NHK高校講座

世界史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:20〜2:40
※この番組は、前年度の再放送です

世界史

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今回の学習

第35回

冷戦とその終結

  • 世界史監修:東京都立大学教授 中嶋 毅
学習ポイント学習ポイント

冷戦とその終結

  • 政井マヤさん
  • 野呂汰雅さん

ここは歴史の専門家も来店する無国籍雑貨屋。
政井マヤさん、野呂汰雅(たいが)さんと一緒に、世界史のおもしろさを探っていきます。

  • 冷戦

20世紀、人類史上、例をみない犠牲を払った二つの世界大戦の経験から、紛争を平和的に解決する方法が模索されるようになりました。
しかし、その一方で世界はアメリカ合衆国を中心とする西側・資本主義陣営とソヴィエト連邦中心の東側・社会主義陣営に分かれて、勢力を競い合うようになります。

半世紀にわたり続いたこの対立の始まりと終わり。
そして、その後の世界についてみていきます。

  • 中嶋毅先生

お話をうかがうのは、東京都立大学教授の中嶋毅先生です。

マヤ 「第二次世界大戦の後、世界の平和を守るために、戦前の国際連盟に続く組織として、国際連合が設立されましたよね。」

中嶋先生 「戦争を防ぐためには、すべての国々が協力するための組織が必要ということで、国際連合の第一の目的は、世界平和の維持なんです。」

汰雅 「でも、世界各地で戦争や紛争などは無くならないですよね。」

中嶋先生 「それは、大戦後すぐに始まったアメリカとソ連とのあいだの冷戦時代の経験が、いまだにさまざまな問題の歴史的な背景となっているためです。」

冷戦体制の形成の展開
  • アメリカとソ連の対立

第二次世界大戦では、同じ連合国側だったアメリカとソ連ですが、戦後、徐々に対立を深めるようになります。
ソ連は、ドイツから解放された東欧諸国に影響力を強めていきます。
ポーランド、ハンガリー、ルーマニアなどで、社会主義政権の樹立を支援し、自国の勢力圏を拡大させていきました。
それに対して、アメリカは「マーシャルプラン(ヨーロッパ経済復興援助計画)」を発表します。
戦争で疲弊したヨーロッパ諸国に経済援助をすることで、ソ連の影響力の拡大を阻止しようとしたのです。
こうして、西側の資本主義陣営と東側の社会主義陣営とが、敵対するようになりました。
「冷戦」と呼ばれたこの対立は、米ソの直接的な戦争には至らないものの、国際社会に大きな緊張をもたらしていきます。

  • ドイツは共同管理下におかれた
  • ドイツ連邦共和国とドイツ民主共和国が成立

深まる東西の対立は、戦後のドイツをめぐる問題にあらわれます。
第二次世界大戦の敗戦国ドイツは、アメリカなど西側3カ国とソ連の共同管理下におかれ、首都だったベルリンも、同じように分割されました。
1949年、西側諸国とソ連が管理していた西部と東部に、それぞれドイツ連邦共和国とドイツ民主共和国が成立、ドイツは異なる国家に分かれました。

  • 北大西洋条約機構(NATO)
  • ワルシャワ条約機構

  • 西ベルリンを取り囲む
  • ベルリンの壁

同じ年には、アメリカなど西側諸国が、軍事同盟「北大西洋条約機構(NATO)」を結成しています。
それに対抗したソ連は1955年、軍事同盟「ワルシャワ条約機構」を結成します。
東西対立が加速する中、東ドイツは自国民が西側に亡命するのを防ぐため、西ベルリンを取り囲む壁「ベルリンの壁」を築きます。
有刺鉄線とコンクリートの壁は、東西分断の象徴となりました。

  • 朝鮮半島は南北2国家に分かれた

冷戦は、東アジアにも及びます。
朝鮮半島は戦後、北緯38度線を境に米ソで分割管理された後、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の南北2国家に分かれました。

1950年、北朝鮮は南北統一を目指して韓国に進軍。
ソ連と中国はこれを支持します。
これに対して、アメリカ軍を中心とする国連軍が反撃し、戦いは38度線でこう着状態となります。
1953年、休戦協定が結ばれますが、南北の分断は続いています。


マヤ 「冷戦の影響はアジアにも広がっていたわけですが、東西が対立する根本的な理由は何だったのでしょうか?」

中嶋先生 「この問題はロシア革命後の歴史にまでさかのぼります。レーニンは、社会主義を世界に広げようとしました。それに対して、資本主義世界は脅威を感じていました。
そこで、資本主義世界は干渉戦争を展開しましたが、この経験がソ連に自国の安全保障の必要性を痛感させることになりました。
その結果、資本主義対社会主義という対立が冷戦につながっていくわけです。」

  • 南北で対立していた
  • 1976年南北統一

米ソ対立の最前線となったのが、ベトナムでした。
第二次大戦後、ベトナムは植民地化をもくろむフランスとの戦争をへて、北は社会主義のベトナム民主共和国、南はアメリカが支援するベトナム共和国に分かれ、対立していました。

1960年、南ベトナムで反米・反政府運動が高まり北ベトナムの支援を受けた「南ベトナム解放民族戦線」がゲリラ戦を展開、内戦状態になります。
社会主義勢力の拡大を恐れたアメリカは1965年、北ベトナムに大規模な爆撃を始めるとともに、南ベトナムに戦闘部隊を派遣します。
大量の兵器と50万人もの兵士を投入したアメリカ軍でしたが、解放戦線の組織的なゲリラ戦に苦しめられ、戦争は長期化します。
アメリカ軍は一般農民とゲリラとの区別がつかずに農村をまるごと焼き尽くすなどし、多くの民間人を巻き込むことになりました。
戦争が泥沼化するなかアメリカへの批判が高まり、1973年、アメリカ軍はベトナムから撤退。
その2年後、戦争は北ベトナムの勝利に終わり、南北は統一されました。

  • キューバ危機
  • フルシチョフとケネディ

冷戦時代はまた、核兵器の開発競争の時代でもありました。
アメリカに続き、ソ連も原爆を持つと両国はさらに、水爆の開発へと突き進んでいきました。
相手を上回る核兵器を持つことで優位に立とうとする歯止めなき軍拡競争となったのです。
そして世界は、あと一歩で核戦争となる事態を迎えます。
1962年、社会主義政権となったキューバに、ソ連はアメリカに狙いを定めたミサイル基地を建設します。
これに対して、アメリカ大統領のケネディはキューバを海上封鎖するなど、戦争も辞さない態度を取りました。
米ソが真っ向から対立した「キューバ危機」です。
この危機は、ソ連のフルシチョフがミサイルを撤去したことで、米ソの軍事衝突による核戦争は寸前で回避されました。

中嶋先生 「米ソ首脳の交渉でなんとか危機は乗り切り、その後は、両国の直接的な武力衝突は回避されました。
米ソはお互い、直接衝突すれば、核兵器の使用にまで踏み込んで、それが破滅につながることを認識していたわけです。」

  • デタント(緊張緩和)

その後、米ソ両国は関係改善に乗り出し、核兵器の制限へと歩み出しました。
「デタント(緊張緩和)」の時代です。
しかし1979年、内戦が続いていたアフガニスタンに親ソ政権が成立すると、ソ連はこれにこたえて軍事侵攻し、主要な都市を制圧、親ソ政権を支持します。
これにアメリカは強く反発します。
第二次冷戦の始まりとも言われました。

冷戦の終結とソ連の崩壊
  • ゴルバチョフとレーガン

80年代、アメリカでは「双子の赤字」と呼ばれた財政赤字と経常収支の赤字を抱えていました。
特に軍事費は財政を圧迫し、深刻な状況にありました。
一方のソ連も軍事費の負担に苦しみます。
さらに、世界的な技術革新の流れから取り残されたことで、経済は深刻なまでに停滞。
生活物資まで不足するようになります。

このような状況を打開しようと、1985年、「ゴルバチョフ」が共産党書記長に就任します。
ゴルバチョフは軍事費の縮小、資本主義諸国との関係改善のため、1987年に「中距離核戦力(INF)全廃条約」を締結。
米ソは、史上初めて核兵器の削減に合意しました。 
さらに、ゴルバチョフは情報公開(グラスノスチ)のほか、経済の活性化と共産党の機構を改革する「ペレストロイカ」と呼ばれる政策を進めます。
しかし、これらの改革はソ連の解体を速めていくことにもなります。
ソ連の改革の動きは東欧の社会主義諸国にも波及し、1989年、ポーランド、ハンガリー、ルーマニアなどで相次いで共産党政権が崩壊しました。

  • ベルリンの壁が開放
  • マルタ会談

同じ年の11月、東ドイツ政府が西ベルリンへの自由な往来を認めると押し寄せた人々によって、ベルリンの壁は壊され、開放されました。
その1カ月後、米ソ首脳会談が冷戦の終結を宣言、ドイツの統一についても話し合われました。
翌1990年、東ドイツが西ドイツに吸収されるかたちで、「ドイツ連邦共和国」が成立します。

  • バルト3国が独立
  • 旧ソ連の15の国

こうした一連の動きは、ソ連の解体につながります。
ドイツ統一直後に、ソ連の構成国だったバルト3国が独立を宣言すると、そのほかの共和国も次々と、独立。
およそ70年続いたソ連は、解体しました。


マヤ 「ペレストロイカは西側諸国にも評価された改革だったと思うんですが、なぜその改革がソ連解体につながったのですか?」

中嶋先生 「ゴルバチョフはペレストロイカを掲げて情報公開政策を進め、企業の自主性を高めて、経済の活性化を図ったり、従来の中央集権的な体制を見直したりします。ところが、この改革の結果あらわれたのは、物価上昇や経済格差など否定的な側面が大きくて、むしろ経済は悪化していったのです。」

汰雅 「経済活性化に向けた改革が、物価上昇や格差を広げてしまったんですね。」

中嶋先生 「そうですね。部分的な改革によって逆に体制全体が機能不全に陥ったのです。」


1991年、ソ連は15の国に解体し、ロシアが国連の常任理事国となりました。

冷戦後の世界
  • 世界の貿易額

90年代以降、ロシアと東欧諸国が世界経済に参加すると「経済のグローバル化」が一気に進みます。
これにより世界の貿易額は飛躍的に増え、1995年には新たな国際組織として「世界貿易機関(WTO)」が設立され、貿易の自由化がうながされました。
また、国境を越えて、「人・もの・金」が動き、情報もかつてないスピードでやりとりされるようになりました。
しかし、経済のグローバル化はすべての国を豊かにしたわけではなく、世界の経済格差は広がったと言われます。

  • コソヴォ紛争
  • 9.11事件

冷戦終結とグローバル化の進展によって、地域紛争や内戦、テロリズムなど、国家の枠組みだけでは解決できない新たな問題も深刻になっています。
旧ユーゴ地域のコソヴォ自治州では、アルバニア系の住民がセルビアからの独立を要求。
それに対し、セルビア勢力が激しく弾圧したことで、紛争が表面化しました。
1999年、NATO軍はセルビアに制裁の空爆を行い、大規模な戦争に発展。
多くの人々が難民となって国外に流出しました。

2001年9月11日には、ハイジャック機がニューヨークの世界貿易センタービルなどに突入する同時多発テロが起きました。
アメリカは事件の首謀者とされるアフガニスタンのターリバーン政権を攻撃しました。


汰雅 「冷戦が終結して、世界が平和に向かうかと思ったら、今度は民族紛争が各地で起きるようになったわけですよね。民族紛争が頻発するようになった理由は、何なのでしょうか?」

中嶋先生 「冷戦時代の社会主義政権の下では、民族間の紛争が表面化しないよう情報を統制し、また、利益を調整する、いわば飴と鞭のコントロールがなされていましたが、社会主義政権の力が弱まったとき、これに代わる調整システムがなかったために、むき出しの対立が直接、紛争にまで突き進んでしまったわけです。
ただ、世界の各地で起こっている紛争自体は、国家間の争いから『内戦』に移行し、平和維持の困難さが増してきているというのが現状です。」

マヤ 「21世紀になると世界各地でのテロが増えて、脅威となっていますよね。これは、なぜでしょうか?」

中嶋先生 「冷戦後に、グローバル化が進んだことで、貧しいものと豊かなものとの間の経済格差がいっそう拡大し、さまざまな対立の背景となったことが一因だと考えられます。」

汰雅 「グローバル化に、ネガティヴな面もあるのはわかったんですけど、世界中のすべての人にグローバル化の恩恵が行き渡って、貧困格差がなくなっていったりとか、争いがなくなる方向にいくのは、あり得ないんですか?」

中嶋先生 「グローバル化とよばれる現象は、問題の深刻化をもたらす一方で、問題の解決の可能性も持っていると思います。
グローバル化する世界の中で、今後も、ともに発展していくには、国境を越えて人々が多様なレベルで交流する中で、相互理解を深め協力していくことが欠かせないのではないでしょうか。」

小さな巨人
  • 緒方貞子さん

マヤ 「冷戦終結後の1991年、国連の難民高等弁務官に就任したのが、緒方貞子さんでした。
冷戦後、難民は徐々に減っていくと考えられていましたが、一気に噴き出した民族紛争によって、その数は空前の規模で増えていきました。 
緒方さんは、難民を保護、支援する組織のリーダーとして、政府機関とも渡り合いながら、解決の糸口を探っていくことになります。ボスニア紛争では、サラエボの人々を見殺しにはできないと、防弾チョッキに身を包み空港に降り立った緒方さんの姿が、世界中に報道されました。
10年間にわたって、世界中の国境地帯や紛争地に足を運び続けた緒方さんは、『小さな巨人』と呼ばれるようになるのです。」


それでは次回もお楽しみに!

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