知ってる?熊本の郷土玩具「おばけの金太」
- 2023年03月01日

真っ赤なお顔に、烏帽子姿。ひもを引くと「あっかんべー」をする人形。
その名も「おばけの金太」
熊本のお土産屋さんで一度は目にしたことはありませんか?
実はこの郷土玩具 職人の一家によって代々守り受け継がれてきたのです。


「金太」は人形師の一家に受け継がれてきた

厚賀家の10代目 厚賀新八郎さん。
「舌を出して”あっかんべー”とするのは人に対して失礼なことだが、人形がするから許される、それを面白いと感じてもらって”ニコッ”としてもらうとうれしく思います」。
こう話すのは10代目の人形師として「おばけの金太」をつくる厚賀新八郎さんです。厚賀家は江戸時代の中頃、京都から熊本に移り住んだ人形師が祖となり、以後、獅子頭や節句人形、さらに人物をそっくりにかたどる「生人形」(いきにんぎょう)などを手がけてきました。このうち「おばけの金太」は江戸時代の終わり頃、5代目の厚賀彦七が考案し、以後、厚賀家だけに代々受け継がれてきました。

金太の肝は”からくり”にあり

「おばけの金太」には他の郷土玩具にはないユニークな特徴があります。それはひもを引くと目がひっくり返って舌を出す”からくり”仕掛けが施されているところです。複雑な仕掛けと作り方は、江戸時代から変わっていないというから驚きです。
熟練の技で命吹き込む
からくりで一番重要な部品は竹で作られる「バネ」です。真竹の質や形をひとつひとつ見極めながら、指先の感覚を頼りに0.1ミリ単位で削っていきます。バネは薄すぎても厚すぎても金太の顔は動かないため、熟練の技が要求されます。

様々な工程を経て作られる「おばけの金太」。1体に10日ほどかけられ、ようやく完成します。

魔除け?縁起物?五穀豊穣?由来は謎に包まれている
「おばけの金太」にはモデルがいます。加藤清正に仕え、熊本城築城に関わっていた足軽で、人を笑わせることがうまいことから、「おどけの金太」と呼ばれた人物がいました。この「おどけの金太」をモデルにして人形を作ったところ、人を驚かす仕掛けのおもしろさから、いつしか「おどけ」から「おばけ」と呼ばれるようになったといいます。でも、なぜ顔が赤いのか?あっかんべーをするのか?。様々な説がありますが、はっきりしたことはわからないと厚賀さんは話します。
- 顔が赤いのはモデルの金太が酒飲みだったからという説
- 作られた当時、天然痘がはやり、魔除けを意味する赤い肌にしたのではないかという説
- 同じく魔除けとして、王族の遺体に朱を塗るチベットの風習が伝わったという説
- 子どもの節句に贈られる金太郎人形と同じように縁起物のひとつとして作られた説
- 能や歌舞伎の演目にある『舌出し三番叟』が由来で、国家繁栄、五穀豊穣を願って作られた説
- などなど・・・


途絶えかけた金太 これからも
江戸時代から絶やすことなく作られてきた「おばけの金太」。その道のりは決して平坦ではありませんでした。明治初期の西南戦争の際には、城下町にあった厚賀人形店は焼失してしまいました。厚賀さんの先祖は命からがら、おばけの金太の型を一つだけ持ち出して焼失を免れ、その後、商売の再開につなげたといいます。その型を元にいまも金太が作り続けられています。

昭和40年代、厚賀さんの父で9代目の厚賀新さんは、人を雇って作っていた金太の出来に納得が出来なくなり、金太づくりをやめようと考えたといいます。それを聞いた厚賀さんは、金太を絶やすまいと、家業を継ぐことを決意しました。21歳の時でした。

当時はサラリーマンとして家計を支えていたこともあり、金太作りに専念するのは「一大決心だった」と振り返ります。それから60年近くにわたり、毎日作る苦しみと、生み出す喜びを繰り返しながら厚賀さんは10代目としての使命を果たしてきました。そして、そのバトンを次に受け取るのは、息子で11代目の新太郎さんです。

新太郎さん
「バトンを受けるというのは自分の中ですごく責任を感じるが、いい作品を作ることだけをまずやっていきたい」。
新八郎さん
「時代が変わるかもしれないし人々の心も変わるかもしれない。でも大事に大事に作り続けられたものは変わらない。それを後世の人たちに作り続けて残していくというのが我々の与えられた使命です」。

全国の郷土玩具の中でも、ひときわインパクトが大きく、ユニークな「おばけの金太」。時代のうねりを乗り越えてきたのは、職人の心意気にありました。手に取って見つめると、心をのぞかれるような不思議な気持ちになる。それが金太の魅力なのかもしれません。