NHK高校講座

世界史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:20〜2:40
※この番組は、2020年度の新作です。

世界史

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今回の学習

第23回

ロシア帝国

  • 世界史監修:東京都立大学教授 中嶋 毅
学習ポイント学習ポイント

ロシア帝国

  • 野呂汰雅さんと政井マヤさん

ここは歴史の専門家も来店する無国籍雑貨屋。
政井マヤさん、野呂汰雅(たいが)さんと一緒に、世界史のおもしろさを探っていきます。

  • イヴァン3世
  • ピョートル1世

1453年、東ローマ帝国として千年以上の歴史を持つビザンツ帝国が、オスマン帝国によって滅ぼされました。

15世紀末、東ヨーロッパにビザンツ帝国の皇帝のあとつぎを自称する君主が現れます。
モスクワ大公国(たいこうこく)の「イヴァン3世」です。
イヴァン3世は、ビザンツ帝国最後の皇帝の姪(めい)と結婚し、自ら皇帝を意味する「ツァーリ」を名乗ったのです。
以後、この国の君主は代々この称号を名乗るようになりました。
モスクワ大公国は、17世紀から18世紀にかけて領土を広げ、国の名をロシア帝国と改めます。
ロシア帝国初代皇帝「ピョートル1世」は、西ヨーロッパ諸国を手本に改革をすすめ、帝国の拡大をはかりました。

ヨーロッパ世界の東の辺境国から強国へと発展した、ロシア帝国の歴史を見ていきます。

  • 西欧への窓

汰雅 「イヴァン3世はビザンツ帝国の皇帝のあとつぎを自称して、皇帝つまりツァーリを名乗ったって言われているんですよね。でも、実際には世間ではあとつぎとして、みんなから認められていたのかなって、ちょっと気になったんですよ。」

マヤ 「そうね。当時のモスクワ大公国は西ヨーロッパ諸国に比べるとまだ国の力が弱かったから、国際的に認めらていたとは言えなさそうね。15世紀末と言えば、西ヨーロッパ諸国はどんな時代だったかわかる?」

汰雅 「1400年代の最後ですよね。あ、大航海時代ですよね!新しい航路を開拓したのはポルトガル、スペインとかで、ロシアの名前は出てきませんでしたよね。」

マヤ 「そうね。当時の西ヨーロッパ諸国はどんどん海外に進出して国を豊かにしつつあったの。ピョートル1世もそれをまねて、改革を進めようとしたわけね。」

汰雅 「そのピョートル1世は、実際どんなことをしたんですか。」

マヤ 「とても面白い人でいろんなことをしたんだけれども、象徴的なのことは都をモスクワからサンクトペテルブルクに移したことね。この街は『西欧への窓』と言われていて、ロシアが何を目指していたのかがよく伝わってくる街なの。」

  • ギリシア風
  • イタリア風
  • オランダ風

ロシア帝国の都として栄えたサンクトペテルブルク。
この街では、西ヨーロッパのさまざまな建築様式を見ることができます。
それぞれの国の一流の建築家を招き、つくらせたのです。
この街をつくったピョートル1世は、西ヨーロッパを手本としてロシア帝国を発展させようとしました。
海を目指して帝国の拡大をはかったのです。

ロシア帝国の拡大
  • モスクワ大公国
  • ひげ税を徴収

中世のロシアではいくつもの勢力が分立し、争っていました。
16世紀になるとその中の一つモスクワ大公国がロシアを支配します。
モスクワ大公国はビザンツ帝国のギリシア正教を受け継いだロシア正教を心の拠り所とするスラヴ人の国でした。

17世紀後半、モスクワ大公国の君主となったのがピョートル1世です。
ピョートルは西ヨーロッパの国々を手本に商工業の育成と軍備の増強に力を注ぎました。
250人の大使節団を西ヨーロッパに派遣。
ピョートル自らも参加し、1年半にわたってオランダやイギリスなど先進国を視察しました。
その中でピョートルは身分を隠し、造船所で大工として働いたりもしました。
その腕前は立派な船を造り上げたという証明書を授けられるほどでした。
視察のあと、ピョートルは大量の技術者を連れて帰り、大規模な西欧化を推し進めます。

まず軍備の強化です。
最新の技術で軍艦を次々と建造し、海軍を整備します。
学校の教育には科学や語学など実用的な学問を取り入れました。
また社会慣習も西欧風に改めさせます。
長いあごひげを切るように命じ、従わない者からは「ひげ税」を徴収しました。

  • 1721年ロシア帝国成立

ピョートルは、北方戦争でスウェーデンを破り、バルト海へ進出。
海に面した沼地に10年をかけ、新たな都市を建設します。
この街をサンクトペテルブルクと命名すると、モスクワ大公国の首都を移しました。
西ヨーロッパとのつながりを強めようとしたのです。
1721年、ピョートルはモスクワ大公国を正式に帝国と宣言します。
このときロシアはすでに広大な領土を持つ国でしたが、海洋交易を活発に行うための港、冬でも凍らない不凍港(ふとうこう)がありませんでした。

  • エカチェリーナ2世
  • 黒海から地中海に抜ける交易ルートを確保

18世紀後半、領土をさらに拡大し、不凍港を手に入れる政策を進めたのが、皇帝「エカチェリーナ2世」でした。
エカチェリーナはまず黒海に軍隊を進めます。
オスマン帝国と戦い、クリミア半島を獲得。

ロシアの狙いは黒海から地中海に抜ける交易ルートを確保すること。
クリミア半島の獲得はその一歩でした。
このように不凍港を獲得し、海洋交易ルートを確保するための政策をロシアの「南下政策」といいます。

  • 中嶋毅先生

お話をうかがうのは、東京都立大学教授の中嶋毅先生です。

汰雅 「ピョートル1世ってどんな人だったんですか?」

中嶋先生 「ピョートル1世は2メートルを超える大男だった人で、とても好奇心が旺盛で船大工の仕事をしたり、医学を学んだり、さまざまな知識を習得したと言われています。」

マヤ 「そのピョートル1世ですけれども、港を求めて海外進出するようになったきっかけというのはあるんですか?」

中嶋先生 「子供のころから外国に関心を持っていて、お父さんである君主アレクセイがつくっていた『外国人村』というのがモスクワの郊外にあったのですが、そこに出入りして、さまざまな風習や文化に触れていた。その中で、外国の豊かな富がロシアにとっても必要だということがわかってきた。」

マヤ 「海外と貿易することの重要性をその外国人村で学んでいたということですか?」

中嶋先生 「そうですね。そうしてピョートルは外に向かっての目を広げていって、海の大切さに気がつくようになったわけです。ところが南にはオスマン帝国がありましたので、オスマン帝国と何度も戦って、ロシアは港を獲得しなければなりませんでした。」

マヤ 「それが南下政策ということなんですか?」

中嶋先生 「そうですね。そこにさらに『東方問題』が関わってきて、たいへん複雑な様相を呈するようになっていきます。」

東方問題とロシア
  • 東方問題
  • 地中海に抜ける通行権を得た

「東方問題」とは、西ヨーロッパから見て東方にあるオスマン帝国の領土と、その地域での民族問題をめぐって起きた紛争や対立のことをいいます。
19世紀、オスマン帝国が弱体化すると、バルカン半島やエジプトなどでさまざまな紛争が起こり、国際的な対立に発展したのです。

マヤ 「ロシアの南下政策とこの東方問題は、どんなふうに関わってくるんですか?」

中嶋先生 「例えば、オスマン帝国の領土だったエジプトが自立して、オスマン帝国と二度にわって戦争を行います。ここにイギリス、フランスなどの西ヨーロッパの国々がそれぞれの思惑を持ってエジプト側に立ったり、オスマン帝国側に立ったりしていました。ロシアもここに関わってくるのですが、この戦争ではオスマン帝国を支援しました。」

汰雅 「オスマン帝国は、ロシアと敵対関係にあったんじゃなかったでしたっけ?」

中嶋先生 「もともとはそうだったんですが、このときロシアはオスマン帝国と密約を結んで、オスマン帝国を支援する側に立ちました。そしてその見返りとして、黒海から地中海に抜けるダーダネルス・ボスフォラスの二つの海峡の独占的な通行権を得ようとしたのです(画像・右)。」

汰雅 「つまり、南下政策のためにオスマン帝国を支援したんですね。」

しかし、ロシアが海峡の通行権を獲得した密約は、イギリスの介入により破棄されることになります。

1853年、ロシアは直接オスマン帝国領へ軍をすすめます。
「クリミア戦争」です。

開戦当初はロシアが優勢でした。
しかしイギリス、フランスが参戦すると、激戦となりロシアは敗北。
黒海に軍艦を浮かべることすらできなくなります。

  • アレクサンドル2世
  • エーゲ海、地中海へ抜けるルート

ロシア皇帝アレクサンドル2世はイギリス、フランスとの国力の差を痛感し、ロシアの近代化に取り組むことになります。
一方、オスマン帝国の衰退にともない、バルカン半島ではスラヴ人の独立運動が多発します。
これに目を付けたアレクサンドル2世は、独立を助けて保護国とすることで地中海へのルートを手に入れようと考えます。

1877年、ロシアはスラヴ民族の救済を口実にオスマン帝国に戦争を仕掛け、勝利します。
「ロシア=トルコ戦争」です。
「サン=ステファノ条約」を締結し、ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立が認められます。
ブルガリアは自治国とされ、事実上、ロシアの保護下に置かれました。
こうしてロシアは狙い通り、ブルガリアを通ってエーゲ海、地中海へ抜けるルートを手に入れたかに見えました。

  • ビスマルク
  • キプロス、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

しかし、これにイギリスとオーストリア=ハンガリー帝国が反発します。
ロシアとイギリス・オーストリア連合の対立が深まります。
ここでドイツが調停に乗り出します。
ヨーロッパの勢力均衡を保とうとするドイツの宰相(さいしょう)「ビスマルク」が1878年、「ベルリン会議」を開催。
その結果、サン=ステファノ条約は破棄されます。
ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立はそのまま認められましたが、ブルガリアの領土は縮小。(画像右)
ロシアが海へ抜けるルートは遮断されてしまいます。
一方、イギリスはキプロス、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治が認められます。
なぜこのように決まったのでしょうか。

イギリスは、キプロスのある東地中海がインドに通じる重要な交易ルートだったため、ロシアの南下を恐れていました。
またオーストリア=ハンガリー帝国はバルカン半島でロシアの影響力が拡大することを恐れたのです。

  • サン=ステファノ条約によるブルガリアの境界

マヤ 「ロシアは一番の目的だった港をあと一歩のところで得られなくて、ちょっと損した感じですし、一方の待ったをかけたイギリスはまんまとキプロス島を手に入れて、イギリスにすごく有利な気がしますね。」

汰雅 「でも、ロシアも凍らない港、不凍港ですか?諦められないと思うんですよ。そうなってくるとこの次、アレクサンドル2世はどういう作戦を取ったんですか?」

中嶋先生 「はい、ところがですね、アレクサンドル2世はベルリン会議の3年後に暗殺されてしまったんです。」

汰雅 「暗殺ですか?どうしてですか?」

中嶋先生 「話は少しさかのぼりますが、ロシアがクリミア戦争で敗北したのちに、ロシアが近代化を進めていくことになるのですが、その近代化のあり方をめぐって反対する人々が現れて、それで暗殺されてしまったわけです。」

帝国の近代化
  • 農奴解放令
  • シベリア鉄道

クリミア戦争に手痛い敗北を喫したロシアは、国の近代化に取り組みます。
1861年、皇帝アレクサンドル2世は、「農奴解放令(のうどかいほうれい)」を公布しました。
しかし、農奴は、解放されても自立するには土地を領主から買い取らねばなりませんでした。
ほとんどの農民は、領主や政府に対して借金を背負わされてしまいます。
アレクサンドル2世の改革は社会全体に及びましたが、貴族や領主たちの反対にあい、思うように進みませんでした。
改革への期待は失望に変わり、不満を抱えた人々の中にはテロに走るグループが現れます。
その結果、志なかばでアレクサンドル2世は暗殺されてしまいました。
しかし、改革で解放された農民たちはやがて、都市の労働者となり、のちのロシアの工業化を支えていきます。
また次の皇帝の代にはシベリア鉄道の建設が進み、ロシアは極東に新しい海への出口を手にしたのです。


マヤ 「ロシアがずっと手に入れたかった不凍港。南下政策でブルガリアの方から行けなかったわけですけど、結局手に入れたのは、この東の端っこのウラジヴォストクで、これモスクワや、サンクトぺテルブルクからすごく遠いですよね。鉄道でもどのぐらい時間がかかるんでしょう?」

中嶋先生 「そうですね。今でも一週間以上かかるぐらいの時間がかかりますので、当時はかなり遠かったと思われますね。」

マヤ 「ロシアの南下政策をいかに西ヨーロッパが阻んだかっていうことなんですね。」

帝国の共通点
  • 帝国の特徴は?

マヤ 「ロシア帝国が誕生した18世紀、ユーラシア大陸には他に、中国の清帝国、インドのムガル帝国、トルコのオスマン帝国などがありました。
『帝国』といえば、いずれも広大な地域を支配することで、多様な人々、たとえば異なる宗教や言語の人々を、統治しているのが特徴の一つでした。
帝国には他に、どんな共通点があるでしょう?ローマ帝国、モンゴル帝国などと比較してみると新しい発見があるかもしれません。」

それでは、次回もお楽しみに!

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