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災害報道を続けてきたアナウンサーが自ら被災してわかったこと

元熊本局アナ 7年目の告白【後編】
  • 2023年04月12日

令和2年豪雨のときに、被災地で取材することになった私。

でも、困っている人たちを前に、直接自分が何もできないことで、申し訳ない気持ちになってしまった経験がありました。 

熊本地震を経験したアナウンサーは、どんな思いで被災した人たちと向き合っていたのでしょうか?

前編では、避難場所に家族を残す中での葛藤を話してくれた新井さん。(▼前編はこちら
次に当時取材したノートを見せてくれました。

(熊本放送局 アナウンス 佐藤茉那)

家が、生活が、家族が、すべてが…

新井)
今回改めて見直してみたら、当時の日記というか、思いを書き留めたメモを見つけたんです。

▲新井アナの当時の日記

新井アナの日記
「言葉でうまく表せない。 
取材することが
こんなにしんどいのが初めてだ。 
家族を残して仕事に行くことが
こんなに辛いのも。 
被災しなければ分からない。 

俺は被災地の取材をしてきたけど
想像しようとしてきたけど、
想像が追いつくとは
思ってなかったけど 
こういうことか・・・。」


「どう伝えればいい? 
これまでとは違う。
自分の家が 生活が 家族が すべてが
一変してしまった人達
何を伝えてほしい 
伝えることに意味はあるのか」

新井)こんなことを書いていましたね。

▲新井隆太アナウンサー

新井)
僕の場合は、熊本に4年間住んでいて、子どもが小さかったから、いろんな場所に遊びにも行ってたし、お世話になった熊本って感じで。

毎週のように熊本城の二の丸広場に子どもと行っていたから、お城が崩れたのはね、本当にショックだった。阿蘇にも遊びに行っていたので、まさかあの阿蘇大橋が落ちるなんて思わなくて。

やっぱり“生活者”として、自分がそこに暮らしたことを考えながら、そこで一緒に暮らした人がつらい思いをしてるんだから、自分は放送人として、全国に伝える責務があるよねっていう気持ちは持っていました。

でも、取材で無力感を感じる経験を何度も繰り返しました。頑張ろうと思ったけども、相当しんどかった。

発災後、2か月で5キロ痩せましたし、もう精神的にも肉体的にも、ダメージはありました。

災害報道には慣れていたと思っていましたが、自分や家族が生活者として向き合う災害はこんなに違うのか、と気づかされたんですね。

▲新井アナの日記

新井)
いつも自分だけが被災地に行って、家族は家にいるから、家族が心配ということは、これまで1度もなかったんです。

「子どもたち、大丈夫かな・・・」って、余震のたびに頭をよぎって。取材をしても、2倍疲れたのをすごく覚えています。

「うちなんて大したことないです」

佐藤)
家族のことを心配しながらの取材だったんですね・・・。

▲佐藤茉那アナウンサー

新井)
それでも、自分は恵まれているなって、取材をしながら思うこともありました。

佐藤)
恵まれている、ですか?

新井)
発災から少し経って、地震が与える子どもへのストレスについて取材したときのことなんですけど。 私の子どもは当時、小学校1年生で、入学式の2日後に地震が起きて、すぐに休校になってしまった。

本当は学校にいっている時間なのに、ずっと避難所で過ごさないといけない。この状況が子どもたちにどんな影響を与えてしまうんだろうって。自分は子どもたちを本震後に東京に避難させたけれど、離れていても心配でしたし。

で、やろうと思ったけど、ディレクターはつてが無いっていう。誰もまだ取材していない。じゃあ自分がやるしかないか、と。

それで、幼稚園が一緒だった親御さんたちに連絡を取って、小学校にも協力してもらって、地震から1か月のタイミングでの放送を企画したんです。

子どもたち、何してますか
何のストレスが残っていますか

集まってくれた親御さんたちに、聞いて、話し合って、その様子をロケしました。まだ発災1ヶ月だから答えなんてないと思っていたけど、とにかく声をしっかり聞くべきだと。

▲幼稚園のつながりで企画 手前左側が新井アナ

新井)
ただ、一つ言えなかったことがあるんです。自分が放送で今まで伝えてきたことと、全く逆の反応が自分に出てきちゃったってことなんですよ。

東日本大震災のときに、被災地の人たちは家が流されていたり、すごく被害が大きいんだけど、「親戚で亡くなった人がいないから、うちなんて大したことないです」ってよく言うんです。災害の規模を自分で定義してしまう。

でも、被災の程度とか、悲しみとかは、人それぞれだから比べるものじゃないって、放送で何度も伝えてきたんですね。

けど、いざ自分が当事者になったら比べちゃっていたんです。

「自分は子どもを県外に避難させている。避難させてない人よりは大変じゃないじゃん」 

って。自分で災害の規模を定義しちゃっているんです。これは複雑な気持ちでした。

佐藤)
そんな気持ちになるんですね…。

新井)
いまだに子どもにあの企画を見せていないかな。できない、その話を自分の子どもに。

自分の子どものげた箱を指してさ、「うちの子どもはいません」って自分でリポートしてるんですよね。

▲自分の子どもの靴箱を指さして説明する新井アナ

新井)
親としてはこれをやりたくないんだけど、でも取材者としてはスタンスを明確にしないとインタビューできないと思った。

もちろん避難していることは「いい選択ですね」って話しているんだけど、やっぱり一方で、避難せずに堪えている人たちに比べると、自分なんかはあんまり被災してないんじゃないかって気持ちになるんですよね。

自分で企画しておきながらね、すごいなんかね、やりきれない企画だった、いまだに。
 

被災しながら、放送に関わる1人として取材し、伝えていく。日記にも書き残すほど心の揺れを感じるなかで、そのつらさを救ってくれたのも、熊本地震の取材で出会った人だったといいます。

救ってくれた“おばちゃんたち”

新井)
熊本地震では「被災地からの声」というコーナーを立ちあげて、出会った人に声を聞かせてもらうことを始めました。

自分と、カメラを手にしたディレクターの2人か3人組で、被災地を一日中歩き回りました。どのあたりに行くかだけ事前に決めて、あとは2,3日ずっと通い詰めるみたいな。

▲2度の震度7に見舞われた益城町

一日に10人とか15人とか話を聞いていくんですが、みなさん自宅が壊れてしまったとか、基本的にはつらい話ばかり。自分も生活者なので感情移入してしまうんです。

聞いているだけでも精神的に消耗するほどでした。職業的には、時にきつい質問だったりもしなければならないこともありますし、なかなかしんどかったですね。

ただ、そのなかでも、ちょっと救われた出来事があったんです。

佐藤)
救われたっていうのは、どんなことですか?

新井) 
被害の特に大きかった益城町の島田地区に行ったときに、公民館で炊き出ししてる女性たちがいたんですよ。

家が壊れて避難しているけど、おばちゃんたちがみんなで自宅から余った食材を持ち寄って、夜ごはんは一緒に食べようよっていうグループで。

▲公民館に集まってくるおばちゃんたち

新井)
みなさんの地震の経験は、やっぱりすごく重い話なんですね。

でも、5、6人集まったおばちゃんたちはいろんな雑談もしてくれて、けっこう笑っていたんですよ。笑顔で、みんなでご飯を食べているんですよ。

その明るさがあって、つらいっていう涙流したあとに、それでもなんとかみんなでやってこうね、みたいな話をしてくれる場所だったから、すごい自分も励まされたっていうか、救われた気がしたんですね。

だから、こんな原稿を書きました。

▲新井アナが書いた放送の原稿

新井)
しかも、取材をしている私たちにも

一緒に食べようよ

って言ってくれたんです。

そのときはとても時間も精神的余裕もなくて「食べます」とは言えなかったんですけど、実は後になってディレクターともう一度訪れたら、今度は一緒に食べられたんです。

7年経つ今でも、そのときの方たちとは連絡を取り合っていますね。

▲おばちゃんの持っているカボチャは後日一緒に食べました

今回、初めて明かしてくれた熊本地震で経験した複雑な思い。私自身の迷いをぶつけてみました。

どうしたら取材し続けられるんですか?

佐藤)
私は3年前の豪雨のときは、本当に赴任してまだ3週間とかだったので何していいか分からず、ただただ自分が何もできない無力感があって。

正直、被災者の方に質問をぶつけるのがつらくて。新井さんはどういう思いで取材を続けてきたんですか?

新井) 
佐藤さんの場合、赴任3週間というのは相当しんどいよね。そのキャリアでいきなり向き合うっていうのは自分もやったことがないし、不安に思うのは当然だと思います。

私の場合は何度も繰り返して、年次的にもね、もう10年過ぎてたし。熊本ではないけど、被災者の方から怒られたこともありました。

佐藤)
災害報道に関わるなかで大事にしてきたことはありますか? 

新井)
 被災者の皆さんの声を聞いて、その聞いた声をなるべく出すことを大事にしてきました。 ただ、それが果たして被災者の方にとって、どのぐらいためになっているかというのは熊本地震の時も分からなかったし、今でも分かりません。 

だから、その時だけの取材じゃなくて、ちゃんと人間として、その人とずっと付き合っていくんだっていう覚悟を持って取材しないといけない。その思いは自分が被災していっそう強くなりました。

「NHKだから」とか「アナウンサーだから」とかじゃなくて、「とにかくあなたの話を聞かせていただきたい」という気持ちを伝えて、ちゃんとつきあっていく。 取材をさせてもらったその人たちのために届けるんだって。

佐藤)
その放送が役に立ったかどうかって判断する材料がないですよね、こちらとしては。

新井)
そうですね。判断しなくていいんだと思っています。足りるってことは絶対ないから。 そのままずっと考えて、悩んで放送していくのが「放送人」かなと、私は思っています。

私なんかでも、いいんですか?

佐藤)
これからも災害報道に携わる中で、熊本地震のことを振り返ってどんなメッセージを伝えていきたいと思いますか?

新井)
何より言いたいのは、日本に住んでいる限り、どこに住んでいる人も、明日災害にあう可能性は十分にあるってことですね。

熊本地震も「布田川・日奈久断層」によるもので、もともとあった活断層で認定されたし、知識としては自分も知っていたし、私はクマロクのキャスターやっていたからそれも確かに伝えたことがあった。

だけど、多分伝え方も甘かった。まして自分がいるその数年間で起きるとはそんなに思ってなかったんです。

今の人も一緒。必ず南海トラフが起きるだろうし、また津波が来ることもあるだろうし。明日から、今から、いつ被災者になってもおかしくないっていうのはやっぱり伝えたいですね。

佐藤)
地域放送局で伝えていく私たちの役割って何でしょうか?

新井)
実は、熊本地震以降も様々な災害が続く中で、放送での注意喚起を地元局のアナウンサーがする機会が増えました。

実際に地域放送局のアナウンサーや記者など、一緒に生活している人が「いま危ないから逃げてください」って呼びかける方が、視聴者の意識の変化に効果があるというデータもあるんです。

“生活者”として伝えるのは苦しいことも多いけど、“同じ気持ちになって言葉を発する”。やっぱり被災者に近い気持ちで伝える方が、求められてきていると感じます。

佐藤)
伝えるのは、私なんかでも、いいんですかね?

新井)
悩みを持って、恐れを抱きながら、その時の自分の全力であたるしかないと思っていて、その形の悩みでいいんだと思っています。

怖がりながら、被災者の皆さんに迷惑だなって思いながら、そのなかで今の自分ができることを全力でやる。それが時には何もできないっていう選択肢になるんだったら、それは受け入れるしかない。

私も、これからも悩みながら、続けていきたいと思っています。

取材を終えて

恥ずかしながら、これまで全然当時のことを知らずに地震のニュースを読んでいました。今回、初めて新井アナウンサーの言葉・経験を通じて、熊本局や熊本市内のリアルな様子を知りました。

中でも「生活者」という言葉が心に残りました。私も、いち熊本市民として、そして熊本局のアナウンサーとしての発信を心がけていきたいです。

そして、3年前の豪雨のときから、無力感を感じたり、これでいいのかと悩んだりしてきて、自信がありませんでした。でも、それも受け止めるというか、受けとめた上で自分の中の精いっぱいをやっていくっていうので、悩む私のままでもいいんだなと思うことができました。

これからは、少し違った気持ちで災害報道に向き合っていけたらと思います。

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
 

佐藤茉那アナウンサー
令和2年入局。神奈川県横浜市出身。熊本放送局が初任地。赴任して一か月で令和2年7月豪雨が発生し、災害報道を経験する。普段は、定時ニュースや中継リポートを担当。最近は水俣病の取材に力を入れている。

【取材 佐藤茉那/編集 岡谷宏基・杉本宙矢】

  • 佐藤茉那

    熊本放送局アナウンサー

    佐藤茉那

    出身地: 神奈川県
    趣味はショッピング、漫画を読むこと

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