NHK高校講座

世界史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:20〜2:40
※この番組は、前年度の再放送です

世界史

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今回の学習

第34回

トルコ革命とパレスティナ分割

  • 世界史監修:東京大学副学長 羽田 正
学習ポイント学習ポイント

トルコ革命とパレスチナ分割

  • 政井マヤさん
  • 富田早紀さん

ここは歴史の専門家も来店する無国籍雑貨屋。
政井マヤさん、富田早紀さんと一緒に、世界史のおもしろさを探っていきます。

  • 紛争や内戦が頻発

600年以上の長きにわたって中東を支配してきたオスマン帝国は、1922年に滅亡しました。
その後、帝国の領土には、民族国家や王国など、いくつもの国が誕生していきます。
第二次世界大戦以降、そうした国々で紛争や内戦が頻発し、国際的な問題になっています。
なぜ、西アジア・中東で争いが絶えないのか、その原因を歴史から探ってみましょう。

  • 50年ほど前にもトイレットペーパーが品不足になった

早紀 「トイレットペーパーって、一時期買いだめが話題になりましたよね。実際、どの店でも品切れで、苦労しました。」

マヤ 「今回は、わりと早く収まったけれど、実は50年ほど前にも、トイレットペーパーが品不足になって、当時は買い占めや売り惜しみをしてはいけませんという法律ができるほどだったの。」

  • 第4次中東戦争
  • パレスティナ

トイレットペーパーや洗剤といった日用品の買い占め騒動が起きた、1973年。
原油価格が高騰し、先進工業国の経済は大きな打撃を受けました。
エネルギーの多くを石油に依存していた日本でも、繁華街のネオンサインが消え、工場や商業施設は時短営業となりました。
「第1次石油危機」です。

この年、ユダヤ国家のイスラエルとアラブ諸国との間で、「第4次中東戦争」が勃発。
アラブの産油国が、イスラエルを支援する国への輸出禁止、原油価格の大幅引き上げなどの石油戦略をとったことが、石油危機の原因となりました。

イスラエルとアラブ諸国は、それまでにも何度も戦争を繰り返していました。
この争いによって、地中海東岸の「パレスティナ」と呼ばれる地域に住んでいたアラブ人の多くが土地を失い、難民となりました。
パレスティナの難民問題は今も続いており、およそ560万人が周辺国などの難民キャンプで暮らしています。


マヤ 「パレスティナ問題のほかにも、中東ではシリアやイエメンの内戦やイラク戦争など、紛争がずっと起きているイメージがあるわよね。」

早紀 「イスラーム過激派組織IS(イスラミックステート)っていうのも、ありますよね。中東で紛争が特に多く起きているのは、何か原因があるんでしょうか?」

マヤ 「いつものように歴史を調べてみると、その答えが見つかるかもね。中東を長く支配していた帝国があったのを覚えている?」

早紀 「オスマン帝国!」

  • 1603年のオスマン帝国の領土
  • 1879年のオスマン帝国の領土

アジア、アフリカ、ヨーロッパに広大な領土を持ち、繁栄を誇ったオスマン帝国。
しかし、17世紀以降、徐々にその勢力は衰退していきます。
19世紀末には、露土戦争に敗れて結んだサン・ステファノ条約で、バルカン半島の領土を失いました。
弱体化したオスマン帝国は、西欧諸国から“瀕死の病人”とみなされていました。

トルコ革命
  • セーヴル条約
  • ムスタファ・ケマル

1914年、第一次世界大戦が勃発すると、オスマン帝国はロシアと対立していたことから、同盟国の一員として参戦。
戦争は同盟国の敗戦に終わり、オスマン帝国は協商国によって分割占領されます。
また、講和条約は、多くの領土の割譲や治外法権を認めるなど屈辱的な内容でした。

このとき立ち上がったのが、元オスマン帝国の軍人「ムスタファ・ケマル」でした。ケマルは、国民の不満をまとめて、抵抗運動を組織していきます。
そして、分割占領する協商国軍を撃破しながらイスタンブルに進み、オスマン皇帝を退位させます。
1922年、600年以上続いたオスマン帝国は滅亡しました。

  • ローザンヌ条約

翌1923年、ケマルは屈辱的な内容だったセーヴル条約を破棄し、協商国と新たにローザンヌ条約を結んで「トルコ共和国」を建国しました。
新たに生まれた国は、トルコ人を中心とする国民国家の建設を目指し、政教分離を徹底するフランスを手本として、脱イスラーム化を推進していきます。
公の場における女性のヴェール着用禁止、イスラーム法に基づいた裁判の停止、トルコ語のローマ字表記などです。
現在にまで続くトルコ共和国の土台を築いたケマルには、「アタテュルク」、父なるトルコ人という尊称が贈られました。

  • 羽田正先生

お話をうかがうのは、東京大学副学長の羽田正先生です。

早紀 「オスマン帝国は、“瀕死の病人”なんて酷い言われ方をされていましたけど、どうして衰退してしまったんですか?」

羽田先生 「大きく二つ理由があると思いますね。ひとつは経済的な理由で、かつてはユーラシア大陸の中央に位置している中東地域が、いろんな意味で経済の中心だったわけですが、それが大航海時代にヨーロッパの方に移りますよね。
そのヨーロッパで産業革命が起こって、製品を作る量とか、さらには流通などが、比較にならないくらい経済的にヨーロッパが先に行ってしまったというのがひとつ。
もうひとつは、ナショナリズムですかね。
これもやっぱりヨーロッパの影響なんですが、民族主義が出てきて、広い帝国の中にさまざまな人々が住んでいるオスマン帝国などは、これに対応することができなくなってしまったというのが、“瀕死の病人”だって言われることになった原因のひとつでしょうね。」

  • スラヴ人が多く暮らしていた地域
  • トルコ人、アラブ人が多く暮らしていた地域

マヤ 「露土戦争で失ったバルカン半島では、スラヴ民族の自立運動が盛んになっていましたよね。」

羽田先生 「そうですね。これは、オスマン帝国の領域全体で起こっていたことですね。例えばトルコ人自体も、この時期に“我々はトルコ人だ”という意識を持つようになってくるわけだし、もちろんアラブ地域などもそうですね。」

早紀 「アラブ人も独立国家をつくっていったんですか?」

羽田先生 「つくろうとする努力はしていたんですけれども、やっぱり当時の大国、イギリスとかフランスの意図があって、なかなかそう簡単にはうまくいかなかったんですよ。」

西アジア・中東の植民地化
  • フサイン・イブン・アリー

第一次世界大戦中、イギリスは、オスマン帝国との戦いを有利に進めるため、アラブ人の民族的自覚を利用しました。
メッカを支配していたフサインと交渉して、オスマン帝国への反乱を要請します。
その条件として、1915年に「フサイン・マクマホン協定」を交わして、大戦後にアラブ人国家を樹立することを支持する約束をしました。
フサインの軍は、アラビア半島の紅海沿岸でゲリラ戦を展開。
1918年にはダマスカスを制圧して臨時政府を樹立しました。

  • サイクス・ピコ協定によるオスマン帝国領の分割案
  • 第一次世界大戦後の西アジア

しかし、大戦後のパリ講和会議では、アラブ人の独立国家建設は認められませんでした。
イギリスは、1916年、オスマン帝国領の分割について、フランス、ロシアと秘密裏に「サイクス・ピコ協定」を交わしていたのです。
ロシアは革命が起きたためこの協定から離脱し、結局旧オスマン帝国領の大部分はイギリスとフランスの委任統治領となり、事実上植民地化されました。

  • フランスの目的は地中海交易の拠点とキリスト教徒が多い地域を押さえること
  • イギリスの目的はイラクの石油資源を押さえること

早紀 「そこに住むアラブの人たちよりも、イギリスやフランスの思惑が優先されたのは、なぜなんですか?」

羽田先生 「簡単に言うと、これはイギリスとフランスが第一次世界大戦に勝ったからです。オスマン帝国の領域をどう分割するかは彼らに決める権利があると、彼らは考えたわけですね。
フランスの場合は地中海に面したところ、それからキリスト教徒がたくさんいるところを自分たちの利益にとって重要だと考えたし、イギリスはイラクに攻めていってそこを占領していたんですね。石油が出ることも分かっていて、ここは自分たちが権限を持ちたいと考えたわけですね。」

第一次世界大戦後の西アジア

マヤ 「戦勝国によって、分割されたということなんですね。アラビア語を話す人たちが多い地域ですけれども、そのあとアラブの人の国がひとつできたのではなくて、いくつもの国ができていくんですね。」

羽田先生 「そうですね。イギリスとかフランスの影響力があって、彼らがこういうふうに国を分けましょうと考えて国境線を引いてしまうと、一旦それができてしまうと、簡単には一緒にならないということはありますね。」

マヤ 「言葉がひとつでも、簡単にはまとまらない。」

羽田先生 「現地の人々の意見っていうのも少しは聞いてもらったかもしれませんが、それだけでは話がうまくいかなくて、結果として大国の都合で引かれた国境線というのが、そのあと中東地域の問題を複雑にしていく原因のひとつになっていると思います。」

マヤ 「例えば、3つの宗教の聖地のエルサレムがあるパレスティナですけれども、サイクス・ピコ協定の分割案では国際管理地域ということでしたよね。でも、実際、大戦後にはイギリスの委任領になっているんですね。」

羽田先生 「はい。これは当時第一の大国であるイギリスが責任をもって管理しようとしたのですが、そう簡単には管理できず、第二次世界大戦の後になると“もう私たちにはできません”っていうことになって、今度は国連が出てくるわけです。“ユダヤの人たちにイスラエルっていう国家をつくってもらいましょう”っていうことを決めたところで、問題はさらに複雑になっていくということですね。」

マヤ 「パレスティナ問題が、どんどんそこから深くなっていくんですね。」


アラブ人が多く住むパレスティナに、なぜユダヤ人国家のイスラエルができたのでしょうか。
実は、今からおよそ3000年前、紀元前11世紀の終わりごろ、この場所にユダヤ人の王国がありました。
その王国は、紀元後1世紀にローマ帝国の支配を受けるようになります。
これに対する解放戦争に敗れた結果、ユダヤ人はヨーロッパ各地へ散り散りになっていきました。

ユダヤ国家とパレスティナ問題
  • シオニズム運動
  • 国際連合によるパレスティナ分割案(1947年)

19世紀、民族自決の考えはユダヤ人の間にも広まり、自分たちの国をつくろうという「シオニズム運動」が始まりました。
そして、第一次世界大戦が勃発すると、イギリスはこの運動も利用します。
1917年、資金援助など戦争への協力と引き換えに、パレスティナでのユダヤ国家樹立を支援することを約束したのです。
当時の外務大臣の名前をとって「バルフォア宣言」と呼ばれています。
第一次世界大戦が終わると、ユダヤ人のパレスティナへの入植が進みました。

1939年に始まった第二次世界大戦では、ドイツがユダヤ人に対する絶滅政策を実行します。ヨーロッパ全域でおよそ600万人ものユダヤ人が犠牲になったといわれ、世界的な同情が高まりました。
大戦後の1947年、国際連合はパレスティナをユダヤ人とアラブ人の国家に分割する案を採択。
翌1948年、ユダヤ国家「イスラエル」の建国が宣言されました。


早紀 「パレスティナに住んでいたアラブ人は、ユダヤ人が入植してくることをどう受け止めていたんですか?」

羽田先生 「平和的に、合法的に入植してくることは、拒まないはずですよね。しかし、人数がたくさんになってくると、やっぱりいろんな小競り合いというか日常的な紛争が起こってきて、それを理由に反発がどんどん出てきていたということだと思いますね。」

マヤ 「そういった摩擦が決定的になったのは、第二次世界大戦後の国連による分割案だったんですね。」

羽田先生 「そうですね。分割案の段階でまだアラブの諸国、あるいは現地にいるパレスティナの人たちの同意を必ずしも得られないまま、案の状態の時にイスラエルが建国宣言をしてしまうわけですね。それによって、周りのアラブの人たちが攻め込んできて、“こんなの許せない”ということから、第一次中東戦争が始まっていくということなんです。」

  • パレスティナ戦争(第1次中東戦争)
  • パレスティナの大部分をイスラエルが支配

1948年、イスラエルの建国を認めないアラブ諸国、シリア、レバノン、ヨルダン、イラク、エジプトが一斉に軍を送りました。
しかし、アラブ側の連携はとれておらず、戦争はイスラエルが勝利。
パレスティナの大部分をイスラエルが支配するようになったため、多くのアラブ人が周辺の国家へと逃れていきました。
パレスティナの難民問題は、ここから始まります。

  • ガザ地区(2014年)
  • パレスティナ自治拡大協定調印式

イスラエルとアラブ諸国との間では、1973年の第4次中東戦争を最後に、大きな戦争は起きていません。
しかし、小規模な軍事衝突やテロは頻発し、尊い命が失われています。

1990年代には和平交渉が進み、イスラエルとPLOパレスティナ解放機構が相互に承認して、パレスティナ自治政府が設立されました。
しかし、和平を進めたイスラエルのラビン首相が和平反対派に暗殺されると、アラブ側でもイスラーム原理主義が台頭して、和平交渉は棚上げ状態になっています。


早紀 「和平交渉が進まないのは、どうしてなんでしょうか?」

羽田先生 「和平をするためには、お互いがしっかりと理解し合わないといけないですよね。
立場が違うわけだから相手のことを理解しないといけないんですが、歴史的経緯があって複雑なんですよ。そこが絡まりあっていることがひとつですね。
もうひとつは、国際情勢がどんどん変化していて、ここだけの話ではなくて世界的なレベルでこの紛争をどう扱うかっていうところも変わっていくので、解がひとつではないわけですね。“こうすればいい”っていうのを決められなくて、結局ずるずると今日まで至っているということじゃないかなと思いますね。」

マヤ 「アメリカとか、そういった大国もかなり入り込んでいますよね。それでも前に進んでいくために必要なことは、どんなことだとお考えですか?」

羽田先生 「今は、お互い敵同士だと思って交渉したりしているわけですけれども、“同じ地球の住民なんだ、だから一緒に考えようよ”っていう前向きな態度ですよね。そこからスタートするしかないと思います。また、それ以外の地域の人たちがこれを自分たちの問題だと考えて、一生懸命そこの歴史について学んで、これを解決するにはどうすればいいかということを真剣に考えてみるっていうことが必要かなという気がします。」

マヤ 「周りの国々も関係してきた結果なので、周りの国々も責任を持って、平和の道すじというのをつくっていければいいですね。」

羽田先生 「簡単じゃありませんけどね。」

パレスティナと東日本大震災
  • 政井マヤさん

マヤ 「度重なる戦争やテロで、多くの建物が破壊され、人命が失われてきたパレスティナ。そのガザ地区では、毎年、東日本大震災のあった3月に、子どもたちが凧揚げをしています。
“早く日本の人たちが元気になってほしい”、そして“世界中のどこであっても悲惨な出来事が起きませんように”、という願いが込められているそうです。
2015年からは、震災の被害にあった岩手県釜石市の子どもたちも凧揚げをはじめ、インターネットでの交流も行われています。
ガザと日本の子供たちが、一緒に凧揚げができる、そんな平和な世界が、早く訪れてほしいと思います。」


それでは次回もお楽しみに!

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