NHK高校講座

世界史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:20〜2:40
※この番組は、前年度の再放送です

世界史

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今回の学習

第26回

19世紀ヨーロッパと国民国家

  • 世界史監修:立命館大学教授 山下範久
学習ポイント学習ポイント

19世紀ヨーロッパと国民国家

  • 政井マヤさん
  • 富田早紀さん

ここは歴史の専門家も来店する無国籍雑貨屋。
政井マヤさん、富田早紀さんと一緒に、世界史のおもしろさを探っていきます。

  • プロイセン王国

19世紀、ヨーロッパではいち早く産業革命を成し遂げたイギリスが、圧倒的な経済力で世界帝国を築き上げていました。
同じころ、ナポレオン支配から解放されたヨーロッパ諸国は、イギリスに対抗するように国を挙げて工業化と軍事力の強化につとめていました。

こうした中、ドイツの分立国家の一つプロイセンが目指したのは、人々が共通の国民意識を持つ「国民国家」の形成でした。
国民国家はなぜこの時代に必要とされたのでしょう。

  • お菓子の家と七人の小人

マヤ 「『グリム童話』って、どうしてグリム童話って言うか知ってる?」

早紀 「グリム兄弟が集めた童話だからですよね。」

マヤ 「正解。グリム兄弟は19世紀初めに活躍した人たちで、童話のほかにもドイツ語辞典の編纂(へんさん)や、政治活動もしていたの。」

早紀 「なんだかメルヘンの世界とは雰囲気が違いますね。」

マヤ 「でも、それらはこの時代が、グリム兄弟に求めていたものなの。」

  • ウィーン会議

18世紀から19世紀にかけて、フランス革命とナポレオンの進出によって、ヨーロッパ諸国に自由と平等を尊重する考え方が広まりました。

ナポレオン帝国が崩壊した後の1814年。
フランス革命以来の混乱を収拾するために、ヨーロッパ各国の代表がウィーンに集まって国際会議が開かれました。
この結果作られた国際秩序が「ウィーン体制」です。
各国の主権と領土をフランス革命以前の状態に戻すべきとする「正統主義(せいとうしゅぎ)」に則っていました。
革命で一時権力を失っていた国王や貴族が、再び権力を握ることになったのです。 
しかし、一度君主の専制が絶対ではないことを知った民衆は、ウィーン体制に不満を抱きます。

1848年革命
  • ミラノ蜂起
  • ポーランド蜂起

ウィーン体制下の各国では、自由主義的な変革を求める運動が急激な広がりをみせます。
商業や工業で力を持つようになったブルジョア市民が台頭。
彼らの意見を無視したままでは、国家や政治も立ち行かなくなっていきます。

フランスでは一部の上層市民にのみ選挙権が与えられ、これに対し労働者や都市民衆の不満は高まり、普通選挙を要求する運動が拡大します。
これを弾圧する政府に対して、1848年2月、パリで民衆が蜂起(二月革命)。
革命の波は瞬く間にヨーロッパ中に伝わり、3月にはオーストリアのウィーンや、プロイセンのベルリンでも民族の自立を求める運動が起こりました。
「三月革命」と呼ばれるこのような革命運動の連鎖によって、ウィーン体制は崩壊しました。

  • 山下範久先生
  • ウィーン会議の後のヨーロッパの地図

お話をうかがうのは、立命館大学教授の山下範久先生です。

早紀 「これは、ウィーン会議の後のヨーロッパの地図ですよね。あ、ドイツがない。」

マヤ 「先生、このころはまだドイツという国はなかったんですね。」
 
山下先生 「そうですね。ウィーン体制後のドイツはまだバラバラだったんです。元々ドイツ語を話す人たちは神聖ローマ帝国という大きな枠組みの下で、たくさんの領邦国家や自治都市などに分かれていたんですね。なので、その時もひとつの国だったわけではないんです。」

マヤ 「ウィーン体制っていうのは、フランス革命前の体制に戻すということでしたが、ドイツは神聖ローマ帝国には戻らなかったんですね。」

山下先生 「はい。ウィーン体制は君主や貴族による体制を維持しようとするものでしたが、大国間の複雑な利害をいかに均衡させるかが大きな課題でした。」

マヤ 「ウィーン体制に反対する動きが各地に広がっていきますが、なぜ1848年の二月革命をきっかけに、一気に広がっていったんですか?」

山下先生 「そこには、自由平等という理念だけではなく、国民国家というものをつくっていこうという機運が急速に高まっていた。そういう時代背景が大きく作用しています。」

早紀 「自由平等を求めるのはわかるんですが、国民国家をつくるってどういうことなんですか?」

山下先生 「この当時、ドイツの人々が求めた国民国家を理解するためには『ナショナリズム』というものがどんなものかわかる必要がありますね。」

早紀 「ナショナリズムって、どんなものなんでしょうか?」

山下先生 「ナショナリズムとは、一つの民族が一つの国家を持つべきだという考え方です。そこから、帝国というのは大きな国でいくつもの民族を支配しますから、帝国などの支配から自立して自分たちの国家を持つべきだという考え方も出てくることになります。」

マヤ 「国が王様のものではなて、そこで生きる人々のものなんだという考え方になるんでしょうか?」

山下先生 「そうですね。その考え方が基盤にあって、そこからナショナリズムの考えも出てくるわけですね。19世紀の国民国家を目指したヨーロッパのナショナリズムは、例えばこれまでオーストリアの皇帝の支配下に置かれていて、自分たちの国家を持つことを許されなかった人々が、帝国の支配から自由になって自分たちの国をもって独立しようという運動のことをさします。」

マヤ 「そういった動きの担い手が集団としての一体感を持った民族ということなんですね。」

山下先生 「そうですね。例えば、言語とか、文化、歴史などを共有することで、人々は民族としての一体感を持ったわけですね。」

早紀 「その国民国家をつくるために、実際どんなことをしたんでしょうか?」

山下先生 「これがなかなか簡単なことじゃないんですよ。特にドイツのようにバラバラの状態で、いくつもの国が集まってできているケースだと、一体感を持たせるためにはいろんな工夫が必要だったわけですね。そこで、重要な役割を果たしたものの中に、文学があります。『グリム童話』もその典型的な例の一つなんですね。」

グリム童話と民族の自覚
  • グリム兄弟
  • ブレーメンの音楽隊、赤ずきん、白雪姫

世界中でたくさんの人に親しまれている「グリム童話」は、19世初めドイツのグリム兄弟によって編纂(へんさん)され、出版されました。
二人は、「ブレーメンの音楽隊」「赤ずきん」「白雪姫」など、ドイツ語を話す人々の間で古くから語り継がれてきた民話を聞き集め、まとめることで、連邦諸国の人々に、ドイツ人としての自覚や一体感を持たせようとしたのです。

10代後半の時期をナポレオンに支配された祖国で過ごした兄弟は、ドイツに必要なのはフランス革命の「自由・平等・博愛」の精神ではなく、言葉の力で民族を一つにし、国家をつくることと考え、その活動を始めました。

  • ギリシアが独立
  • ベルギーが独立

ウィーン体制下の各国では、復活した専制体制への反発が、自由主義とナショナリズムの高揚を引き起こし、国民国家誕生の動きを加速させていきました。
1829年には、オスマン帝国に併合されていたギリシアが、ウィーン体制後では、初めて民族としての独立を果たし、各国の運動に刺激を与えました。
さらに1831年には南ネーデルラントがオランダから独立し、ベルギー王国が成立。
新たな国民国家の誕生が続きました。

  • ドイツ語辞典

しかし、グリム兄弟が生きた時代のドイツは依然として、プロイセン、オーストリアを含む、35の君主国と4つの自由都市が分立したまま、まとまりづらい状態が続いていました。
彼らは、ドイツの国家統一運動に賛同し、グリム童話のほかにも初のドイツ語辞典の編纂を行い、政治活動にも参加したのです。


早紀 「グリム童話って、普通の昔話だと思っていましたけど、実は一体感を持たせるためのものだったんですね。でも、人ってみんな違いますよね、一体感ってそんなに大事なんですか?」

山下先生 「はい。もちろん人は一人ひとり意見が違いますよね、でも、連帯って言えばいいんでしょうかね。これは民主主義的な国家にとても大切なことなんです。
例えば、何か決める時には多数決で決めたりしますよね。議会政治の基本は多数決です。議論の結果として、たとえ自分が少数意見で自分の意見が通らなかったとしても、決まったことには従いますよね。それは、反対でも納得して従うことができるっていう、一体感が前提にあるから成り立っていることなんですね。ということは、やはり民主主義が成立するためには、この前提にある一体感がとても大事なことなんですね。」

マヤ 「多数の国々に分立していたドイツでは、三月革命のあと成人男性に選挙権が与えられて、いよいよ議会が開かれるんですよね。」

山下先生 「そうですね。ドイツ連邦を構成する全国各地の代表が1848年の5月にフランクフルトに集まって、国民議会を開きました。」

  • フランクフルト国民議会

三月革命の後、ドイツ全土で「国家統一」の機運が高まります。
5月には普通選挙で選ばれた全国の約650名の議員がフランクフルトに集まり、「統一と自由」を掲げた、第一回の国民議会が開かれました。


早紀 「ドイツの国民が初めて、自分たちで国のことを決めるんですね。」

山下先生 「はい。議題は『憲法制定』と『国家の統一』でした。国家統一は、同じドイツ語を言語とする国を一つにしようとしましたが、オーストリアにはドイツ語を話す人がいっぱいいるものの、ドイツ語を話さない地域を領土にたくさん含んでいるので、オーストリア皇帝は消極的だったんですね。また、プロイセンの国王も自由主義という考え方そのものに反対だったので、こういった議会の要請を受けつけなかったんです。
結果として、議会勢力は急速に力を失っていくことになりました。誕生したばかりの議会はまだ力が弱かったんですね。」

マヤ 「せっかく選挙権を得たのに、自分たちで国家としてまとまりを作ることができなかったんですね。なかなか国民国家の実現というのは難しいですね。」

山下先生 「そうですね。ドイツの統一には結局、強力な政治の力が必要だったんですね。その担い手となった政治家が『ビスマルク』です。」

ビスマルクの国民統合
  • ビスマルク
  • ドイツ関税同盟

1862年、ドイツ連邦の中心国プロイセンの首相に「ビスマルク」が就任します。
彼は就任直後の演説で、「現在の大問題は、言論や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」と言ったことから「鉄血宰相(てっけつさいしょう)」と呼ばれます。
ビスマルクは産業革命で先行するイギリス、フランスに対抗するために、オーストリアを除くドイツの諸国家と結ばれた「ドイツ関税同盟」を基盤に、プロイセン主導の国家統一を成し遂げていきます。 

  • 普墺戦争
  • 普仏戦争

1866年には、ドイツの諸国家を率いてオーストリアと戦い勝利。
オーストリアとこれに味方した南ドイツの国を除いて、プロイセンを中心とする北ドイツ連邦を成立させます。
続いて1870年にはフランスとの戦争を理由に、敵対関係にあった南ドイツの国々も仲間に引き込みます。
そしてフランスに勝利することで、1871年、遂にドイツは念願の国家統一を果たすのです。

  • 白い軍服姿のビスマルク
  • フェルクリンゲン製鉄所

フランスの象徴ヴェルサイユ宮殿で、初代皇帝に選ばれたプロイセン王、ヴィルヘルム1世の戴冠式(たいかんしき)が執り行われ、ドイツ帝国が誕生。
中央には、白い軍服姿のビスマルクの姿も描かれています。

経済的にも強力な国民国家の形成を目指したビスマルクは、当時最先端の製鉄所をつくり、工業化を推し進めました。
しかし、急速な工業化によって労働者の不満が高まり社会主義勢力が台頭すると、社会主義者鎮圧法で弾圧を行います。
その一方で疾病保険などの社会保険制度を導入して、労働者を保護する政策も講じ、いわゆるアメとムチの政策で国民の統合を進めました。

ビスマルクが一つにしたドイツ帝国は、19世紀末にはイギリスの工業生産を追い抜くまでになるのです。


早紀 「ビスマルクがやったのは結局、外に向かっては戦争で、国内に向かってはアメとムチで国民を統合していたように見えるんですが、これが国民国家って言えるんでしょうか?」

山下先生 「国民国家がつくられていく道筋っていろんな形があるんですね。もちろん、国民が下からどんどん盛り上がっていって、国民国家をつくっていくっていう、そういう道筋もあるんですが、上から政治の力で、国民統合が進められていくという形もあるわけです。ドイツはこのケースに当てはまります。
ビスマルクは議会の力を弱いままにし、君主の力も利用しながら、上から強力に国民統合を推し進めて、強いドイツをつくろうとした。そういうふうに言えると思います。」

マヤ 「ビスマルクって、鉄血宰相と呼ばれたり、一方で外交の駆け引きがうまかったり知恵者というイメージがあるんですが、実際どんな人物だったんでしょうか?」

山下先生 「ビスマルクはとても評価が分れる人物なんです。でも、鉄血宰相という言葉のイメージから戦争をしたがっている人物のように思われるかもしれませんが、それはちょっと違うと思います。
19世紀のヨーロッパは、パワーポリティクスといいますか、さまざまな大国がお互いの権益を狙って争っている時代なんですね。その中で、ドイツは後から近代化した国なので、ドイツの権益をどのように守っていくのか、どういうふうに生き残っていくのかということがすごく大事なことだったわけです。そういった意味では、同盟関係を通じて巧みに戦争を避ける外交手腕がむしろビスマルクの功績だったと言えると思います。
そういう形でドイツの生存がうまく図れたことで、彼がドイツを強力な国民国家にしたと言うことができると思います。」

マヤ 「ドイツが国民国家になるためにはビスマルクの強い力が必要だったんですね。国民国家をつくるためには自由や平等という理想だけでは難しい、という例なのかもしれないですね。」

岩倉使節団とビスマルク
  • 岩倉使節団

マヤ 「1871年、できたばかりの明治新政府は、欧米諸国へ大使節団を派遣しました。岩倉使節団です。一行は、成立直後のドイツ帝国も訪れ、ビスマルクと会見しました。そこでビスマルクから、国際関係の基本は、弱肉強食の論理だと説かれたといいます。
その後、日本は西洋諸国と同じように国民国家として、近代化を進めていくことになるのですが、ビスマルクの存在は新政府の面々に強烈な印象を残したのかもしれません。」


それでは次回もお楽しみに!

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