自宅にいたところ、津波に巻き込まれて亡くなったとみられています。
お父さん、お母さんへ
40年前に関西に就職してから、文字通り「盆と正月」に里帰りする先だった、石巻。
あの年の6月に、やっとの思いで二人のかわりに白木の箱を抱えて大阪へ戻ってからは、遠くからその復興を見守るだけだと思っていました。
それでも2012年秋に石巻で活動する復興支援団体と縁が出来て、その活動を応援する機会がそのまま、石巻のその後を見守る日々になりました。
二人が暮らしていた実家の跡が早々に更地になってから数年は、すぐに雑草だらけになる、まるで原野の合間に作ったような花壇に、チューリップやひまわり、コスモスを咲かせてみては、かつてここに二人の暮らしがあった証、と思ってみたりしたものでした。
それは周りのみんなにささやかな喜びや微笑みを呼ぶものであった一方、いつまでも変わらぬ辺りの景色に、街の復興の遅れを重ねては、苛立ちを覚えたりもしました。
そしてこの4年、工業用地への整地が始まり、花壇も仮設道路の下になり、やっと私たち家族の心の中にも復興の槌音が鳴り始めた気がしていました。
今はコロナ禍で帰れなくなってしまったものの、街では長く続いていた新しい橋の工事が完成し、かつてはたくさんの人が暮らした海辺の住宅街に、復興を祈念する広大な公園の完成も間近、とニュースが届きました。
そんな中、やはり無くなってしまったものへの思いは、この時間を経て改めて強くなってきているようにも思えます。
そして、それは今は亡き二人への想いがそうさせているのだと、今更のように気づくのです。
私も今年還暦を迎えました。いわば第2の人生への転機の時。
もう一度石巻に身を置くことで、改めて二人に寄り添う事が出来ないかと、想いを巡らせているところです。
石巻市の実家跡にも6年の月日が過ぎようとしています。
ここにあった暮らしのささやかな証として、草花を植えたりしてきたけど6年を前に、計画されていた工業用地化の工事が始まりました。
来年の花の球根を植えることはできなかったけど、それもこの街の歩みとして受け取っています。
“あれから”4度目の正月も家族と石巻で迎えました。
震災前と変わらず、大阪からの道のりに“遠さ”を感じることもなく、いわばその道中を楽しみながら、定宿になったビジネスホテルに到着。
渋滞で到着がどんなに夜遅くなっても、暖かい部屋に明かりがついていて、出迎えてくれていた頃の事をふと思い出すのです。
更地になった家の跡に、チューリップを植えてみたり、ひまわりの種をまいたりしてるけど、あなた達が手塩にかけた庭のようにはいかず、咲きそろわなかったり背が低かったり・・・。
それでもそんな場所があるから、石巻へ帰る理由の1つになっています。
2年前から、お年寄りや体が不自由な人達の送迎をするNPO法人の仕事を手伝う事が、石巻へ帰るもう1つの理由になりました。
走らせる車の窓越しに見る街の風景は確かに変わっている。
けれど、送迎させてもらってる人の多くは、厳しい仮設暮らしが続き、今でも“あの日”の出来事をオレに話す事で心のおりを吐き出す人もいる。
オレはオレで、そうやって車を走らせる事で、この街に寄り添い、あなた方の側にいる、という想いで自分に折り合いをつけているのかもしれません。
そんなオレを故郷の同級生たちはいつも暖かく迎えてくれます。
みんなそれぞれが亡くした日常を一から作り直し、今では何もなかったような顔で明るく生きている。
それでも街の景色と彼らの顔を重ね合わせた時、誰かのため息が聞こえてくるのです。
見守るしかできないと分かっていても、限られた時間だとしても、そこに身を置き、空気を感じ、寄り添っていきたい。今はそう思っています。
いつかは逝くことになる両親を亡くしたことはあきらめるしかないと思うようになりました。 今は、いつまでも石巻、被災地に日本中の人の心が寄り添い続ける事をせつに願ってやみません。
年に数回、数日間のボランティアで石巻に滞在していますが、仮設に住む高齢者や、そこに寄り添う行政、ボランティアの人たちにもっともっと人々の目が向くよう、メディアのご活躍を今後も応援しています。