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世界史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:20〜2:40
※この番組は、前年度の再放送です

世界史

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今回の学習

第37回

アフリカ諸国の独立

  • 世界史監修:明治大学教授 溝辺泰雄
学習ポイント学習ポイント

アフリカ諸国の独立

  • 政井マヤさん
  • 野呂汰雅さんと溝辺泰雄先生

ここは歴史の専門家も来店する無国籍雑貨屋。
政井マヤさん、野呂汰雅(たいが)さんと一緒に、世界史のおもしろさを探っていきます。
お話をうかがうのは、明治大学教授の溝辺泰雄先生です。

  • 19世紀後半に鉱物資源が次々と採掘されるようになった
  • 20世紀の初めにはエチオピアとリベリアを除きヨーロッパの支配下に置かれた

豊富な天然資源に恵まれ、将来の経済発展が期待されるアフリカの国々。
ダイヤモンドや金などの鉱物資源が、次々と採掘されるようになったのは19世紀後半に始まった帝国主義の時代。
ヨーロッパ諸国は、アフリカ大陸を分割支配します。
20世紀の初めには、エチオピアとリベリアを除いた大陸全土が、ヨーロッパの支配下に置かれました。
第二次世界大戦後、世界各地で植民地が独立を果たしていきます。
そしてアフリカでも、独立運動が活発になり、新しい国々が次々と誕生していきました。
アフリカ諸国の独立とその後の課題を見ていきます。

  • アフリカのお札
  • ガーナのお札

  • ネルソン・マンデラ
  • お札に描かれているのは首相だった人たち

汰雅 「アフリカのお札って結構カラフルなんですね。初めて見たんですけど、四枚とも違う国のお札なんですか?」

溝辺先生 「そうです。それぞれ国によって全然デザインも違いますし、よく見るといろいろな発見があってすごく面白いんですよ。」

汰雅 「このお札には金の延べ棒が描かれているんですが、金が採れる国ってことなんですか?」

溝辺先生 「そうですね。それは西アフリカのガーナのお札ですね。」


マヤ 「お札に描かれている人物というのは、その国の有名人でしょう?だれか知ってる人はいる?」

マヤ 「これはネルソン・マンデラ。南アフリカで長くアパルトヘイトに反対して戦い続けた人。」

汰雅 「他の三人がちょっとわからないですね…。」

溝辺先生 「その三人には、実は共通点があるんですよ。ナイジェリア、ガーナ、ケニアが独立したときの首相だった人たちなんです。それぞれ1960年前後に活躍した人たちです。」

汰雅 「ということは、同じころに、そろって独立したっていうことなんですね。」

溝辺先生 「そうですね。」

植民地支配からの独立
  • ガーナ
  • クワメ・ンクルマ

第二次世界大戦後、アフリカでは新しい国々が次々と独立しますが、サハラ砂漠より南でもっとも早く、民衆の力で独立を果たしたのがガーナでした。
ガーナは古くから金の産地として知られ、イギリスの植民地時代は「ゴールドコースト」と呼ばれました。
20世紀になるとカカオの栽培が始められ、主にヨーロッパへと輸出されました。
第二次世界大戦後、物価の高騰により生活苦が増すと、イギリスの搾取に対する不満が抵抗運動に発展します。
抵抗運動の指導者、「クワメ・ンクルマ」はヨーロッパ商品の不買運動を呼びかけ、全国規模のデモやストライキを展開しました。

1955年、インドの首相ネルーらの呼びかけで、アジア・アフリカの29か国による国際会議が開催されます。
独立前のガーナからンクルマも参加しました。
この会議では反植民地主義や平和共存などが掲げられ、民族独立を求める運動に大きな影響を与えました。

  • 1958年全アフリカ人民会議
  • 1960年はアフリカの年と呼ばれるようになった

1957年、ガーナは独立を果たしますが、ンクルマの掲げた目標は一国の独立にとどまりませんでした。
ンクルマは、アフリカ全域から政治指導者たちを集めて、植民地支配からの独立を呼びかけました。
1960年にはコンゴ、ナイジェリアなど、17の国が一気に独立し、この年は「アフリカの年」と呼ばれるようになりました。

アフリカの大半の地域が独立を果たした1963年。
「アフリカ統一機構(OAU)」が結成され、団結と連帯を強めていきました。


マヤ 「アフリカの国々が次々に独立したということですけれども、アフリカというと、どうしても貧困や飢餓の問題がこれまでクローズアップされてきましたよね。」

溝辺先生 「独立に向けて最初は団結できていたんですけれども、独立後、国の主導権を誰が握るかということによって民族対立が表面化してしまうんです。その結果、内戦が起きてしまって、難民や飢餓、そして貧困が発生したというケースが少なくありませんでした。
以前『アフリカへのヨーロッパ人の進出(第20回)』という話のときにお伝えしましたが、アフリカの民族問題がどうして起こったか覚えていらっしゃいますか?」

汰雅 「国境が関係していましたよね、たしか。支配したヨーロッパの国が勝手に引いた境界線で同じ民族がどんどん分断されていった、みたいな感じでしたよね。」

溝辺先生 「そうですね。もともとアフリカでは多様な民族が入り混じって共存していました。ところが、その土地を支配したヨーロッパの国々が、あなたは〇〇族、また、あなたは〇〇族という形で、現地の人々を分類してしまったんですね。民族意識そのものが人々を分断する統治のために生み出されたものだったのです。その中で生まれてきた民族対立が、独立後にさらに、多くの犠牲者や難民が発生する紛争にまで発展してしまいました。」

経済建設と民族対立
  • ナイジェリア
  • ビアフラ共和国

独立したアフリカの国々の多くが直面した問題が、経済的な自立です。
資源を持つ国は、植民地時代に始まった天然資源の輸出に頼ろうとしますが、その資源をめぐって激化したのが、民族の対立でした。

独立した国々では、民族の分布を無視して引かれた国境線によって、民族間の対立が生まれました。
中でも深刻な内戦に発展したのはナイジェリアです。
ナイジェリアはイギリスから独立して多民族国家となっていました。
キリスト教を信仰するイボ人、イスラームを信仰し人口が最多のハウサ人、そのほかヨルバ人など、大小250以上の民族で構成されます。
独立後は、植民地時代に発見された石油の輸出を中心に、新しい国づくりを目指しました。
しかし、その油田がイボ人の勢力下の地域にあったことから、政権の中心にあったハウサ人と、その採掘権をめぐって激しく対立します。
イボ人が1967年にビアフラ共和国として分離独立を宣言すると、ナイジェリア政府との間で内戦が起こります。

戦争では大国による軍事介入が行われました。
フランスはイボ人のビアフラを、イギリス・ソ連はナイジェリア政府を支援します。
ビアフラは政府軍に包囲され、200万人もの餓死者が出ました。
やせ細った子供たちの映像は世界中に衝撃を与えました。
アフリカではその後も、こうした資源をめぐる紛争など、民族的な対立が絶えることなく起きています。

  • モノカルチャー

マヤ 「ビアフラ戦争にはヨーロッパの大国が介入してきましたが、ソ連もナイジェリア政府を支援したんですよね。なぜソ連はこの内戦にかかわってきたんでしょうか?」

溝辺先生 「当時は東西冷戦が非常に激しさを増していた時期だったんですよね。で、ソ連はアフリカの新興国に対して社会主義勢力の拡大をねらっていたんです。それでビアフラ戦争にも介入しました。」

汰雅 「でも、イギリスは東西冷戦では西側にいたわけじゃないですか。なんでソ連と一緒にナイジェリア政府側を支援したんですか?」

溝辺先生 「はい。ソ連とイギリスが一緒に支援したわけではなかったんですね。ナイジェリアの石油採掘にはイギリスの企業が深くかかわっていました。それで石油の利権をめぐって政府側を支援したわけです。」

マヤ 「独立後の経済建設にすごく重要な資源ですけれども、でもその資源を持っていたら持っていたで、外国が介入してきてしまう、新しい困難というものがあるわけですね。
アフリカの国々が完全に独立を果たすためには、どういったことが必要だったのでしょうか?」

溝辺先生 「ポイントは二つあると思います。一つは植民地時代から続く『モノカルチャー経済』からどのように脱却するかという問題です。」

汰雅 「モノカルチャー経済っていうのはどういうことですか?」

溝辺先生 「『モノ』っていうのはモノレールとかの『モノ』と同じで、単一のっていうことですね。カルチャーっていうのは文化ではなくて、耕作する、農業というような意味があります。なので単一作物を栽培する、一次産品に依存した経済のことをモノカルチャー経済と言います。


アフリカの国々では独立を達成しても、植民地時代に導入されたモノカルチャー経済が残されました。
しかし、輸出品を特定の生産物に頼るだけでは、相手国の事情で価格が低く抑えられると、経済は安定しません。
工業化を進め、バランスのとれた経済建設をいかに実現できるかが、アフリカ諸国共通の課題となっていました。


マヤ 「もう一つの課題というのは何なんですか?」

溝辺先生 「もう一つはアフリカには民族間、人種間の対立がありました。それをどう克服するかという課題ですね。その対立や分断を、連帯や融和の方向に向かって大きく舵を切っていったのがネルソン・マンデラという人物でした。」

  • ネルソン・マンデラ
  • ブール人

アフリカでもっとも早く経済発展をとげた、南アフリカ共和国。
首都プレトリアに立つ巨大な銅像は南アフリカの民主化をけん引した「ネルソン・マンデラ」です。
南アフリカの父と呼ばれています。

アフリカ南端部には、おもに17世紀にオランダ系の移民が入植し、その子孫は農民を意味する「ブール人」と呼ばれるようになります。
ブール人は黒人たちを奴隷として大農場を経営しました。
19世紀にイギリス人が進出し奴隷解放を行うと、労働力を失うことになるブール人と対立します。

  • 20世紀初め
  • 南アフリカ連邦成立

20世紀初頭、イギリスは鉱物資源が豊富なブール人の国を併合。
その後、イギリス連邦の自治領として南アフリカ連邦が成立します。
南アフリカではイギリス系白人が経済の主導権を握りますが、オランダ系白人であるブール人は自らを「アフリカ生まれ」を意味する「アフリカーナー」と名乗り、民族として結集し、政治権力を握るようになります。

奴隷制度は廃止されたものの、貨幣による税が課せられた黒人は、鉱山や農場などでの過酷な労働をよぎなくされただけでなく、労働条件も法律によって白人と差別されました。
このような差別政策を、「人種隔離政策(アパルトヘイト)」と言います。

アパルトヘイトの導入と克服
  • 年々増え続ける「非白人」

第二次世界大戦後、アフリカーナーの民族主義者の政党が政権を取るとアパルトヘイトを法制化し、人種差別を否定するイギリス連邦から離脱。
南アフリカ共和国を打ち立てます。
アパルトヘイト制度の導入は、少数派の白人による統治を維持するためでした。
南アフリカの経済は豊かな鉱物資源を、安価な「非白人」労働力で採掘することで発展してきましたが、年々増え続ける「非白人」に、少数派の「白人」は脅威を感じたのです。

政治に参加する権利や職業を選ぶ自由は白人にのみ認められ、働く場所も住む場所も人種によって分けられました。
バスも公衆トイレも白人用と白人以外に分けられました。
異人種間の結婚はおろか、恋愛関係になることも禁じられました。
ネルソン・マンデラはこうしたアパルトヘイトに反対する運動の指導者となります。
抵抗運動を続けたマンデラは、1962年、44歳で逮捕され、その後、国家反逆罪で終身刑を言い渡されます。
この投獄によって、反アパルトヘイト運動はマンデラの釈放要求を軸に激しさを増していきます。

  • マンデラが黒人初の大統領に

運動を激しく弾圧したことで、世界中から非難され、経済制裁を受けた南アフリカはアパルトヘイト撤廃を迫られることになります。
1990年2月、マンデラは27年ぶりに釈放されます。
この時、71歳になっていました。

1991年、ついにアパルトヘイトが廃止されると、その3年後に南アフリカで全人種による選挙がおこなわれました。
そしてネルソン・マンデラが黒人初の大統領に選ばれました。
大統領に就任したマンデラは、少数派の白人を排除せず、すべての国民が共存する新しい国づくりを目指しました。

  • アフリカ大陸自由貿易圏

汰雅 「なぜ南アフリカではヨーロッパ系の人たちを追い出そうとしなかったんですか?」

溝辺先生 「マンデラをはじめとする新しい南アフリカのリーダーたちは、ヨーロッパ系の人々の協力無くしては経済的に発展できないということを十分認識していたんですね。それとマンデラ自身の“対立は何も生み出さない”という強い信念というのも非常に大きかったと思います。」

マヤ 「アフリカ全体を見ると、経済的な発展が進んでいる一方で、紛争が続いている地域もありますよね。こういったことはどうすれば解決できるんでしょうか?」

溝辺先生 「やはり経済成長と格差の是正は重要だと思います。アフリカは貧困のイメージも強いんですけれども、都市部に行くと、発展が急速に進んでいまして、例えば携帯電話の普及率もいま世界で一番早いスピードで普及していたりするんですね。若い世代は企業家としていろんなビジネスを起こしてきたりもしています。
そうした動きを強めるために、いまアフリカでは最大となる自由貿易協定である『アフリカ大陸自由貿易圏』の運用が進められています。わかりやすく言えばアフリカ版EUのようなものなんですけれども、国家間の関税を撤廃して、経済を活発化させることを目指している計画です。実現すれば数千万人を貧困から救えると言われています。」

マヤ 「これまでの民族の分断というものを越えて、国と国、人と人も連携をして経済的にも強くなろうとしているところなんですね。」

溝辺先生 「はい。アフリカの多くの国々は独立して半世紀が経ちました。生まれた時から国があって、民族意識よりも国民意識を強く持つ世代も増えてきました。人々の意識も含めて、いまアフリカの国々は大きく変わりつつあると思います。」

人種の壁を越えて
  • 1995年ラグビーワールドカップ

マヤ 「1995年、南アフリカで開催されたラグビーワールドカップで初優勝を飾った南アフリカ代表のキャプテンに、ネルソン・マンデラがトロフィーを渡しました。
アパルトヘイト時代、ラグビーは白人だけのスポーツでしたが、マンデラは、黒人選手も加えたチーム作りを盛り立てていきます。
チームは快進撃を続け、スタジアムは人種の壁を越えて、同じ緑色のジャージを着た観客で埋まりました。そして悲願の初優勝を果たしたのです。
このことは感動を呼び、のちにハリウッドでも映画化されました。

『達成するまで、それは不可能に見える。』

ネルソン・マンデラの言葉です。」


それでは次回もお楽しみに!

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