― 日本最後の内戦、西南戦争から140年 ―

西南戦争とは・・・
明治維新の英雄、西郷隆盛率いる薩摩軍(以下、薩軍)と明治政府軍(以下、政府軍)が戦った西南戦争。1877年(明治10年)2月から9月の約7か月間にも渡って戦われたこの戦争は、西郷の自刃で薩軍が敗北して終わります。両軍の戦死者は実に1万4000人に上ります。西南戦争は、明治時代初期に起きた不平士族(武士)の最後の反乱であり、日本史史上最後の内戦でもあります。
2017年(平成29年)は西南戦争から節目となる140年でした。戦争から140年を迎えてなお、ゆかりの地では慰霊する動きがあり、そして今も残る謎があります。こうした動きや謎、さらにはあまり知られていないエピソードなどを追いかけ、西南戦争とは何だったかについて迫っていきます。

― 西南戦争と熊本 ―

1回目のテーマは、西南戦争と熊本です。
薩軍が戦ったことから戦場は鹿児島というイメージを持たれる方は多いかもしれませんが、実は戦争開始からの約3か月半は熊本が舞台でした。そして、西南戦争最大の激戦とされる田原坂の戦いに至るまでにも数々の激しい戦闘が行われていました。田原坂の激突にいたるまでのゆかりの地を巡りながら、140年目に田原坂で展示されたあるものを通じて、西南戦争が熊本地震をきっかけに再びよみがえったことをお伝えします。

― 鹿児島出発 ―

50年ぶりとも言われた大雪が降る中、140年前の2月15日から(先遣隊は前日の14日)、薩軍は順次鹿児島を出発します。
「政府への尋問の筋これあり」
政府の密偵が西郷隆盛を暗殺しようとしたことに怒りを爆発させた旧鹿児島士族は、挙兵した理由をこう宣言し、熊本にやって来ます。

― 川尻到着 ―

西郷に率いられた薩軍約1万3000人は2月20日熊本に入ります。現在の熊本市南区の川尻に本営を構え、軍議を開きます。川尻の民家前には「明治十年戦役南洲翁本営跡」と西郷が宿泊したことを記す碑があります。

案内してもらったくまもと文学・歴史館の青木勝士さんによると、川尻は当時、熊本城下へ向かう重要な拠点でした。薩軍は熊本城に向けてここから薩摩街道を通って熊本城へ進撃しました。140年後、私たちも薩軍が通った道に立っていました。

― 熊本城攻防と段山 ―

2月22日未明、ついに本格的な戦闘の火蓋が切って落とされます。薩軍は政府軍の出先機関・熊本鎮台が立て籠もる熊本城に押し寄せます。そして熊本城三の丸下段の段山を奪取します。西南戦争で熊本城をめぐる攻防は50日以上にもわたって行われますが、この段山の地をどちらが占領するかで激しい戦闘が行われたと記録されています。この段山には薩軍戦死者を供養する慰霊碑が建てられています。140年後の2月22日に訪れてみると、花が手向けられていました。

― 千本桜・乃木大将記念碑 ―

一方の政府軍も熊本城救援のために援軍を派遣しました。熊本城攻防開始と同じ2月22日夜、現在の熊本市北区植木町で政府軍と、これを迎え撃つために北上してきた薩軍が激突します。地名からとって「向坂の戦い」とも呼ばれています。政府軍側は、あの「乃木大将」で知られる乃木希典が小倉歩兵十四連隊長心得として指揮を執っていました。、後に日露戦争の旅順の戦いで指揮官を務めた乃木ですが、この戦いで連隊旗を薩軍側に奪われるという失態をおかします。連隊旗は天皇陛下からいただくもので、乃木はこの責任を終生忘れることがなかったといいます。乃木はこの連隊旗を奪われたことを明治天皇崩御後に殉死した理由の1つだと遺言に残しています。乃木が連隊旗を奪われたと知ったのは植木町の千本桜がある場所で、ここにも記念碑があります。

― 西南戦争の“関ヶ原の戦い”=高瀬の会戦 ―

植木方面で勝利した薩軍はさらに北上した現在の玉名市高瀬に進撃します。政府軍もこれ以上は譲ることができないとして主力を投入。ここ高瀬で主力同士が激突する大会戦が繰り広げられたのです。戦いは2月25日から27日の3日間でした。この戦いは政府軍の勝利で終わります。主力軍同士の激突によって西南戦争の勝敗の分かれ目となったされる高瀬の会戦は、後に西南戦争における“関ヶ原の戦い”と称されています。

この一連の戦闘で、政府軍側は乃木希典が負傷。一方の薩軍側は、西郷隆盛の末弟、小兵衛が戦死しました。これ以降、薩軍は北に進む道を絶たれ、防戦となります。玉名市には政府軍本営跡の記念碑や西郷小兵衛戦死を偲ぶ碑など西南戦争に関係する史跡が数多くあります。

― 最大の激戦地・田原坂 ―

高瀬から撤退した薩軍は田原坂や吉次峠、山鹿に防衛のための陣地を築き、政府軍を迎え撃ちます。そして、3月4日から西南戦争で最大とも言われる激戦、田原坂の戦いが始まります。

― 資料館 ―

田原坂は現在の熊本市北区にあり、麓から頂上までは約1.5キロの坂道で、標高差は80メートル。この激戦跡は今では公園として整備され、当時使われた大砲のレプリカや軍服など西南戦争のゆかりの品などを納めた資料館もあります。戦争から140年後の2017年2月19日からあるものをテーマにした企画展が開かれました。ちなみに、2月19日は政府が薩軍征討令を出した事実上の開戦日にあたります。

― 熊本地震で見つかった“薩軍の刀” ―

あるものは刀でした。「刀ノ力」と題された企画展ですが、実は西南戦争は日本刀が実戦で使われた最後の戦いでもあったのです。光り輝く刀が並べられた中、一振りだけ異なる様子のものがありました。それはぼろぼろに錆びた約40センチの脇差。この脇差は平成28年の熊本地震で全壊の被害を受けた民家で片付け作業にあたっていたボランティアが発見したものでした。

― “薩軍の刀”秘話 ―

実は脇差が見つかった民家は、西南戦争当時、薩軍の野戦病院として使われていました。この民家の居住者は自宅に日本刀があることを知りませんでした。熊本地震によって見つかったとも言えそうなこの脇差。地震が起こらなければ永遠に人々の目に触れなかったかもしれません。

― 専門家の分析は ―

益城町教育委員会の堤英介学芸員は、この益城町の民家から見つかったこの脇差について、「薩軍の野戦病院だったから薩軍兵士のものと断定することはできない」と前置きしつつも、「西南戦争の際に、薩軍が置いていった刀である可能性は十分ある」と話しています。

― さらにつながる不思議な縁 ―

西南戦争と熊本地震を取り持つ不思議な縁があります。薩軍の野戦病院だった益城町の民家から刀が見つかりましたが、薩軍は1877年の4月14日、この益城町木山に本営を構えます。当然ながら、総大将の西郷隆盛もこの木山にやってきたと記録されています。そして、最初の震度7を益城町で観測したのも実は4月14日でした。偶然に過ぎないかもしれませんが、西南戦争と熊本地震が奇妙なまでに結びつきます。堤学芸員は、「西郷ら薩軍が益城町に来たことは、地元の人たちにとっては震度7級の衝撃だったでしょうね」と表現していました。

― 地震、西南戦争で被害を受けた熊本 ―

企画展は戦争から140年の節目ということだけで行われたわけではありません。熊本地震からの復興という思いも込められていました。熊本地震では災害関連死を含めて255人が亡くなり(2017年11月末現在)、全壊・半壊約4万2000棟を含む約19万棟の住宅が被害を受けました。その地震の139年前、西南戦争の戦場となった熊本県内は焼け野原になるなどの被害を受けました。

― 企画展の思い ―

「刀は錆びてしまっても、磨けば必ず光る」
資料館を運営する熊本市の中原幹彦・文化財保護参事(肩書きは当時)はこう語ります。
そして、中原氏は企画展には西南戦争と熊本地震に共通する意図を込めたと説明します。

「戦災、あるいは震災の被害を刀が錆びた状態だとする。刀は錆びていても研磨すると必ずきれいになるので、地震で傷んでいる熊本も刀を磨くのと同じように必ず立ち直ることができるというメッセージを感じ取ってもらいたい」

― 現代によみがえる西南戦争 ―

熊本地震を通じて現代によみがえった日本最後の内戦、西南戦争。こうした不思議な縁をきっかけに140年後の西南戦争に迫ります。

Page Top