にっぽん縦断 こころ旅
今から、もう58年程も前になる昭和36年4月初め、私は教員養成大学を修了、新十津川町(しんとつかわちょう)の山奥の小さな学校に赴任しました。
その学校は小・中の併置校で、私が赴任した年度は小学生13名、中学生2名、教員は校長先生も含め3名でした。
当時、北海道には利便地から遠く離れ、辺ぴな地域の子供達を教育する為の学校が沢山ありました。 一番辺ぴな地域に在る学校は「僻地5級校」で、私が赴任した学校は「僻地4級校」でした。その学校は「新十津川町立 上尾白利加(かみおしらりか)小・中学校」です。
唯一の交通手段は、「滝川(たきかわ)」を始発に「雨竜(うりゅう)」を経由、終点の「尾白利加(おしらりか)ダム」迄バスが通っていました。「尾白利加(おしらりか)ダム」から徒歩で8km程の地点に、学校がありました。 当時ダムは工事の途中で、学校までは、ダムの湖底の端にできた道無き道を縫うように歩きました。 夏、大雨になると冠水することも度々有り、靴を片手に裸足になって歩きました。 冬は一歩一歩、雪に足跡を残しながら歩いたものです。
子供達とは、春は山菜摘み、夏は近くの川で泳ぎ、秋はコクワや山葡萄を取り、冬は校庭で雪合戦などをして遊びました。子供達は、屈託がなく、生き生き、すくすく、伸び伸びしていました。歳月はあっという間に過ぎ、赴任してから5年後の昭和41年3月末、子供達に別れを告げなければなりませんでした。私は次の任地に向かいました。
私が転勤後「上尾白利加(かみおしらりか)小・中学校」は、地域全体が街へ集団移転したこともあって、昭和43年3月廃校になりました。退職し18年、78歳になる今も思い出されるのは、その時分の5年間のことです。
どうぞ、正平さん、スタッフの皆さん、「尾白利加(おしらりか)ダム」まで行き、遥か遠くに見える山の頂きに目を向けてください。 当時、私は、街に出た帰りは決まってダムの端に立ち止まり、遠くに見える山頂に目をやりました。 そして、「さあ、帰るぞ。」と心を奮い立たせ、湖底に向かって歩き出しました。
テレビを通し、遠い昔に戻ることが出来るのなら、此の上ない喜びです。
北海道岩見沢市 佐藤 茂(78歳)
北海道岩見沢市
佐藤 茂さん(78歳)からのお手紙