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志村信太郎さん(しむら・しんたろう/当時67歳) 宮城県石巻市

自宅近くの保育園に避難していたところ、津波に巻き込まれて亡くなったとみられています。

震災から6年半PHOTO



震災から4年PHOTO




震災から6年半を迎えて

長女の美穂さんより

雄勝湾が見渡せる小高い丘に畑があり、あの日も父はここにいました。
強い揺れを感じ、父はすぐに1㎞ほど離れた自宅へ急いで向かったそうです。
母が家に1人いたので・・・避難途中、父を見かけた人たちは「あそこ(畑)にいれば助かったのに・・・」「ここ(畑)にいれば大丈夫だって言ったのに」と。口をそろえて言っていました。
私が小さい頃、祖父母や父に連れられ、毎日のようにこの畑に通い、私はこの場所が今でも大好きです。春にはイチゴ、夏にはミョウガ、秋には柿・・・
大きな柿の木に登って遊んだり、ジャガイモ掘りや大根、にんじんといったたくさんの野菜を、祖父母が亡くなった後も作っていました。
土や肥料にもこだわり、できた野菜は近所の方にも大変喜んでいただき、父もそれが一番嬉しかったのだと思います。
ある意味、父の生きた証でもあるのかもしれません。
あの畑から見える景色はずっと目にやきついています。
遠くからでも畑に父や祖父母がいるか、一目でわかるあの場所が、私にとっても父にとっても今も忘れられない場所なのだと思います。 

妻の礼子さんより

家の近くを流れる大原川には、秋になると海から産卵のため鮭がのぼってきます。
バシャバシャと大きな音と群れに、小さかった子ども達はつないでいた手をはなし大ハシャギで見ていたことを今はなつかしく思い出されます。
中学校の目の前を流れていた川なので、この時季の朝夕に幼き日と同じ光景をみて3年間を過ごしたであろう娘たち。
高校進学と同時に2人とも地元を離れ、帰って来る機会も少なくなりました。
震災後はその面影はありませんが、春になるとトンネルを抜けると潮の香り、山の緑に山桜のうすピンク、夏にはセミの声がし、海風が吹き抜ける。
あの時に戻れるものならもう一度暮らしてみたいと思います。36年間を過ごした場所なので。

(「思い出の場所」についてお聞きしました。)

震災から6年を迎えて

妻の礼子さんより

あの日から6年が経ちますね。

早ければ今年暮れには仮設を出る事が出来ると思います。
7回忌は復興住宅でと思っていましたが残念です。

今でもあの日の事ははっきりと覚えています。
高台の保健所で向かいの川を見ていたのですが、川ではなく道路を伝って来た津波に気付き「津波だ逃げろ」と大声を出し金網を飛び越え山へと逃げたお父さん。
金網から出る事が出来ずにいた私に大声で「お母さん早く来い」と叫ぶが私は超える事が出来ず、戻って私を引きずり出し歩いて25-6歩位の所で二人とも押し波に飛ばされ、私は泥水の中へ沈みました。
水の上に顔が出た時、上流からもがき苦しむお父さんが一瞬のうちに私の脇を流されていきました。
引き波の強さに夢中で左手で枯れ草を掴み、右手で流れて来た車のタイヤにつかまり、やっとの思いで山へ這いあがり助かりました。
自分だけ助かった事に罪悪感でいっぱいです。

二人の孫も9歳と3歳3カ月になります。空の上から孫と娘たちを見守っていてください。

長女の美穂さんより

昨年12月中旬に神戸の友人と一緒に石巻へ帰省しました。震災以前から友人と帰省することを計画していましたが、ようやく実現しました。
変わり果てた町を案内することになり、複雑な心境でした。実家のあった場所はかさ上げされ、元々あった家の高さまで盛り土されていました。 友人も阪神大震災で被災し、避難所や仮設での生活を経験しており、私自身、とても心強かったです。本当に有難いです。

昨年末に12年半、沢山の人にお世話になった関西を離れ、生活の場を関東に移しました。
12年半もの間、知人も親戚もいなうい土地で仕事、生活が出来たのも、お父さんの「何かあったらいつでも帰って来いよ」という言葉があったからだと思っています。
あの日、見送ってくれた光景は今でも鮮明に覚えています。

今回、仕事を辞め、住み慣れた場を離れること、かなり悩みました。
でもきっと、今回のこもお父さんなら同じ言葉を掛けてくれるんじゃないかと思っています。
あれから6年、、、何年経っても思いは変わりません。お父さん、安らかに、、、

震災から5年半を迎えて

妻の礼子さんより

平成23年3月11日。次の日12日は私の60才の誕生日でした。
あれから5年半1日たりとも忘れたことはありません。
お父さん、遠くから孫と子供たちを見守っていて下さい。

長女の美穂さんより

私たち家族の思いはあの日から何も変わりません…
“復興”といえども津波で失った町は元に戻ることはなく、いまだに復興住宅の着工まで行かず、仮設住宅での生活を余儀なくされている友人が沢山います。母もその一人…
あの日の出来事を風化させてはいけない。
私たちはこうしてあの日の出来事(体験した事、見た光景、思い)を伝えて行かなくてはならない使命感を感じます。
被災地を離れ、生活をしていると特に…

今私が住んでいる兵庫県芦屋市、神戸市も21年前、阪神大震災に襲われ、大きな被害を受けました。阪神高速の橋脚が折れ傾いている映像は今でも目にやきついて離れません。
当時そのすぐ目の前のマンションに住んでいたという元同僚が「あれ(阪神大震災)がなければね…あれがあったから私の人生大きく変わった…」と言った言葉が忘れられません。
母が、伯母が、友人が被災者なら誰もが思う感情…時が経つ程「震災さえなければ今頃…」口にする事が多くなったような気がします。

「何かあったらいつでも帰って来いよ」。
12年前に関西で就職を決めた私にお父さんが掛けてくれた言葉…20代だった私も40になり、もう一度、自分の人生と真剣に向き合おうと12年お世話になった職場を退職しました…40になって就活中の私に、今お父さんは何て声掛けるでしょうか…
そんな事を考えながら、今はもう少し休憩して、再出発できるように頑張るので、また見守っていて下さい。

震災から5年を迎えて

長女の美穂さんより

5年目の3月11日・・・私は仕事が休みで家でDVDを見ていました・・・
神戸に住んでいた私は、地震が起きていたこともわからず、妹からの電話で震災のことを知りました。「お姉ちゃん、何のんきなこと言ってんの・・・」
テレビをつけ、帰省の際、必ず使用している仙台空港が、真っ黒い波にのまれていく様子をみて、急いでお母さんに電話しました。
何度も何度も電話をしました。気がついたら深夜になっていました。
時間が経つにつれて、被災地の状況が明らかになり、翌日には町が壊滅状態であることも知りました。
連絡を待つ間・・・きっとお父さん、お母さんは食べるものもなく、電気も通っていない暗やみの中で寒さにこごえているだろうな・・・そう思うと、エアコンをつけ、コタツに入って待っている自分が許せなくて、自分も同じ状況で待とうとしたけれど・・・寒さには勝てませんでした。
何度もテレビやラジオも使って連絡を待ち、ようやく4日目に妹の同級生から連絡が入り、お父さんが亡くなったことを知りました。
妹はずっと泣いていましたが、私は信じていませんでした。
とにかく、まず現地に向かいたい一心で、妹のいる北海道から車で秋田(フェリーに乗り)へ向かい、下道を使って地元に着いたのは、震災から1週間目のことでした。
運良く一番最初に訪ねた避難所でお母さんを見つけ・・・お母さんは私たちを見るなり、泣きながら「ごめん・・・お母さんを助けなければ、お父さん助かったのに・・・ごめん・・・」と何度も言っていました。
3月12日はお母さんの還暦の誕生日のはずが、こんな日になるなんて・・・
お父さんの遺体を確認できたのは、被災地に入り5日目でした。
連日、避難所から遺体安置所へ通い、右腕を上げたままのお父さんを見つけた時、(苦しかっただろうに)言葉を失い、涙が止まりませんでした。
あまりにかわり果てたお父さんを、本当は一度、遺体の前を通り過ぎるほどでした。死体解剖後、お父さんの身につけていた遺留品は重く、1人で持ち上げられないほどでした。
お母さんは、また何度も何度も「ごめん、お父さん・・・ごめん」と泣きながら言っていました。
お父さんの人生ってどうだったのかな・・・お酒もギャンブルもせず、ただひたすら私たちのために働いて、念願のマイホームを手に入れた1年半後に震災・・・
もし、もう一度、お父さんに会えるのなら、今度はお父さんに謝りたいです。(手紙、読んでくれたかな・・・)何も親孝行できずにごめんね・・・
お父さんと最後に何を話したのかも思い出せません・・・。
これからは、お父さんの分までお母さんに親孝行していきます。

震災から4年半を迎えて

長女の美穂さんより

なでしこジャパンの活躍をみて、改めて4年半が経ったことを実感しました。
変わったこと・・・お母さんの住んでいる仮設住宅は・・・どんどん周りが引っ越して行き、お母さんは仲の良い人達がいなくなるのを少し寂しがっています。
仮設を出て新しい環境で生活できるのは良いことなんだけどね・・・お母さんは、あと4年は仮設で生活することになるみたいです。ごめんね、あまりお父さんに心配はかけたくないんだけど・・・

この1週間、夢で何度も雄勝の町並み(家があった場所)が出てきました。現実にはない町並みだけど、記憶にはちゃんと残っているんだよね・・・
お父さんの大好きな畑や、よく釣りに行っていた海(岸壁)の光景も鮮明に覚えています。

そういえばこの前、部屋を整理していたら、私が以前使っていた携帯電話が出てきて、お父さんの携帯への通話記録が残っていたよ・・・
たしか私がお父さんの誕生日に「お父さん、何が欲しいかな」ってお母さんに聞いたら、「携帯」ってお父さんが言ってたって聞いてプレゼントしたんだよね・・・普段、帰ってもあまり会話はないけれど、あの頃はたまに電話で話したよね・・・「お母さんとケンカした」とか・・・懐かしいな・・・もう一度、お父さんの声聞きたいな・・・話したいな・・・書きながら、涙が出てきました・・・

震災から4年半を迎えて

長女の美穂さんより

あれから、もう4年・・・まだ4年・・・
時間が経てば経つほど、あの日の事(震災)を思い出す機会が多くなったように思います。時々、一人になると涙が出ます。

お盆やお正月の家族が集まる時。友人の結婚式に招かれ、新婦が両親への手紙を読む時。友人が父親の誕生日や父の日にプレゼント何にするか悩んでいる時・・・
ふと我にかえり、ああ、お父さんはもういないんだなぁと、実感させられます。

それでも、もしかしたらまだどこかで生活しているんじゃないかな・・・と思う事もあります。
たぶん、幼い頃から家を離れて仕事に出ていて、私とお父さんが一緒に生活した時間が短かったから余計そう感じるんだろうね・・・

あの日の事がなかったら、新居(1年半しか住む事ができなかった)で家族皆で、今も幸せに生活していたんだろうね・・・そう思うと、あの津波が憎くてたまりません。
1000年に1度の津波が、何も今こなくても・・・いつもそう思います。

後悔の念は絶えませんが、ネガティブになってばかりでは、お父さんも悲しいよね・・・
特にお母さんはもっと苦しいはず・・・
私たち家族は一生、お父さんの事を思って生き続けるので、お父さんもどうか遠くから見守っていて下さいね・・・安らかに・・・

長女の志村美穂さん(しむら・みほ)からのメッセージ

お父さん、急な出来事であの 日から3年経とうとしている今でも、まだお父さんがどこかにいるような気がしてなりません。
小さい頃から単身、遠方に仕事に出ていることが多くて、私も高校から親元を離れ生活していたので、親子で過ごせる時間は本当にわずかな時間でしたね。
私も神戸で生活し始めてから10年目に入ろうとしています。
私が生まれ育った宮城を離れ、親戚も友達も誰もいない関西で一人仕事をしたいと言った時、本当は反対したい気持ちだったのを抑え、「何かあったらいつでも帰って来いよ」と笑顔で見送ってくれた時の光景は今でも鮮明に覚えています。
今はただ、お父さんにありがとうの 一言が言いたいです。
親孝行、何も出来ずにごめんね。
お母さんのことは心配いらないからね。
お父さんはゆっくり休んで、私たち家族を見守っていて下さい。 安らかに…

横浜市の毛呂文子さんより

お優しいお父様だったのですね。
私は娘の結婚式三浦家でお会いしたのが最後でしたが、こんなに早くお別れするとは思いませんでした。
もうあれから6年も経ってしまったのですね、
ご家族をずっと見守っていらっしゃいますよ。
頑張って下さいね。

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