NHK高校講座

世界史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:20〜2:40
※この番組は、前年度の再放送です

世界史

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今回の学習

第36回

中国の現代史

  • 世界史監修:立教大学教授 上田 信
学習ポイント学習ポイント

中国の現代史

  • 政井マヤさん
  • 富田早紀さん

ここは歴史の専門家も来店する無国籍雑貨屋。
政井マヤさん、富田早紀さんと一緒に、世界史のおもしろさを探っていきます。

  • 辛亥革命
  • 上海

アヘン戦争に敗れた清朝は、19世紀末には列強諸国の侵略を次々と受けるようになりました。
近代化で後れをとった原因は清朝の政治体制にあるとして、1911年、「辛亥(しんがい)革命」が起こると、古代から続く王朝国家の時代は、ついに終わりを迎えます。
それから1世紀、中国はアメリカに次ぐ大国と言われるまでになりました。

新たな国家像を模索しながら、驚異的な経済成長を遂げた中国の現代史をみていきます。

  • 中国の絵葉書

早紀 「これはどこの絵葉書ですか?」

マヤ 「これは、中国の絵葉書。前に友達からお土産にもらったんだけど、中国のいろんなところの名所が写真やスケッチで描かれているのよ。
上海以外にも中国には世界有数の大都市がいくつもあるんだけど、今から百年ほど前は、中国は列強からの介入や内戦もあって、ばらばらの状態だったわよね。」

早紀 「清朝が支配していた時代で、アヘン戦争に負けて不平等条約を結ばされたり、日清戦争も負けてしまいましたよね。」

マヤ 「そう。それで、当時、清朝の体制では近代化をはかれないと考えた人たちが革命を起こして、国づくりを始めることになったの。」

  • 孫文
  • 蒋介石

1911年、辛亥革命によって中国国内のほとんどの地域が清朝から独立すると、翌年、南京で革命派の指導者「孫文」を臨時大総統とする中華民国の建国が宣言されました。
アジア初の共和国の誕生です。
しかし共和政は安定せず、列強の支援を受けた地方の軍事勢力、軍閥が争い合う不安定な状況が続くことになります。

1919年、孫文は中国国民党を組織し、軍閥の打倒を目指します。
孫文の死後、国民党の指導者となった「蒋介石(しょうかいせき)」は、革命軍を率いて「北伐」を開始します。
その頃、中国東北地方には日露戦争で得た利権を守るために日本の軍隊が駐屯していました。
中国統一の機運を恐れた日本軍はみずから鉄道を爆破して「満州(まんしゅう)事変」を起こします。
そして、満州国を成立させると、さらに勢力拡大を目指しました。

  • 毛沢東

一方、ロシア革命の影響を受けて結成された中国共産党は「毛沢東(もうたくとう)」が指導者となり、瑞金(ずいきん)に中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立します。
蒋介石は日本との全面衝突を避け、毛沢東率いる共産党との内戦を優先しました。
しかし1937年、北京郊外の「盧溝橋(ろこうきょう)事件」をきっかけに、日本は宣戦布告をしないまま中国との全面戦争に突入します。

日中戦争と毛沢東
  • 中華人民共和国成立

それまで争っていた国民党と共産党は、日本に対抗するため「国共合作(こっきょうがっさく)」と呼ばれる協力体制をとります。
その後、日本はアメリカ、イギリスとも戦争を開始。
国民党はアメリカの、共産党はソ連の支援を受けて日本と戦い続けました。

1945年、日本の敗戦で第二次世界大戦は終わります。
戦時中、日本に対抗するために手を結んでいた国民党と共産党は、戦後政治における主導権と統治地域を争い、再び内戦に突入します。
最初は国民党が軍事的に優位でしたが、政治の腐敗や経済政策の失敗で労働者や知識人の支持を
失います。
一方、共産党は農民に地主の土地を分け与えることで、農村部での支持を得て、形成を逆転します。

1949年、毛沢東は「中華人民共和国」の建国を宣言。
こうして、共産党が指導する国家建設が進められていくことになるのです。
敗れた蒋介石と国民党は台湾に逃れ、中華民国政府を維持していきました。

  • 上田信先生

お話をうかがうのは、立教大学教授の上田信先生です。

早紀 「農村部から中国の発展が始まったんですね。」

上田先生 「そうですね、でも、そう簡単にはいかないんですね。
冷戦において社会主義陣営だった中国は、建国の翌年1950年に朝鮮戦争に参戦します。そして、アメリカ軍を主とする国連軍と戦って甚大な被害を受けます。さらに経済的にも冷戦の影響で、資本主義諸国から貿易統制を受けていたわけで、その戦争の後、もっと厳しい経済封鎖を受けることになってしまいます。」

マヤ 「中華人民共和国は建国早々に逆境に立たされたわけですよね。どう対応したんですか?」

上田先生 「毛沢東は、おそらく次のように考えたと思いますね。
アメリカなどと渡り合うためは、大砲などを作らなければいけない。そのためには重工業を起こさなければいけないんですけれども、資金がない。そこで、農業から資金を調達しようとした。ソ連では農業の機械化を進めていましたが、中国はそれができない。そこで集団で人力を集中して何とかしようとしたわけですね。」

  • アメリカとの平和共存路線へ転換
  • 大躍進政策

1953年より、中国はソ連の支援を受けて農業の集団化を進めるとともに、工業化を目指しました。
しかし、ソ連がアメリカとの平和共存路線をとるようになると、中国はこれを批判。
ソ連の技術支援を受けられなくなります。

そこで、毛沢東はソ連とは異なる社会主義を目指していくことになります。
1958年からは、毛沢東による、「大躍進(だいやくしん)政策」がはじまります。
これは、農村の人員を総動員することで農業と工業の急速な発展を目指すものでした。

  • 農民の労働意欲は低下し農業生産が減少
  • 品質の悪い鉄を大量に生産

農業では、農地などの個人所有をやめ、共同で管理する「人民公社」を組織し、大規模な集団農場化を進めました。
しかし、農作業を共同で行うやり方は農民の労働意欲に結びつかず、生産量は逆に減少してしまいます。
また、工業ではレンガなどでできた原始的な溶鉱炉で、農家の人たちに鉄を作らせました。
この作業に農民を動員したことから、農業生産力はさらに低下してしまいます。
また技術が伴わないことから、品質の悪い、役に立たない鉄を大量に作る結果となりました。
経済は大混乱し、自然災害も重なったことで、ついには2千万人ともいわれる餓死者を出すに至り、大躍進政策は失敗に終わりました。


マヤ 「それほど多くの犠牲者が出るまで、なぜこの大躍進政策というものを止められなかったんでしょうか?」 

上田先生 「その当時、知識人が疑問に思っても言論が統制されて、自由に意見が言えるような状況ではなかったんです。もともと達成が不可能な目標が掲げられていたこともあり、嘘の報告が政府に上げられるようになったことも、事態を悪化させることになりました。」

早紀 「手作りの溶鉱炉で農民に鉄を作らせるという発想は、どこから生まれたんでしょうか?」

上田先生 「人民公社というのは、自分たちの力で、すべての生産を行おうという毛沢東の考えから生まれたわけです。これを自力更生と言います。
その結果、溶鉱炉のほとんどが素人の見よう見まねでつくったものなので、例えば知識人がダメだと思っても、反対意見は言えなかったということになります。
そして、鉄を作るために、大量の木材を必要として、その結果山が丸裸になるほど伐採されてしまう。そして環境破壊も深刻化してしまったということがありました。」

  • 劉少奇と搶ャ平

「大躍進」の失敗によって各地で批判が出たことから、毛沢東は権力を失い、新たに国家主席となった「劉少奇(りゅうしょうき)」が、「搶ャ平(とうしょうへい)」らとともに、経済の立て直しを図ります。
人民公社の規模は縮小され、農民は農産物の一部を市場で売ることができるようになりました。

経済が回復していく一方で、人々の間に経済格差が生まれていきます。
これを毛沢東は批判し、「文化大革命」という運動を起こします。
毛沢東語録を手にした若者たちが、毛沢東の思想に反すると見なした政府の幹部や、知識人たちをつるし上げにするなど、急進的な運動は激しさを増し、社会を混乱に陥れました。
こうした中、経済のかじ取りをしてきた搶ャ平は失脚し、再び農業や工業は低迷していくことになります。

  • ニクソン大統領が訪中
  • 日中の国交正常化

文化大革命の10年間で、経済で立ち遅れた中国は、ひそかにアメリカとの関係改善を模索し始めていました。
またアメリカ側も秘密裏に、キッシンジャー国務長官が中国を訪問して、周恩来首相と交渉を持ちます。
1972年、アメリカの大統領としては初めて、ニクソン大統領が訪中し、その対立関係に終止符が打たれました。
これを機に、日本も中国と「日中共同声明」に調印し、国交正常化を実現しました。
中国をとりまく情勢は、大きく変化していったのです。


早紀 「中国とアメリカはこれまで対立してきたのに、どうして関係が修復できたのでしょうか?」

上田先生 「その頃、ベトナム戦争から撤退を考えていたアメリカは、相手の北ベトナムを支援するソ連を牽制するために、中国に接近しようと考えていたわけです。
中国の方はどん底の経済を改善するために、アメリカを中心とする資本主義諸国とのつながりを持ちたいと考えていた。その利害がお互いに一致したということになります。」

解放から開放へ
  • 外国資本の自動車工場
  • 天安門事件

1976年、毛沢東が死去すると、文化大革命の指導者たちは失脚し、この運動は終わりを告げます。
これによって、搶ャ平が復権し、その指導のもと市場経済の導入が進められました。
国内経済を改革し、そして外国資本に扉を開く、「改革開放政策」に転換します。
外国からの投資により、その設備や技術を導入する経済特別区も設けられ、工業の近代化が図られました。
「豊かになれる者から先に豊かになれ」という搶ャ平の言葉通り、都市を中心に経済は発展しますが、農村部は取り残され経済格差が広がるという問題が生まれました。

1980年代後半に入ると、ソ連や東欧諸国で社会主義政権の崩壊が始まっていきました。
1989年、中国でも学生を中心に民主化要求運動が起こり、天安門広場は政治の自由化を求める人々で埋め尽くされました。
政府内で民主化へ一定の譲歩をしようとする動きもありましたが、搶ャ平は武力で鎮圧、多くの死傷者を出しました。
これによって中国は国際社会から経済制裁を受け、経済的に大きな打撃を被ることとなるのです。


マヤ 「毛沢東は、大躍進政策で貧富の差がない平等な社会を目指したものの失敗。搶ャ平は改革開放政策で豊かになったものの、経済的な格差が生まれてしまったということなんですね。」

上田先生 「そうですね。中国共産党は、市場経済を否定したり取り入れたりと、振り子のように揺れていたんですね。指導者はその時々、模索をしていたということになります。」

マヤ 「天安門事件では、民主化を求める動きが武力によって弾圧されてしまいましたが、それでも一党独裁体制への反発というのは激しくならなかったんですね。」

上田先生 「国全体が豊かになっていたということですね。市場経済を取り入れたことで経済的な格差も生まれたわけですけれども、国民全体の生活が豊かになったということがありました。そのために共産党の一党独裁体制ということは保たれた、ということになります。」

世界の中の現代中国
  • 世界の工場

経済発展を続けた中国は、2001年、世界貿易機関、WTOに加盟。
世界経済との結びつきを強めていきます。
2008年にリーマンショックによる世界規模の不況が発生すると、中国はおよそ56兆円の景気対策を打ち出し、世界経済をけん引しました。
中国はインフラの整備と安い労働力を海外資本に提供することで、「世界の工場」と呼ばれるようになりました。
2010年には、国内総生産、GDPで日本を抜いて、世界第2位となります。

国際社会での存在感を高めてきた中国の動向は、相互に依存しあう世界にあって重要な関心事となっています。
しかし、急速な経済発展の陰で、国内の経済格差、少子高齢化、人権問題、また周辺地域との対外的な摩擦など、さまざまな問題も抱えています。



早紀 「中国はこのまま発展を続けるとアメリカも抜きそうな勢いですよね。」

上田先生 「もうすぐ抜くという説もありますし、少子高齢化などで減速するという説もあります。ただ、どちらにしても、中国は経済成長を続けなければならないという理由があるんです。“豊かな暮らしができるのは今の体制のおかげ”という印象を国民に与え続けないと、共産党の一党独裁体制に対する反発が強まってしまうからですね。」

マヤ 「ただ、中国は人権問題など、いくつかの問題も抱えていますよね。」

上田先生 「そうですね。中国と付き合っていく他の国々は、指摘するところはちゃんと伝えて、協調すべき点は協調して、解決をはかっていくということになります。」

卓球がつないだ中国とアメリカ
  • 政井マヤさん

マヤ 「1971年、名古屋市で開催された卓球の世界選手権は、厳戒態勢が敷かれていました。文化大革命の影響もあって、スポーツの国際大会に姿を見せていなかった中国の参加が実現したからです。
この大会期間中に、会場に向かう中国のバスに、間違って一人のアメリカの選手が乗り込んでしまうという出来事がありました。
このときある中国人選手が声をかけ、そのアメリカ人選手と握手をしました。
政治的には米中は対立していましたが、この話が報道されると、これが一つのきっかけとなり、毛沢東は大会後にアメリカ卓球チームを中国へと招待しました。翌年には、ニクソン大統領が中国を訪問。
小さなピンポン玉が、大きな国際舞台を動かしていくことになるのです。」


それでは、次回もお楽しみに!

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