明日へ つなげよう

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髙橋琢子さん(たかはし・たくこ/当時43歳)岩手県宮古市

こどもを迎えに行き、避難する途中で津波に巻き込まれて亡くなりました。

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子どもたちからの手紙PHOTO



震災から3年PHOTO

震災から7年を迎えて

三男の虹彦さん・夫の琢弥さんより

「きっとつながっている」
(読書感想文「ホイッパーウィル川の伝説」を読んで)虹彦

僕にはわからなかった。シルヴィがなぜ、そんなに速く走りたかったのか。
2人の姉妹のうち、妹のジュールズは石が大好きでとても詳しく、姉のシルヴィはとにかく速く走ることを願っていた。
2人は幼いころ、母親を心臓麻痺で亡くしていた。シルヴィは助けを呼びに走ったが、その前に母親は亡くなってしまった。その日からシルヴィは願い事をするようになった。

僕はシルヴィに似ている。僕が母を亡くしたのは、小学2年の時。あの「黒い波」が故郷を飲み込んだ日だ。家路を急ぐ車の中に、母と兄と僕は居た。
校門を出た右手の防波堤を越え、「黒い波」は襲ってきた。僕はランドセルを車内に捨て、学校の校門へと走った。ただ逃げることだけを考えて。
車内で見た母の不安に包まれた顔が、頭の中で何度も再生された。その顔が僕が見た最後の母の顔だった。
母の葬式で遺影を見るまで、僕は、母の生前の顔を思い出すことができなかった。

シルヴィは何度、時間を巻き戻したいと思っただろう。その時、自分が母を助ける方法はなかったのか、答えの出ない問いを何度自分にぶつけたのだろう。
きっと尖ったものが心に刺さったままのように、自分を責め続けて生きてきたのではないか。
シルヴィが速く走りたいと願い事をする気持ちが痛いほどわかった。それでも、僕は完全には納得できなかった。
「今」足が速くなったって、お母さんは帰って来ない。それなのに、妹を置いていってしまうなんて。

2人が学校のスクールバスを待っているその日、外には雪が積もっていた。お父さん、キツネなどの動物、様々な雪だるまを2人で作っている中で、ジュールズはお母さんの雪だるま作りを譲らなかった。まだ、物心も持っていなかった幼い時に母を亡くしたジュールズには、母親の記憶はほとんどない。それでも、母を「自分だけ知らない」遠い存在だと思いたくなかったのだろう。母親の雪だるまを作るジュールズの姿は、「私にはお母さんとの思い出がたくさんある」と言い張っているようで、とても切なかった。

もうすぐスクールバスが到着するというとき、シルヴィは「願い石」を奈落の淵へ投げてくると言った。ジュールズは止めようと手を伸ばしたが、つかんだのはシルヴィの手ではなく、彼女のオレンジのミトンだった。シルヴィは風のような速さで遠ざかり、一瞬で見えなくなった。

「なぜ、いつも置いていくの?」ジュールズも僕も、怒りなのか悲しみなのかよくわからない感情が押し寄せた。母が居ない、記憶さえないジュールズを1人にしないでほしかった。
バスのドアが開く音が鳴っても、シルヴィは帰ってこなかった。雪がとけてぬかるんだ地面には、シルヴィの足跡が沈んでいた。ジュールズはそれをたどっていくと、足跡は奈落の淵までえぐれ、激しい流れのホイッパーウィル川へ続いていた。

「速すぎたんだ・・・」僕は、こんなにあっけなくて悲しい別れ方があってよいのだろうかと胸が痛くなった。とても深くて、悲しい意味で、「また置いていった・・・」とシルヴィを恨めしく思わないわけにはいかなかった。
この日以降、シルヴィは二度と戻らず、家族は「シルヴィ以後」という時を過ごしていた。父は仕事に行かなくなり、ジュールズは学校へ行かなくなった。とても重苦しい時間が続いていた。
シルヴィが消えた日、森でキツネのセナが生まれた。セナは誕生する前から他の魂とつながっている「ケネン」だった。ケネンは人知をこえた理由でこの世界にやってきて、使命を果たして祖先の場所へ戻るという。

シルヴィをどれだけ愛しているかを伝えたくて、ジュールズは奈落の淵へ向かった。しかし、その周辺には熊を駆除するためのハンターが居た。セナは猛ダッシュで淵へ向かった。頭の中に「もっと速く!」と、誰かの声が強く響いた。セナがハンターの向けた銃口の前に飛び込んだ瞬間、銃弾がセナの体を貫いた。

このとき、僕はやっとわかった。どうしてシルヴィが「速く走ることに」にこだわっていたのかを。彼女は、母を助けられなかったことに自責を感じていただけではなかった。大切な家族を絶対に守るという強い愛情からこの願いを持ち続けていた。果たせなかったこの想いをケネンに託して、何よりも速く走って、愛するジュールズを救ったのだと感じた。

この本に僕は強い衝撃を感じた。とても悲しい話だったが、不思議に読み終えた後は、静かな温かい気持ちになった。
それは、大切な人は目の前から居なくなったとしても、どこかでつながっていて、全身全霊で愛情を送ってくれていることがわかったから。
僕も母とどこかでつながっていると想うと、今までより少し、心が温かくなった。

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三男の虹彦が、この夏から秋にかけて学校で書いた読書感想文です。冬の始まりのある日、学校からの連絡で目にすることとなりました。感想文とは違う何か別の物を読んでいるような気持ちになりました。
そこで今回は、「メッセージ」のかわりに、本人の同意のもと、その全文を寄稿させていただきました。

彼はいまだに「あの日」のことを話すことはありません。母親のことでは、まだ一度も泣いた姿を見せていません。学校で震災復興に関わる様々な表現活動なども行われていました。しかし彼は、この6年あまりの間、まるで感情をブロックされたかのように、この件に関して自分の心の中にあるであろうものを表出することはありませんでした・・・ そうした中で、この「ホイッパーウィル川の伝説」という本に出会うことができ、彼が心にかかえていたであろうものを、やっと外に吐き出す機会を与えてもらえたような気がしています。
もしかしたら、シルヴィがセナに姿を変えてジュールズのそばにきていたように、うちの母さんも、この「本」と一緒に彼のすぐそばまできていたのかもしれません。

父 琢弥


琢弥さん、虹彦さん親子の“震災7年”を紹介したWEB特集もあわせてご覧下さい。

震災から6年を迎えて

夫の琢弥さんより

この前のお正月は、敢太(長男)が遠路はるばる帰省してきてくれて、また、部活動やいわて国体、そして勉強と、大忙しだった銀児(次男)も、つかの間の休日となり、久しぶりに息子三人が揃いました。

その時、気づいたこと、その時、気づいたこと、虹彦(三男)の背丈が、二人の兄ちゃんに、もうほとんど追いつきそうなくらいです! 6年前は、お母さんの腰にまとわりつくぐらいの背丈だったのに、、、(もちろんお母さんは追い越してるよ) 当たり前のことだけど、子どもたちは成長し続けています。
時の流れをあまり感じることもない日々が続いていますが、子どもたちの姿を見ていると感じるのは、、、「やっぱり時間は進んでいるんだなあ、、、」ということ。
子どもたちのおかげで、自分もどうにか、立ち止まることなく頑張れてます。

春から今度は、銀児(次男)も、新しいステージへ進むために、客を離れます。
一人、また一人と順番に巣立っていくのは寂しいよ?とよく言われますが、不思議と”寂しい”というよりも、むしろ”誇らしい”という気持ちになっています。

”止まったまま”だと思っていた時間を先へ、先へ進めてくれている子どもだちが、これから出会っていくもの、持ち帰ってきてくれるものは、、、もちろん子どもたち自身のものだけれど、私自身にとっての”出会い”にもなるのかな、、、と考えると、何だか楽しみでもあり、、、大丈夫、まだまだ頑張れるから!これからも見守ってください、、、、

震災から5年を迎えて

夫の琢弥さんより

5年目を迎えます。
町の様子が大きく変わり始めています。
新しい道路や、新しい建物が、次々と見られるようになってきました。

一方で、町から少し離れたところにある我が家の周りには、ほとんど建物がなくなりました・・・。高速道路(三陸道のIC・トンネル)の建設により、ご近所さんはみな他所に引っ越しています。
そしてこの冬、いよいよ工事が本格化・・・。家のすぐ隣では、昼夜を問わず重機が音をたてて、土埃をあげて作業しています。
“深夜”でさえ、“発破”が地響きをあげています。信じられないかもしれないけど本当です。「まさかまた、地震か!?」と不安な夜もあります・・・。

そんな中、変わらないのが我が家。“あの日”貼り付けてあった、あなたの書いたメモ書きも、そのままの場所にまだ貼ってあります。
だいぶ色は褪せてきたけれど・・・。あちこち痛みや汚れも目立ってきたけれど・・・。

家の中にいると、5年の歳月を全く感じません。ひたすら日々の“日常”をこなしています。
子どもたちも、それぞれ、仕事・学校・部活動・・・。日々の日常に一生懸命。

敢太 極寒の大地で、日々、電力供給の仕事がんばってます!
銀児 高校ラグビーの夢を叶えるため、日々がんばって、ご飯食べてます!
虹彦 「もの作り」に興味を持ち始め、自分でPC1台組み立てました。

そして自分、思い切って、新しい車を買いました。車の運転って、いいね!顔を上げて、前を向いていられるから。
“復興”という名を借りた周りの変わりように、なぜかちょっぴり淋しくなることもあるけれど・・・。先のことを考えても仕方ないので・・・。

前を向いて、今日もまた、そしてこれからもまた、
“その日その日を”走ってます!

震災から4年を迎えて

夫の琢弥さんより

また「その日」がやってきます。毎年、その日をどう“やり過ごそうかな”・・・と、なんとなく悩ましい季節が、また、やってきました。
4回目となる今度の「その日」を、私はどんなふうに迎えたらいいのでしょう?

昨年2014年3月11日(3年目の日)には、我が家に1冊の冊子が届きました。
ピンク色のカバーできれいに装丁された、手作りなのだけれども“書籍”と言ってもいいくらいの、それは立派な仕上がりのものでした。表紙に題名等は何も書かれていません。
その中に綴られていたのは、県内県外の小中学校でお仕事をされている、たくさんの“養護教諭”の方々からお寄せいただいた“故・高橋琢子との思い出集”でした。
しかもそれは、何冊も印刷して大勢で共有するようなものではなく、それぞれの皆さんがお書きになった「原本」をそのまま冊子にした、この世に1冊だけのものでした。

故・高橋琢子は、生前、小学校の養護教諭をしていました。震災後、児童生徒の心身のケアに尽力されている養護教諭の先生方が、故人のことも忘れず、今なお“仲間”として思いを寄せ続けていてくださることに、言葉にならない感謝の気持ちと、悲しみとは全然違う涙があふれてきて・・・。読み終えてからすぐに仏前に供え、それぞれの皆さんのお気持ちを込めて、線香を上げた昨年の3月11日でした。
“たった1冊だけ”のものなのに、私はさらに無理なお願いをしてしまいました。「できれば、3人の息子たちの分も1冊ずつほしい・・・。子どもたちがそれぞれ、家を巣立つときがきたら持たせてあげたい・・・」と。
それから、半年ほどたったある日、ある方のお声がけにより、一旦その冊子はお返しすることになり(何せ、原本ですものね・・・)、
それから4か月ほどたったクリスマスの日に、新たに3冊増えて“帰って”きました。カラースキャナ等々を駆使して作ったのでしょうか?オリジナルと見分けがつかないほどの、素敵なピンク色の冊子があわせて4冊、これ以上ないクリスマスプレゼントになりました!

この“思い出集”の作成に携わった先生方には、とんでもないご苦労をかけてしまいました。労力はもちろんですが、“果たして、家族に伝えていいものかどうか?かえって家族の心の負担にはならないものか?”などなど、私の方から言うのも変ですが、相当お悩みになったことだろうと・・・。そうしたご心労の方も推察されます。
でも、しっかりと受け取った今、素直に思います。“本当によかった!”と・・・。

私たち親子の心の中に、妻であり母である琢子はいつまでも変わらずにいる人です。
でも、いただいたメッセージの数々をあらためて読み返すと、そこには「おかあさん」ではなく、3人の子どもたちはきっと知らないであろう「養護教諭・高橋琢子」の姿があります。
家庭人としてだけでなく、職業人として、教育者として、一生懸命に前向きに仕事を続けていた姿があります。生きていた姿があります。
こうした「姿」を、子どもたちには、話としてだけでなく、「見える形」として伝えたいと強く思っていました。

すでに社会人として家を出ている長男は、この1月に成人式を迎えました。成人祝いとして、まず1冊をその手に渡しました。次男にも、三男にも、今はまず、今の自分のことに一生懸命でいいから・・・、
でも、やがて巣立つときに、母の存在感をその手に持たせてあげようと思っています。きっと、大人になってからこそ、彼らの支えになる1冊であることを信じて・・・。

さて4年目の“3月11日”を迎えるために、私のやるべき“宿題”ができましたね。
原稿をお寄せいただいた皆さん、素敵な装丁をして下さった方、お一人お一人に、やっぱりお礼の気持ちを伝えなきゃあね!!

子どもたちからの手紙

次男の髙橋銀児(たかはし・ぎんじ)さん(16)より

感謝の手紙
父さん、母さんへ。
今日まで、僕のことを支えてくれて、本当にありがとうございます。僕は小学校の時から、宿題をしっかりやらない、提出物を忘れるなど、たくさんの迷惑をかけてきました。
それだけではなく、小学校に入って、いろいろ怪我をして、母さんに泣き付いたり、風邪をひいて、病院につれていってもらったりしました。
父さんには、小さい頃から釣りやスキー、スケートなど、他にもたくさんの所へ連れて行ってくれました。小学校3年生になり、ラグビーにも行くようになり、日々の練習や試合、大会などで、朝早く起きて、送って行ってくれました。
6年生の時には、右腕がひどい関節炎になり、盛岡の病院まで毎日のように通ってくれました。
中学に入り、母さんが亡くなってから、男4人の家族になりました。それだけでも大変なのに、兄は陸上、僕は野球とラグビー、弟はラグビーなど、自分たちのやりたい事をやらせてくれました。
おかげで野球ではレフトとして、ラグビーでは岩手県選抜として、僕は自分のやりたい事をいっぱいやることが出来て、僕は幸せ者だと思いました。
もうすぐ高校生です。これまで以上に迷惑をかけると思います。僕は、高校での自分の目標にむかって日々努力します。
いろいろな大会などで、いそがしくなると思いますが、これからもよろしくお願いします。
※2014年3月の中学校卒業式の日、銀児さんが両親あてに書いたものを送ってくれました。

震災から3年を迎えて

夫の琢弥さん(50)より

この前、いつものように台所に立って夕飯の支度をしていたら、5年生になった三男が、「手伝う」と言うので、野菜を切ってもらいました。

そうしたら三男は、「この包丁切れない!」と言って、砥石を取り出し、包丁を研ぎ始めました!
その手際がとてもいいので、「誰に教わった?兄ちゃんか?」と聞いてみたら…、「いや、母さんだよ!」との返事…。
小学校2年生までの間に、いつの間にか教わっていたのでしょうか?

私はこの3年の間、彼が包丁を研いでいる姿を見たのはその時が初めてです。(体が覚えていた…?)

いや、「あなたが、今、ここ(台所)にきてくれているんだなぁ…」って思った瞬間でした。
そんな形でもいいから、また、時々、帰ってきてくださいね。

夫の琢弥さんからのメッセージ

もし、メッセージが届くものなら、伝えたいことは山ほどあります。
この2年間に3人の子供たちが見せてくれた小さな“輝き”や“晴れ舞台”の数々・・・。
自分も新しい分野の仕事に携わるようになり、たくさんの発見があったこと・・・。
そして、今夜の夕飯もうまくできたぞ!?などなど・・・。
どれもこれも、一番あなたに喜んでもらえそうなことばかりです。
書き出したらきっときりがないので、生きている間に伝えられなかった一言だけ伝えます。
『ボクの奥さんになってくれて、子供たちのお母さんでいてくれて、本当にありがとう。』

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