にっぽん縦断 こころ旅
『ずっと残したい私のふるさと・心の風景』
正平さん、お疲れさまです。正平さんのあえぎながら上り坂を上がる姿と若い女性を相手にニヤニヤする姿が好きで いつも見せていただいています。
今、京都に住む66歳の私が生まれ育ったのは、鳥取県の西部で中国山地の山間部にある「日野町下黒坂」です。何の変哲もない村ですが、18年前に発生した鳥取西部地震で、震度6強を記録したところです。わが家も瓦が落ち、柱もゆがみました。その時はすでに、わが家は「空き家」でしたが、所有者としては放ってはおけず京都から事後処理におもむくのは大変でした。結局、屋根瓦を直し、そのまま「空き家」で今にいたります。
私の「心の風景」はその「空き家」ではありません。それは、『下黒坂集落への上り口にあるなだらかな坂道』です。他の人には何の変哲もない場所ですが、48年前、私が故郷を離れ上京する朝にそこで見たのは、その坂の前を通過する「特急」に向かって がむしゃらに両手を振る母の姿です。
私は、東京の大学に進学しました。伯備線の「特急やくも」で岡山まで出て、そこから新幹線で上京しました。特急は最寄りの黒坂駅には止まらないので1駅手前の根雨駅で乗り、5分もすると私が生まれ育った下黒坂集落の入り口前を通過しました。少し感傷気味に集落の方に目を向けていると わが家の玄関で別れたはずの母が、集落の入り口の坂の上から「やくも」に向かって懸命に両手を振っていました。驚いた私も車窓越しに瞬間的に手を振りました。その母の姿に、「生まれてからその時まで私に何をしてきてくれたか。その有り難さ。」や「そんな母に反発ばかりしてきた。その申し訳なさ。」などのいろいろな感情がこみ上げました。
私は、大学卒業後、京都の南部で就職し、結婚し、家も構えました。そんな中、「母を田舎で寂しく暮らさせたくない。」という思いから京都に呼び寄せました。孫とともに賑やかに楽しく暮らしてくれると信じて同居しました。
しかし、母は、いわゆる「水が合わなかった」のか55歳で病に倒れ、リハビリで持ち直してくれたと思っていましたが 64歳で他界しました。母の死を前にして「まだ若かった」、「申し訳なかった」など悔いの思いからか、そのあと、事あるごとに「私が乗る特急やくもに向かって両手を振っていた母の姿」がよみがえるようになりました。
私は、母が亡くなった年齢を越えた昨年、久しぶりに帰郷しました。あの坂に立って南方向に見える中国山地の山並みを眺めました。日本の山村のどこにでもあるような風景ですが、「いいところだったなあ。」という何かしら身勝手
な感慨にふける自分がそこにいました。
正平さん、もし良かったら私の「心の風景」を見て来て下さい。何もないところですが、何もないところがいいところです。よろしくお願いします。
京都府京都市
梅林秀雄さん(66歳)からのお手紙