あの日、そして明日へ

こころフォト

トップページ 写真一覧 こころフォトに寄せて 動画を見る

伊藤行雄さん(いとう・ゆきお/当時81歳)アサさん(いとう・あさ/当時78歳) 宮城県石巻市

自宅にいたところ、津波に巻き込まれて亡くなったとみられています。

震災から10年PHOTO



震災から6年PHOTO




震災から10年を迎えて

長男の克行(かつゆき)さんより

お父さん、お母さんへ
40年前に関西に就職してから、文字通り「盆と正月」に里帰りする先だった、石巻。
あの年の6月に、やっとの思いで二人のかわりに白木の箱を抱えて大阪へ戻ってからは、遠くからその復興を見守るだけだと思っていました。
それでも2012年秋に石巻で活動する復興支援団体と縁が出来て、その活動を応援する機会がそのまま、石巻のその後を見守る日々になりました。

二人が暮らしていた実家の跡が早々に更地になってから数年は、すぐに雑草だらけになる、まるで原野の合間に作ったような花壇に、チューリップやひまわり、コスモスを咲かせてみては、かつてここに二人の暮らしがあった証、と思ってみたりしたものでした。
それは周りのみんなにささやかな喜びや微笑みを呼ぶものであった一方、いつまでも変わらぬ辺りの景色に、街の復興の遅れを重ねては、苛立ちを覚えたりもしました。
そしてこの4年、工業用地への整地が始まり、花壇も仮設道路の下になり、やっと私たち家族の心の中にも復興の槌音が鳴り始めた気がしていました。

今はコロナ禍で帰れなくなってしまったものの、街では長く続いていた新しい橋の工事が完成し、かつてはたくさんの人が暮らした海辺の住宅街に、復興を祈念する広大な公園の完成も間近、とニュースが届きました。
そんな中、やはり無くなってしまったものへの思いは、この時間を経て改めて強くなってきているようにも思えます。
そして、それは今は亡き二人への想いがそうさせているのだと、今更のように気づくのです。

私も今年還暦を迎えました。いわば第2の人生への転機の時。
もう一度石巻に身を置くことで、改めて二人に寄り添う事が出来ないかと、想いを巡らせているところです。

震災から6年を迎えて

長男の克行(かつゆき)さんより

石巻市の実家跡にも6年の月日が過ぎようとしています。

ここにあった暮らしのささやかな証として、草花を植えたりしてきたけど6年を前に、計画されていた工業用地化の工事が始まりました。
来年の花の球根を植えることはできなかったけど、それもこの街の歩みとして受け取っています。

震災から4年を迎えて

長男の克行(かつゆき)さんより

“あれから”4度目の正月も家族と石巻で迎えました。
震災前と変わらず、大阪からの道のりに“遠さ”を感じることもなく、いわばその道中を楽しみながら、定宿になったビジネスホテルに到着。
渋滞で到着がどんなに夜遅くなっても、暖かい部屋に明かりがついていて、出迎えてくれていた頃の事をふと思い出すのです。
更地になった家の跡に、チューリップを植えてみたり、ひまわりの種をまいたりしてるけど、あなた達が手塩にかけた庭のようにはいかず、咲きそろわなかったり背が低かったり・・・。
それでもそんな場所があるから、石巻へ帰る理由の1つになっています。

2年前から、お年寄りや体が不自由な人達の送迎をするNPO法人の仕事を手伝う事が、石巻へ帰るもう1つの理由になりました。
走らせる車の窓越しに見る街の風景は確かに変わっている。
けれど、送迎させてもらってる人の多くは、厳しい仮設暮らしが続き、今でも“あの日”の出来事をオレに話す事で心のおりを吐き出す人もいる。
オレはオレで、そうやって車を走らせる事で、この街に寄り添い、あなた方の側にいる、という想いで自分に折り合いをつけているのかもしれません。

そんなオレを故郷の同級生たちはいつも暖かく迎えてくれます。
みんなそれぞれが亡くした日常を一から作り直し、今では何もなかったような顔で明るく生きている。
それでも街の景色と彼らの顔を重ね合わせた時、誰かのため息が聞こえてくるのです。
見守るしかできないと分かっていても、限られた時間だとしても、そこに身を置き、空気を感じ、寄り添っていきたい。今はそう思っています。

震災から3年を迎えて

長男の伊藤克行(いとう・かつゆき)さんより

いつかは逝くことになる両親を亡くしたことはあきらめるしかないと思うようになりました。 今は、いつまでも石巻、被災地に日本中の人の心が寄り添い続ける事をせつに願ってやみません。

年に数回、数日間のボランティアで石巻に滞在していますが、仮設に住む高齢者や、そこに寄り添う行政、ボランティアの人たちにもっともっと人々の目が向くよう、メディアのご活躍を今後も応援しています。

長男の伊藤克行(いとう・かつゆき)さんからのメッセージ

震災の翌々日、3月13日の夜に、大阪の自宅から石巻に到着するまで現地の様子は何一つわかりませんでした。
メインの通りから実家へ向けて路地へ車を進めたもののまだ水は引いておらず、その晩はいくつかの避難所で懐中電灯で名簿をめくることしかできませんでした。
翌朝、たどり着いて目にしたのは、消え失せた住宅街と泥とがれきの海。
近くの避難所でお隣の方と会うことが出来、避難せずに実家ともども津波に流されたことを聞きました。
それから毎週週末に、遺体安置所での確認に家族や親戚と通いました。
父の遺体は確認できましたが、母を写真で確認したのは仮埋葬された後のことでした。
地元で両親と親交があった方々が、それぞれが大変な日々の中で、私達家族に色々と連絡をくださり、仮埋葬の墓前に花を供えて下さいました。
6月の終わり、石巻市の施設の再開を待って始まった仮埋葬者の火葬が10回目の「帰省」になりました。
お仲間が、野山の景色や花が好きだった両親と連れ立っての近隣の山歩きの際に撮っていただいた写真を送ってくださり、それが二人の遺影になりました。
葬儀に参列して下さった皆さんが、「二人らしいお顔だ」と口々に言って下さった、bestショットです。

こころフォトのページをご覧になった、宮城県石巻市の村島弘子(むらしま・ひろこ)さんより

伊藤行雄さま、アサさま
はじめまして。
息子さんの克行さんが参加して下さっている石巻の被災地送迎ボランティア団体の者です。
克行さんは、1年半ほど前に私たちの団体に連絡を下さいました。
「両親のこと、家のことがとりあえず落ち着きました。あと自分がしていないのはボランティアだと思うのです」と仰いました。
ご両親を亡くされたというのに、そんな自分自身が「ボランティア」として参加したいという(しかも大阪から!)申し出に、はじめは驚きました。
今でもお休みをとっては数か月おきに必ず来てくれます。
克行さんを伝に、多くの方々が私たちと関わってくれています。
そして、それをさらに辿ると、そこに克行さんのご両親の存在が必ずあります。
お会いしたことはないけれど、多くの人に愛される素敵なご両親だったのだなあと感じます。
一言お礼とご挨拶を申し上げたくてお手紙しました。
おそらくご両親に似て、やさしく人望の厚い克行さんと、最高の奥様やお孫さんたちは、いつもお二人や被災地のことを想い、今も多くの苦しんでいる石巻の方々のために活躍されています。
克行さんが毎年「我が家」の跡にチューリップやひまわりを植えているのは、ご覧になっていますか?(もちろんですね)
私も、今年もちょこちょこお邪魔します。

伊藤行雄さん・アサさんへのメッセージ・写真を募集しています。

写真一覧へ戻る