂が出ていたことが記されているということです。

ただ、熊本の人々にとって城が炎上したことで共通したもの、それは自慢の城が焼けたことへの衝撃でした。木山さんは、残されている熊本の人の日記から「熊本城は熊本県民にとって当時も自慢の城で、その城が炎上したことはショックな出来事だったのだろう」と話しています。熊本生まれで炎上を目撃した後の陸軍軍人、石光真清も、その手記「城下の人」で、石光の父親が激怒しながら目に涙をためていた様子や多くの人が泣き、中には「恐ろしいことです」と念仏を唱えている人もいたと記しています。

― 今も昔も熊本のシンボル・熊本城 ―

140年前は火災で、おととしは地震で被害を受けた熊本城に、多くの人がショックを受けました。それは今も昔も、熊本城は天下の名城であり、熊本の象徴だからでしょう。
では最後に結論を出します。
出火原因は・・・取材継続で勘弁していただければと思います。いずれ真相を突き止めるべく、これからも復旧を含めた熊本城のあれこれを取材していきます。

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