陸前高田市の職員だった寛さんは、住民の避難誘導にあたっていて津波に巻き込まれました。
どれだけ年月が経っても、息子を失った悲しみは癒えることはありません。
それ以上に、年月が経つことで「なんで」「どうして寛が」・・・との思いが増すばかりです。
役所に勤めて2年。自分で自分の人生を築いていこうとして、歩み始めていたのに。
これからを思い描いていた寛も「なんで自分が・・・」と思ったことでしょう。
今でも、代われるものなら代わってあげたいと思わない日はありません。
母は、もう生きていても、子ども達に迷惑をかけることの方が多い。でも寛が生きていることで、弟たちもこれから寛に頼ることができたはず・・・
家族だれもが、寛のことを話すことはありません。心の中にしまい込んでいます。
寛がいたらと思わない日はありません。
町の復興はありますが、心の復興はありません。悲しみは増すばかりです。
復興が進む町を見ていて、目を閉じると、震災前の町並みが、寛とともになくなった町並みが、よみがえってきます。
寛との思い出が、25年の年月が、思い出されます。
寛は母を支えてくれた、寛がいたから母はこれまで頑張ってこれた。
寛、代わってあげたかった。母はもう何をするわけでない、寛はこれからだったのに・・・
思い描いていた未来があったことだったと思います。
今でも、すぐにでも、代わってあげたい。
震災当時、中学校を卒業した三男は、兄(寛)と同じ大学へ進学し、今年4年生。
高校卒業した次男は就職し、今年震災の年の兄の歳と同じ25歳になります。
どれだけ月日がたっても寛を亡くした母にとって悲しみはあの日のまま。あの日以上に、なぜ、どうして…という思いが増すばかり。
24年間、毎日が駆け足のようだった。ゆっくり話をすることもあまりなかった様な気がする。その頃は当たり前だった。生まれてから、ずうーっと母を支えてくれた。寛が居たからがんばってこられた事が語りつくせない位ある。
寛地、寛剛にとっても、ちょっときびしいが兄貴は目標であり、支えであり、かけがえのない存在だったことでしょう。失った時の悲しみは、はかりしれないものだったと思います。
ことあるごとに寛の事を思い、心の中で話しかけています。家族が皆、その思いでいる事と思います。
時として二人の弟が「兄貴が居たらなぁ」とポツンと話すことがあります。何か相談したい時にふと出るのでしょう。親ではなく兄貴だったらという時なのでしょう。
親が居なくても兄弟で支えていく事がこれから多くあるのに…と思う時、いつも代われるものなら代わってあげたい。寛には未来があった。これから人生を自分なりに切り開いていくはずだったのに。
あれから6年。寛が居なくなった事、寛のことを話すことが辛く、家族誰もがあまり語ることはない。
でも、皆が心の中でいつも話しかけていると思う。