あの日、そして明日へ

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田尻賢次郎さん(たじり・けんじろう/当時62歳)利政さん(としまさ/当時82歳) 福島県浪江町

利政さんと賢次郎さんの親子はともに、震災後の避難生活で体調が悪化し、亡くなりました。

震災から11年を迎えて

賢次郎さんの妻、幸子さんより

介護であわただしく毎日をすごしています。

ええ…11年…早い
1人なくなり、また1人と、親、妹を亡くし、
先に進むことが1日1日大事ですと思い、毎日がんばっています。
体のつづく限り、亡くなった人々の分まで生きます。
そして先祖様を守ります。

震災から10年を迎えて

賢次郎さんの妻の幸子さんより

もう10年。日々の早いこと
何かあると夢にでて来て向こうでも元気でいるようです
10年たって見る夢です

家も壊してしまって 何か心の中がさびしく・・・むなしく 
もやもやしております

先祖様が守り続けた土地・家を守ることができず 残念でなりません 

屋敷のまわりの草かりなどはやっておりますが全部とはいかず
少しずつやっておりますが

私も体が10年前の様にはいかずこまってしまいます

子どもたちは遠くにいてすぐ来ることはできず
私はお墓を守るために近くに来ました

震災から8年を迎えて

賢次郎さんの妻の幸子さんより

あっと言う間に何もかもすぎて行き8年
忘れてしまいそうです。
はなればなれの家族。
いっしょに暮らすことが夢と思いつつも長い月日がすぎ
夢もやぶれてしまいそうです。
自分が年を取り、頭がふやけてパーンとなり・・・・・・・・

震災から7年を迎えて

賢次郎さんの妻の幸子さんより

今は原町の方で、両親と暮らしています。居候の身です。
元の家の方は2人が亡くなり、まだ決着がついていません。

息子夫婦には、いまだに辛い思いをさせています。ごめんなさいネ・・・
あなた達が頼りです。孫達も大きくなり、頼りになるようです。
元の家に帰って、皆と暮らしたいと思いますが・・・どうでしょうか???
夢ですネ・・・

この年になり、家族と離れて暮らすのはさびしいと思う、このごろです。
両親もすてられず、つらい毎日です。

震災から6年半を迎えて

妻の幸子さんより

1番の思い出は、おじ・おば達が来た時、歌やおどりでにぎやかだったことです。
それから、家族がいて暮らした田尻の家が思い出され、なつかしく、また涙が出ます。

田尻の家がまた自分たちのものにならず、手がつけられないのが1番の悩みです。早くしないと、なにもかも終わりになってしまいます???
二本松から引っ越して、7月より原町で暮らし始めています。9月で3か月、田尻の家に近いのでちょくちょく見にいきます。見るたびにがっかりです。
原町での生活は、両親の建てた家で暮らしています。1日1日があっという間に過ぎます。

最後に孫も大きくなり、幸バーの楽しみのひとつです。神様(先祖様)に感謝です。 

震災から6年を迎えて

賢次郎さんの妻の幸子さんより(賢次郎さんと夫の父親の利政さんへ)

29年4月より南相馬の方で暮らします。
浪江に近い所にと思い住むことを進めました。

この様に早く帰れるのであれば、、、早まった考えだったと今は思います。
子供達とは別々です。残念です。

震災から5年半を迎えて

賢次郎さんの妻の幸子(ゆきこ)さんより

23年3月11日…5年5ヶ月が過ぎ 今思うとあっと言う間が過ぎました。

復興住宅が当たりましたが…予定より1年伸びてしまいました。
私の両親も高齢なので、早く家に住みたいと言いだしましてこまります。
私も息子の所と思いましたが、浪江の家より遠くなってしまいます。
(お墓がある)せめて私だけでもと思い南相馬に行くことに決めました。
29年の春は(4月頃)二本松を離れます。また一からの生活になります。
元気で生活ができます様祈って生きていきたいと思っております。
いろいろと目をつけて下さいまして感謝いたしております。

震災から5年を迎えて

賢次郎さんの妻の幸子さんより

仮設が終わって、この先どうなるのかと思うと、先が真っ暗です。
復興住宅に行くといっても、また一からの友なしの生活になります。

家族のいないさみしさを、今頃になってしみじみと感じています。

震災から4年半を迎えて

賢次郎さんの妻の幸子さんより

震災4年半が経ち、振り返ってみるとあっという間の日々が過ぎたような感じで、慌ただしく過ぎた日々でしたねネ。
でも、毎日充実した日を送っています(時間が足りないです)。
今までできなかった事をいろいろ手にしていますが、なかなか思うように進んでいかない毎日です。
今もって家には住めず、3月11日のままです(これ以上です)。
復興住宅に入れるよう進めています。もちろん家の近くで南相馬です。
遠くに行けない理由として、お墓です。先祖様が築き上げた土地を守るというのが私のつとめと考えています(今。これから私ができるうちです)。
クヨクヨ考えず、前に進んで行くことです。年は若くはなりませんものネ。
ありがとうございます。感謝します。

震災から4年を迎えて

賢次郎さんの妻の幸子さんより

浪江の家はいまだ3月11日のまま・・・・・・・というより、行くたびに悪くなっています。
悲しい気持ちと同時に、先祖様が築き上げた土地・・・家が、と思うと、やるせないです。

いまだかつて浪江(田尻)は何も進んでおらず、そのままです。

でも今は前を向き、いつか田尻に帰れることを信じ、祈る日々を送っています。
仮設にいられるだけいて、その後は家に近い南相馬の方に行きたいと考えております。

今は私の両親がいます。
年もとり、1年1年がとまれと思いつつ、せつない4年目です。

震災から3年を迎えて

賢次郎さんの妻の幸子(ゆきこ)さんより

震災より早3年目です。
今考えると、あっ・・・という間に思います。
日々楽しく、また忙しく過ごしております。

夫、義父を考えると寂しいこともありますが・・・
ふと、くよくよしていてはと思い、考え直します。
前向きに、1日1日を先祖様に感謝して過ごしております。

1つ、子供(孫)といっしょにいれないのが残念です。
いつか暮らせる日を楽しみに頑張りたいと思います。

賢次郎さんの妻の幸子(ゆきこ)さんからのメッセージ

賢次郎さんへ
原発事故がなければ、もう少し長く生きることができたのではと思う日々でした。何もしてやれずに、私の前から姿を消してしまいました。残念です。
でもいつまでもくよくよしていられないです。
私には、息子夫婦が、孫がいます。
これからの人生を夫の分まで生きてまいりたいです。

夫の父親の利政さんへ
浪江町の病院に通っていた時、病院の先生から長生きできるとお墨付きを頂いていただけに、義父の死もまた、突然のことでした。
義父は、息子の賢次郎さんが亡くなったことは知りませんでした。
でもそれは親子・・・何かは知らせがあったかと私は思っています。

田尻賢次郎さん、利政さんへのメッセージ・写真を募集しています。

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