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小野光子さん(おの・みつこ/当時80歳)宮城県名取市

知人との避難途中に、薬を取りに自宅に戻り、津波に巻き込まれたとみられます。

震災から12年を迎えて

次男の小野晋さんより

お母さん。
お母さんがあの日、小さなねずみ色の切符を持って、銀河ステーションから鉄道に飛び乗ることになるなんて、もしかするとお母さん自身も知らなかったでしょう。
お母さんが乗った日、客車の中は満員状態だったと思います。でも、顔見知りの方もたくさん客席に座られていたでしょう。
 その日は、幼児を含む子ども達も小さなねずみ色の切符を持っていて、駅員や周りの人達から切符を落とさないようにと言われたことでしょう。
中には子どもだけの人もいるし、親といっしょにいる子ども達もいたでしょうが、子ども達も誰一人として、はしゃぐこともなく静かに座っていたでしょう。
但し共通しているのは、大人も子ども達も服が濡れていることだけでしたね。
 お母さん、列車は無事にホームに着いたことでしょう。そこには、お父さんと幼い晋一お兄ちゃんが突然の知らせを聞いてホームでお母さんを待っていたと思います。お兄ちゃんは、お母さんを見つけて飛びついて行ったでしょう。お父さんは、お母さんの服を見て寒かっただろうと話したと思います。

 お母さん、私はお父さんが亡くなってからお母さんの老後を真剣に考えていました。自分で家を建てたときから一緒に住もうと話しても「閖上が一番」といって離れなかった。お母さんは、閖上に嫁いでから閖上の人になったんだね。
 私も一般企業を早期退職し、介護の仕事をしながら福祉の勉強のためNHK学園と東北福祉大学に入学し勉強を始めました。そして、あの年の1月、介護福祉士の国家試験を受験し、2月に実家に帰った際、お母さんに合格予定だから3月末の発表後に合格証書を持ってくるからねと話したのが、お母さんとの最後の会話になりましたね。お母さん、無事に介護福祉士に合格しましたよ。でもお母さんを直接お世話することはできなくなりました。これからどうしようと考えたのですが、利用者様をお父さんやお母さんと想いながら今も福祉の仕事をしています。また勉強も続けて、精神保健福祉士と社会福祉士にも合格しましたよ。今は、生活相談員の仕事を任されています。

 ところで、閖上の家の事だけど、あの日の大津波で流出したので、実家の再建に向けて考えていましたが、閖上の復興計画が二転三転し、かさ上げ地域から外れました。
外れたけれど土地をしっかり守っていこうと考えていたら、今度は国が新しい堤防を作るからと言い出したから土地を守ることも難しくなりました。
 お父さんとお母さんから実家を守って欲しいと言われていたのに私には何もできない。国が考える新しい堤防は、閖上の復興計画として、また市民の生命と財産を守る意味で協力すべきであると思う反面、お父さんやお母さんの想いを考えると簡単ではなかった。
 お父さんやお母さんの想いを少しでもかなえたい。色々な試行錯誤し国側とも交渉の末、石碑を建立することで合意に至りました。1級河川の堤防に個人の石碑が建立されるのは、日本初ですよ。国側もお父さんとお母さんの想いを考えてくれたと思います。実家の敷地から考えると猫の額程度だけどね。国側と最後の交渉時、NHKの大河ドラマは「真田丸」を放送していました。主役の真田幸村は、豊臣秀頼に「望みを捨てなかった者のみに道は開ける」と話すシーン通り諦めない一方で、歴史に学ぶと言うことで、徳川家康が豊臣側に四国に国替えを命じました。歴史では、大阪城落城でしたね。私も国側の力は十分に分かっていました。私は小さい場所でもとの想いは、四国に国替えを受け入れる決断でした。
 石碑は、国側に寄贈し国碑となりましたよ。今は、実家跡地に建立した場所で、お父さんとお母さんは、お茶でも飲みながらゆったり暮らしていると思います。お父さんとお母さんに思いは届いただろうか。私も家督としての責任を果たせただろうか。いつも自問自答しています。私もいつか実家でお茶を飲みたいなあ。

 そうだ、東日本大震災後のある日、仕事帰りの月夜にお母さんと話をしたくて携帯を鳴らしたんだよ。繋がって「お母さん、変わりないかい」と話をすると「晋か、変わりないよ」と声が聞こえたような気がした。携帯からは、「おかけになった電話は・・・」私は電話を切ったよ。でもお母さんに繋がったんだよね。
「ありがとう、お母さん」

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