明日へ つなげよう

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佐藤才子さん(さとう・さいこ/当時60歳)宮城県気仙沼市

自宅近くの公民館に避難した際に津波に巻き込まれたと見られ、今も行方が分かりません。

震災から6年半を迎えて

夫の信行さんより

震災からこれまでずっとメッセージを発信続けてきました。
今回は休もうと思って「8月9日」まで文章は考えてはいませんでした。
子ども達は忘れてはいないと思いますが、これだけは子ども達に残しておこうと思い、また発信することにしました。

今でも思い出に残る場所。私は以前から一度は日本海に沈む夕日を見てみたいと思っていました。
夏休みも終わり近い8月20日頃だったと思います。今からもう30年以上前の事です。長男が高1、次男は中3、娘は小4でした。
長男が高校に入った時点で、もう5人で旅に出ることはないだろうと思っていましたので、今年だけ一緒に行かないかと声をかけたら「行く」と言ったので、すぐに旅支度をしました。最初は山形へ行こうと考えていましたが、妻はまだ十和田湖に行ったことがないと聞いていたので、これから男鹿半島へいくと車中での決断でした。

朝5時に起きて野菜を摘んで市場へ出荷してから出発でした。途中、田沢湖により一路、男鹿へ。今のようにカーナビもなく、高速道路もできていない時代。地図を見ながらの運転でした。夕日が沈む前に男鹿半島に着きたいとの思いで急ぎました。しかし睡魔が襲いかかりました。朝が早いのと、普段は昼寝もするので・・・本当に辛かったです。妻は運転免許はありましたが、不安なので私が運転。交通事故を起こさないようにと、常に頭の中にはありました。

男鹿半島に着いたのは、夕方6時半を回っていました。急いで先端へ向かいました。水平線には夕日が・・・。天気も良く本当にラッキーでした。
さっそく記念写真を撮りました。2年前に「こころフォト」に送った写真です。
まわりに誰もいなかったので、長男と次男が交互にシャッターを押しました。妻も沈む夕日に感激したようでした。
旅の予約もしていなかったので宿を探して回り、やっと見つけ、夕食は夜の8時頃だったと思います。妻と飲んだビールは特においしかったです。

翌日は男鹿水族館へ。それから寒風山に登り八郎潟を眺め、一路、十和田湖へ。
私はこれまでに2回来ていました。十和田湖の水の色はエメラルドグリーン。何回見ても美しかったです。休屋で昼食をとり、その後、気仙沼へ。
この旅は5人で出かけた最後の旅となりました。娘も中学生になると「親離れ」をして、その後は妻と2人での旅もなく、子ども達の進学のために一生懸命に働いてきました。

ことしの3月11日、菩提寺の檀家さんと合同七回忌法要を執り行いました。182名の方が犠牲となりました。
翌朝、私は今までにない清々しい気分になりました。なぜだろうと思い、考えてみました。
以前に和尚さんから言われたことを思い出しました。七回忌が終わってから「浄土」に旅立つんだと・・・。妻は無事に旅立つことができたのだろうか・・・。
6月に高野山へ遺族会で参拝に行ってきました。弘法大師様に、妻と母を極楽浄土へ導いてくださいと手を合わせてきました。
これからも巡礼の旅を続けて行きます。

(「思い出の場所」についてお聞きしました。)

震災から6年を迎えて

夫の信行さんより

震災から6年、確かな歩みを感じられます。
二人の孫が小学校に入学の年、未曾有の東日本大震災に遭い入学を楽しみにしていた妻が津波の犠牲となりました。
長男が名古屋へ転勤となり、同時に部長へ昇格となり妻も大変喜んでいました。(平成23年2月末にはすでに妻も知っていました。)
次男は地元にいるので入学祝いは名古屋へ行こうと考えていました。しかし大津波で全てが流失し、指定避難場所に避難していた母と妻が犠牲となり妻はまだ帰ってきていません。
二人の孫達には十分なお祝いが出来ませんでした。今でも申し訳なく思っています。
中学校入学祝いに腕時計を買ってやります。
三人の子供はそれぞれ家庭を持ち孫も5人、私の宝です。
妻には感謝しています。未来に向けて出来るだけの事はしてやりたいです。

私はまだ仮設住宅にいます。
生業である農業の資材や農地全てが被災して現在圃場整備工事が進められています。
6年間無収入で住宅ローンの借り入れが出来ませんでした。来年から一部営農出来るようです。

住宅再建はあと1年以上かかるのかなあとため息が出ます。
私の住む仮設住宅は入居当初は58世帯でした。昨年から防災集団移転地の造成が完了また市営住宅も完成、防災移転地では毎日上棟が続き、1年間で転居・退去される方々が多く、現在(平成28年12月20日)残っているのは7世帯です。
冗談で私が最後まで残っているからと日頃話していたことが、本当に現実となるようです。最初は寂しく思いましたが、一緒に仮設住宅で暮らした仲間が早く仮設を退去されて本当に良かったなと最近は思えるようになってきました。

今は窓のカーテンを遅くまで開けたままです。月や星を眺めることも楽しみですし、心も穏やかになります。
時の川も流れて流れて苦しみ悲しみ癒していく…それが今の心境です。
震災後良く言われた言葉「絆」から震災6年目以降は「結」へ変わっていくのかなあと感じられます。

震災から5年を迎えて

夫の信行さんより

平成26年3月、イチゴハウスが完成しました。一度は諦めたイチゴ栽培でしたから、3年間何にもできずにいたので、それを思うと本当に嬉しかったです。
この年の12月11日は、初収穫でした。この日は月命日、さっそく仏壇と慰霊碑にイチゴを供え妻に報告しました。

私の集落は市内でも一番イチゴ栽培農家が多く、以前は10軒ありました。そのうち7軒、10名(親子で3軒)が津波の犠牲になりました。
仲間の御霊にも少しですが、皆さんで食べてくださいとイチゴを供え手を合わせました。
本当にいい仲間でした。強風でビニールが飛ばされた時など皆が集まり、ビニールの張り替えをしたり・・・いろんなことを思い出します。

震災前は次男夫婦は2人とも会社員でした。イチゴ作りは初めてです。
息子はいろんな苦労を見ているので、相談に行ったときに断られたら二度とイチゴ栽培はしないつもりで私も腹を決めて行きました。今、経営主は次男です。

昨年の2月13日、娘に第一子、女の子が生まれました。19歳の時、再生不良性貧血という難病になり、結婚も出産もできないのではと、口にも出せず、ずっと心配をしていました。
2月12日は私の誕生日、娘に「同じ日に生まれたらいいな」と話しました。孫は13日午前1時すぎに生まれ、母子とも異常なく健康です。
まもなく1歳になります。1つ1つのしぐさがとても可愛いです。本当に孫は可愛いものですね。

平成27年11月2日、防災集団移転地の造成工事が終わって引き渡されました。最初の計画よりも7か月遅れです。
当初は自宅の設計図など夢中で描きましたが、2回も変更になり気が抜け、今は急がず、少し時間をおいてから取り組むことにしました。
今年3月から農地の圃場整備工事が始まります。ここまで来るのには3年かかりました。会議も60回以上開催しました。

私は専業農家ですから、農業が再開しないと収入がありません。ですから住宅ローンが組めません。このことが前に進めない一番の「壁」となっています。
東日本大震災から5年、確かに時間の流れは感じられます。
いつまで仮設生活が続くのか・・・。

震災から4年を迎えて

夫の信行さんより

平成26年5月31日、娘は結婚しました。 

19歳、看護学生2年に進級した5月1日に病気になりました。あと1日入院が遅れたら「死」か「植物人間」になっていたかもしれないと主治医から説明されました。
1年間入院しましたが、勉学を続けることは体力的に無理と言われ、退学することになりました。
娘は大学に進んで養護学校の先生になりたかったのですが、経済的にとても無理でしたので、看護学校を勧めたのは私でした。

病気の現任は突発性なもので、ストレスも関係していると主治医に言われた時、とっさに思い浮かべたのは、進みたい道を閉ざしたことが原因ではなかったか、今でも不憫に思っています。病気は9割方治っています。

震災前年の3月、わたしの父親が亡くなり、父親には「孫の病気も一緒に持っていってくれ」と願いました。そしていまだに行方不明の妻にも、娘の病気が完治するよう毎朝手をあわせて願ってきました。

娘はことし2月、出産予定です。つわりが激しく、大丈夫かと声をかけることだけしかできません。いざとなると男親は何にもできないと痛感しています。
今は、母子ともに健康で出産できるよう見守ってくださいと、御霊に祈っています。妻はいつも娘のことだけ心配していました。

それから、一度はあきらめていたいちご栽培を4年ぶりに復活できました。今度は次男夫婦と一緒に働いています。
高設栽培はすべてがコンピュータ管理です。作業も、前の地床栽培より、かがみ仕事ではなくなったので数段楽です。
昨年12月11日、初収穫できました。この日は月命日です。さっそく仏壇と慰霊碑に供えました。

4年間のブランクは長く感じましたが、赤く実ったいちごを手にしたときは感無量でした。働ける喜びを実感しました。
高設栽培は私も次男も初めての栽培です。早く技術を習得して、健全経営が目標です。

これから住宅再建、墓石建立など、やることがたくさんあります。思うことは一つ、叶えればまた一つ、一歩一歩前に進むことだけです。



2月13日午前1時45分。
娘に待望の第1子が誕生しました。初産で3544g。可愛いおんなの子です。
母子とも健全。本当に良かった。嬉しかった。
さっそく母親(才子さん)に報告しました。
きっと嬉し泣きをしていると思います。

いままで見守ってくれてありがとう。
これからもずっと家族を見守ってください。

震災から3年を迎えて

夫の信行さん(63)より

東日本大震災から間もなく3年目を迎えます。
振り返れば、長いような短いような、今は何とも言えません・・・。
まだ妻は帰ってきてはいません。

毎朝、大好きだったコーヒーを仏壇に供えています。
そして昨日のこと、今日の予定などを語りかけながら、いつまでも、帰りを待っているからと手を合わせています。これが一日の始まりです。
生涯、心の穴は埋まることはないと思います。

昨年7月6日より1泊2日で青森県の恐山へ、遺族会の19名と、弔いの旅に行ってきました。
そしてイタコさんに口寄せをお願いしました。

私は口寄せが今回初めての体験で、最初は何にも言わずに聞いていましたが、そのうち妻に言われたことは、今、私が考え悩んでいることをズバリ言い当てられ驚きました。
常に側で見ているようなそんな感じを受けました。
「毎日、成仏できるように拝んでもらい有難う」、「楽しい思い出をありがとう」、「子供たちには素直に生きていってほしいと伝えてください」と言われた時には思わず涙が溢れました。

口寄せが終わって次々部屋に戻ってくる皆さんは目頭を赤くして入ってきます。
あとで何人からか口寄せの事を聞いたら本当の事を言われやはり私のように驚いていました。
御霊と会話ができて、少しは思いが晴れました。
恐山に来てよかった。

これからも弔いの旅を続けていきますというのが皆さんの答えでした。
人により、考え方、立ち位置は異なり、生き方も様々です。
私は妻の言うとおり、素直に生きていきます。

昨年9月8日、娘は結婚しました。
突然でしたが、彼女の人生の中ではいろいろあって、進みたい道を歩むことが出来ずに、常に不憫に思っていました。
私から「おめでとう」の一声とともに本当に幸せになってほしいと心で祈願しました。

お母さんに報告してくれという娘に、私は、「きっと嬉しく喜んでいるよ、一番心配していたんだ」と教え、「兄弟が生まれ、次は女の子が欲しいと願い叶って、お前が生まれたんだよ、本当に嬉しかった。病院に行ったらお母さんの側に丸々に太った女の子がいてね、お母さんはにこにこして待っていてくれたんだ。30数年前の大雨が降る夜のことだよ」と話しました。

今は仮設で一人暮らしです。
カレーを作って焦がしたり、から焚きをしたり、こんな時、妻がいてくれたらとつくづく思います。
やっと苺ハウスの建設が始まり、年末には収穫できそうです。

大津波で歩んできた道は、全て流されてしまったけれど、今まで支え、支援してくれた皆様に感謝と少しでも恩返しをしたいです。
もう一度、リセットボタンを押しなおして、今年は私の復興元年です。
早く住宅再建して、孫達と一緒に生活できる日を楽しみに…

夫の信行さんからのメッセージ

妻へ。
東日本大震災からまもなく三回忌を迎えます。まだ帰ってこないのですか。
4人の孫達も随分大きくなりました。一番心配していた娘にもやっと良い人が出来たようです。
40年間、苦楽というより苦労ばかりの人生でしたね。
この先50年、60年、共に生きて行きたかった。それも今はかなわず、家族みんなでばあばの帰りをまっています。早く帰ってきて下さい。

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