NHK高校講座

世界史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:20〜2:40
※この番組は、前年度の再放送です。

世界史

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今回の学習

第21回

アフリカへのヨーロッパ人の進出

  • 世界史監修:明治大学教授 溝辺 泰雄
学習ポイント学習ポイント

1.大西洋奴隷貿易 2.探検とキリスト教伝道 3.植民地支配

  • ピスヘルメット
  • 今回のテーマ

「マジカル・ヒストリー倶楽部」にようこそ!
今回のミッションは、「アフリカへのヨーロッパ人の進出」です。

永松さん 「今日の衣装は、アフリカを意識して探検ルックにしてみました。この探検帽は、19世紀に、熱帯地域の植民地用にイギリスで考案されました。ピスヘルメットやコークヘルメットといいます。中にコルクが入っているので、丈夫な上に通気性が良く、しかも軽いんです。」

眞鍋さん 「これだったら、暑い熱帯地域を探検するのにぴったりでいいね。」

永松さん 「探検というと夢とロマンに満ちた物語のイメージがありますが、実はその裏側に、アフリカの植民地化に向けた動きもあったんです。今回は、アフリカの奴隷貿易と植民地化にスポットを当てて、旅のプランにまとめてみました。」

  • 訪れる場所と時代
  • アフリカ大探検!

今回のビュー・ポイントは、

1.大西洋奴隷貿易
2.探検とキリスト教伝道
3.植民地支配

の3点です。

訪れるのは、アフリカ。時代は、7世紀から20世紀初めです。

まず奴隷貿易の拠点だったゴレ島を訪れ、大西洋を渡った1000万人を超える黒人奴隷の背景を探ります。
そして、世界遺産ヴィクトリアの滝を訪ねます。アフリカ探検が、ヨーロッパ列強による植民地化を促した理由とは何でしょうか。

奴隷貿易と植民地支配の背景を知る探検旅行に、さあ出かけましょう!

1.大西洋奴隷貿易
  • ゴレ島
  • 奴隷の家

マジカル・ヒストリー・ツアー、まず始めに、セネガルにある負の世界遺産「ゴレ島」を訪れます。
ここには、奴隷が集められ売買された「奴隷の家」があります。奴隷たちは中庭に商品として並べられ、2階のテラスから品定めをされました。
2人の奴隷が、鎖で足を繋がれ、その間には大きな鉄球が取り付けられていたといいます。鉄球の重さは、10.3キログラムありました。

なぜ、奴隷貿易が始まったのか。時間を遡り、その背景を探りましょう。
マジカル・ジャンプ!

  • 交易ルートと繁栄した王国
  • ダウ船

7世紀以降、西アフリカには、商業都市と地中海を結ぶ交易ルートが発達しました。そして、このルートを支配するマリやソンガイ、ガーナなどの王国が栄えました。

交易ルートを使い、金や塩などを運んだのがムスリム商人です。彼らとの交易を通じて、西アフリカにはイスラームが浸透していきました。
ムスリム商人は、アフリカ東部のインド洋沿岸で、ダウ船という船でインドとの交易を行いました。アジア産の香辛料をアフリカ・中東を経由してヨーロッパに売り、大きな利益を上げます。

  • インド航路開拓
  • 過酷な労働や感染症により大勢が亡くなる

ところが16世紀以降、ヨーロッパ人がインド航路を開拓します。香辛料を直接アジアと取り引きできるようになったため、インド洋沿岸の港はさびれていきました。

また、大西洋航路の開拓によって、ヨーロッパ人はアメリカ大陸の植民に乗り出していました。
そして、ラテンアメリカの先住民を、鉱山や大農場で奴隷として使いました。過酷な労働や、ヨーロッパからもちこまれた感染症によって、大勢の人々が亡くなります。

これを補うため、ヨーロッパ人はアフリカに人的資源を求めて進出します。
大西洋沿岸の港を拠点として、奴隷貿易を始めました。
彼らは、沿岸部の人々に武器を渡し、奴隷貿易の仲介をさせました。アフリカではそれ以前から、戦争で負けた捕虜や犯罪者を、奴隷として売買することはありました。
しかし、ヨーロッパ人の奴隷貿易によって、その規模は桁違いのものとなっていきます。

  • 奴隷船の設計図

奴隷貿易の拠点の一つだったゴレ島の「奴隷の家」で、奴隷たちは狭い部屋に20人近くが押し込められ、船出の日を待ちました。そして、館の裏口に続く船着き場から船に乗せられて大西洋を渡って行きました。
上写真は、当時の奴隷船の設計図です。奴隷たちは足首に鎖をつけたまま、2ヶ月近くもの間、このようなすし詰め状態で運ばれました。

  • 三角貿易:アフリカ
  • 三角貿易:ラテンアメリカ
  • 三角貿易:ヨーロッパ

こうして17世紀以降、成立したのが三角貿易です。

ヨーロッパから、工業製品や銃がアフリカに送られます。銃を手に入れた現地の集団は、奴隷狩りを行います。(左写真)
そして、アフリカから、黒人奴隷がアメリカやカリブ海地域に送られます。奴隷たちは大農園で働かされ、その結果、砂糖・綿花・コーヒーなどが低価格で取り引きされます。(中央写真)
これらはヨーロッパに運ばれ、爆発的に売れました。(右写真)

イギリスはこの貿易で大きな利益を得ます。それは、産業革命を起こす資本として蓄えられました。

  • 奴隷制は19世紀中頃に廃止

眞鍋さん 「ヨーロッパからアフリカに来た人たちが、無理矢理に奴隷を連れて行ったのかと思ってたけど、アフリカの中にも奴隷にする側とされる側の立場の人がいたんだ。思ってたより、さらに悲しい社会のシステムが出来上がっていたんだね。ところで、その奴隷制度は、いつまで続くことになるんだろう?」

永松さん 「奴隷制が廃止されるのは、19世紀中頃です。次は、その背景とその後に訪れる探検の時代を見ていきましょう。」

2.探検とキリスト教伝道
  • ヴィクトリアの滝

マジカル・ヒストリー・ツアー、続いて訪れるのは、世界遺産「ヴィクトリアの滝」です。19世紀に、当時のイギリス女王の名にちなんで命名されました。

なぜ、アフリカの奥地にある滝に、イギリス女王の名がつけられたのでしょうか。
その理由を探るため、マジカル・ジャンプ!

  • 奴隷制度廃止法成立
  • 探検の時代

18世紀中頃から、イギリスで始まった産業革命によって、生産力は飛躍的に増大しました。このため、工業製品の輸出による利益が、奴隷貿易を上回るようになっていきます。
加えて、自由や平等を主張する啓蒙思想が広まっていきます。1833年には、イギリスで奴隷制度廃止法が成立します。
こうして19世紀には、奴隷制という非人道的な制度は、イギリスを皮切りに徐々に廃止されていきました。

そこで、ヨーロッパ人は奴隷ではなく、天然資源をアフリカの内陸部に求めます。

こうして探検の時代が始まり、多くの探検家がアフリカを目指しました。

  • リヴィングストン
  • アフリカでのキリスト教の広まり

ヨーロッパ人として初めてアフリカ大陸の横断に成功したのが、リヴィングストンです。
イギリスで宣教師の研修を受けた彼は、「キリスト教によって未開の土地に光をもたらしたい」という情熱に燃え、アフリカを訪れました。
初期の探検を担った者の多くが、彼のような宣教師でした。探検と布教は対を成して行われ、アフリカの沿岸部から内陸部に向かって、キリスト教は広まっていきました。

1855年、リヴィングストンは巨大な滝に遭遇します。その壮大さに感銘を受けた彼は、「ヴィクトリアの滝」と命名し、イギリス女王に捧げました。

  • モシ・オア・トゥニャ
  • 白人優位思想

眞鍋さん 「アフリカにある滝なのに、なんでヴィクトリアなのか不思議だったけど、イギリス女王に捧げられたっていう背景があったんだ。」

永松さん 「ところが、この滝は、現地名で『モシ・オア・トゥニャ』と呼ばれていました。雷鳴とどろく水煙、という意味です。リヴィングストンは現地での呼び名を無視して、勝手に名前を付けたんです。」

眞鍋さん 「もともとは、名前が付いてたんだね。勝手に来て、勝手に名前を付けて、勝手に女王に捧げるっておかしな話だよね。」

永松さん 「その背景にあったのが、白人優位思想です。アフリカの地は未開で遅れていて、白人の世界こそが優れているという思い込みです。さらには、探検とキリスト教伝道の中で、ヨーロッパ人がアフリカを支配するのは良いことだという考え方も生まれていきます。そして、探検によって得られた情報をもとに、ヨーロッパ各国はアフリカの植民地化に乗り出していくんです。」

眞鍋さん 「キリスト教により未開の地に光を…という考え方自体が、上から目線だよね。現地の人にとっては、迷惑な話だよ。」

3.植民地支配
  • ビッグホール

マジカル・ヒストリー・ツアー。最後は、南アフリカ共和国のキンバリーにある、巨大な竪穴「ビッグホール」を訪れます。
周囲1.6キロメートル、深さは約300メートルあります。人力によって掘ったものでは、最大の穴です。

なぜこんな巨大な穴が掘られたのでしょうか。その謎を探るため、マジカル・ジャンプ!

  • 帝国主義
  • ボーア戦争

産業革命による急速な近代化の先に生まれたのが「帝国主義」でした。
自国で生産する製品の原料となる資源の確保と、製品を売る市場の拡大を目的に、武力を用いて他国を屈服させ植民地にすることです。

帝国主義を進め、世界各地に植民地を作ったイギリスは、アフリカ南部の支配を目論みます。
その理由は、1860年代に発見されたダイヤモンドです。イギリスは、ダイヤモンドの利権を狙いました。

しかし、この地域には17世紀以降オランダ人が移住し、すでに植民地を作っていました。移住したオランダ系の子孫は「ボーア」とも呼ばれていました。オランダ語で、農民という意味です。
イギリスはボーアたちと戦い、勝利します。ボーア戦争(南アフリカ戦争:1899〜1902年)です。1910年、南アフリカ連邦としてこの地を支配し、ダイヤモンドの権益を独占しました。

キンバリーでは、2250万トンもの土砂が掘り起こされ、約3トンものダイヤモンドが採掘されました。これにより出来たのが、ビッグホールでした。

  • ベルリン会議
  • 分割されたアフリカ

アフリカでは、ダイヤモンドの他にも金や銅、アブラヤシや天然ゴムなどの豊富な資源が発見されました。これらの天然資源を求め、ヨーロッパ列強同士が植民地獲得に乗り出し、19世紀後半には領土の争奪をめぐり衝突していきます。

こうした衝突を避けるため、1884年、ドイツのベルリンで会議が開かれました。ここでアフリカは、「主のいない土地」として分割されます。アフリカで暮らす人々の存在は、無視されたのです。

植民地では、支配する国の文化や伝統を受け入れることを強いる同化政策や、白人優位の政策がとられます。このような支配は20世紀後半まで続き、アフリカの自由は奪われました。


眞鍋さん 「アフリカは何百年も前から、20世紀に入ってからも、本当に不幸な時代を過ごしてきたわけだね。ずっとアフリカが奪われる立場で、当時の世界のシステムが出来てしまってたんだ。」

Deep in 世界史
  • 溝辺先生

マジカル・ヒストリー倶楽部の歴史アドバイザー、溝辺 泰雄先生(明治大学 准教授)に歴史の深い話をうかがいます。

今回は、アフリカにルーツのある音楽についてです。

溝辺先生 「17世紀から19世紀の間に、1000万人以上もの人々が、生まれ育った土地から強制的に引き離され『新大陸』に連行されてしまいました。彼らは家族や友人、財産など全てを失い、生きる自由も奪われてしまったわけです。それでも、彼らから奪えないものがありました。それが、音楽なんです。」

黒人音楽の系譜

アフリカの伝統的な音楽は、リズムに乗り、歌い手と聴き手が一体感を得ることが大きな特徴です。
奴隷として連行された人々は、過酷な労働や教会での祈りの場で、自分たちの音楽を奏でます。そうして、感情を表現したり、お互いの絆を確認し合ったりしました。

その結果、アフリカの伝統的な音楽の要素が西洋の楽器や文化と融合して、新しい音楽のジャンルが展開していったのです。

溝辺先生 「上写真は、(黒人音楽の歴史の)概略図になります。祈りの場では、まず『スピリチュアル(黒人霊歌)』というジャンルが生まれます。それが発展して、『ゴスペル』に繫がってくるというかたちです。」

祈りの場以外では「ブルース」から始まって、「ジャズ」や「ソウル」、R&Bとも呼ばれる「リズムアンドブルース」などが生まれました。そして、80年代頃になると「ラップ」が登場し、現在は「ヒップホップ」の人気が高まっていると、先生はいいます。

  • 南米などでの音楽
  • 私たちの心に響いているのかもしれない

溝辺先生 「南米やカリブ海では『サンバ(ブラジル)』や『マンボ(キューバ)』、『レゲエ(ジャマイカ)』というジャンルが発展し、今では多くの人が楽しんでいます。こういったアフリカルーツの音楽が、日本も含め世界の様々な所に伝わり、世界中の人々がこれらの音楽を楽しんでいるということです。」

眞鍋さん 「すごい影響力ですね。」

溝辺先生 「奴隷という過酷な状況においても、アフリカの人々が異国の地で受け継いできた音や踊りの持つ力というものが、私たちの心に響いているのかもしれない。そう思いますね。」

  • 次回もお楽しみに

永松さん 「スポーツの世界でも、アフリカをルーツに持つ選手がたくさん活躍してますよね。」

眞鍋さん 「そうだね、音楽だけじゃないよね。本当にあらゆる国の代表選手に、アフリカにルーツを持つ方がいたりしますもんね。」

溝辺先生 「今や、世界中で活躍してますね。」


次回もお楽しみに!

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