NHK高校講座

世界史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:20〜2:40
※この番組は、前年度の再放送です

世界史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:20〜2:40
※この番組は、前年度の再放送です

今回の学習

第20回

アフリカへのヨーロッパ人の進出

  • 世界史監修:明治大学教授 溝辺泰雄
学習ポイント学習ポイント

アフリカへのヨーロッパ人の進出

  • 政井マヤさん
  • 富田早紀さん
  • 溝辺泰雄先生

ここは歴史の専門家も来店する無国籍雑貨屋。
政井マヤさん、富田早紀さんと一緒に、世界史のおもしろさを探っていきます。
お話をうかがうのは、明治大学教授の溝辺泰雄先生です。

  • 重要な中継地
  • 輸出品が地名に

15世紀半ばに始まった「大航海時代」によって、アフリカ大陸もその歴史の渦の中に巻き込まれていきます。
ポルトガルがアフリカ大陸を回ってインドに至る航路を開拓。
アフリカ西海岸が以前にも増して重要な中継地となりました。
18世紀の地図を見ると、ヨーロッパの商人たちによって港から運び出された輸出品が地名となっていたことがわかります。
アイボリーコースト、象牙海岸。
ゴールドコースト、黄金海岸。
そしてスレーヴコースト、奴隷海岸・・・。
奴隷たちが輸出品というのは、どういうことでしょうか?

大西洋を舞台に繰り広げられた「三角貿易」、そしてヨーロッパ諸国によって急速に進められた、「アフリカ分割」の歴史をみていきます。

  • ガーナの中学校の教科書
  • ガーナにはおよそ46の言語がある

早紀 「ガーナって、どんな国ですか?」

溝辺先生 「とにかく一番に言えるのが、人々が非常に親切で私は行くたびにガーナの人に助けてもらっています。食べ物も非常においしくて。あと、音楽ですよね。音楽とダンスは切っても切り離せないですけれど、街では必ず音が流れていて、みんな体を動かしてるという感じの、非常に楽しい国です。」

マヤ 「アフリカはヨーロッパの植民地だった国がほとんどだと思うんですけれども、今もその植民地時代の影響というのは残っているんですか?」

溝辺先生 「そうですね。ちょっとこちらをご覧いただきたいんですけども。ガーナで使われている中学校の教科書になります。」

マヤ 「“ガーナはおよそ46の言語があります”って書いてますけど、英語で書かれた教科書なんですね。」

溝辺先生 「はい。英語を使う理由っていうのは、そもそもガーナがイギリスによって植民地支配されていたということが原因なんです。」

早紀 「ほかにどんな国がアフリカを植民地にしていたんですか?」

溝辺先生 「まずフランスとドイツですね。あとポルトガルやベルギー、そしてスペインやイタリアもアフリカを植民地化していました。近代のアフリカの歴史は、『分断の歴史』だったといえると思います。」

  • 金と塩の交易ルート
  • マリ、ソンガイ

西アフリカでは金が産出したことから、その金と塩とを交換する交易が盛んとなります。
13世紀から15世紀にかけて、この地域にはマリ、ソンガイといった王国が栄えました。
サハラ砂漠をこえるこの交易ルートを行き来したのは、ムスリム商人たちです。
こうして西アフリカ一帯には、イスラームが浸透していきました。

  • インド航路
  • 大西洋航路

一方、東アフリカの沿岸は、ムスリム商人がダウ船で訪れるインド洋交易の拠点として栄えました。
アジア産の希少な香辛料を、アラビア半島を経由してヨーロッパへ運ぶルートの中継地だったのです。
ところが15世紀末、ポルトガルがアフリカ南周りのインド航路を開拓すると、香辛料は直接取引されるようになり、インド洋沿岸の港は急速にさびれていきます。
そしてスペインが大西洋航路を開拓すると、悲劇がもたらされることになります。
スペインは、征服したラテンアメリカの先住民を大農園や鉱山で働かせました。
しかしヨーロッパから持ち込まれた感染症によって人口は激減し、深刻な人手不足となります。

大西洋奴隷貿易
  • ゴレ島
  • 奴隷の家

アメリカ大陸での労働力の不足は、西アフリカを中心とした「奴隷貿易」につながります。
ヨーロッパ諸国は西アフリカの国々の争いで捕虜になった人々を奴隷として買い求めました。

セネガルの沖合にあるゴレ島。
ここには奴隷が売買された「奴隷の家」が残されています。
連れてこられた奴隷は中庭に並べられ、二階からヨーロッパの奴隷商人たちが品定めをしました。
商品のように買われた奴隷は、この館の船着き場から船に積み込まれ、40日以上にわたって大西洋を運ばれていきました。

  • 鎖
  • 奴隷船の様子

これは奴隷たちを二人一組でつないだ鎖です。
さらに鎖には、重さ10キロの、鉄の玉がつけられました。
狭く不潔な船内。
病気や栄養失調で、航海の途中に命を落とした人も大勢いました。
3世紀にわたったこの貿易で、1000万人を超えるアフリカの人々が連れ去られたといいます。

  • 砂糖、タバコ、綿花が安価に生産された
  • 大西洋の三角貿易

17世紀、ヨーロッパからアフリカへは、布製品や、武器が輸出されていました。
その積み荷を降ろすと船には、アメリカ大陸へ運ばれる奴隷たちが乗せられていきました。
奴隷たちは大農園で、砂糖、タバコ、綿花などを安く生産するため、働かされることになるのです。
生産された商品は、ヨーロッパに運ばれます。
大西洋をはさんだ3つの地域を結んだので、「大西洋の三角貿易」と呼ばれます。
ヨーロッパ諸国はこの貿易で、大きな利益を得ました。
なかでもイギリスでは、その後の産業革命をおこす資本となりました。

  • 武器がアフリカに運ばれている

マヤ 「本当にひどい状況で連れていかれて、奴隷として働かされたんですね。こちらの三角貿易の図なんですけれども、ヨーロッパからは武器がアフリカに運ばれてますよね。現地ではどういう使われ方をしたんですか?」

溝辺先生 「ヨーロッパの奴隷商人たちは、沿岸の王国の支配者たちに武器を売りつけ、ほかの支配者との対立をあおっていったんですね。武器を得たアフリカのさまざまな勢力の支配層が、ほかの勢力と戦争をしていって、負けた側の捕虜を奴隷としてヨーロッパ人の商人に売り渡しました。
もし、捕虜を売らないと銃が手に入らなくなってしまう。そうなると自分たちが今度は逆に戦争に負けて、捕虜にされてしまうかもしれない。商人から得た銃を使って、周辺諸国に対して攻撃を加えていくという、悪循環に陥ってしまいました。
これがまず、アフリカの分断を進めた悲劇として考えることができると思います。」

探検とアフリカ分割
  • リヴィングストン
  • ヴィクトリアの滝と命名

18世紀後半になると、アメリカ独立戦争やフランス革命が人々の意識を変え、非人道的な奴隷貿易に、社会の批判が集まるようになりました。
産業革命で、飛躍的に工業製品の生産を伸ばしていたイギリスで、まず奴隷船反対の大衆運動が起こりました。
そして、1807年に奴隷貿易、1833年に奴隷制が廃止されます。
奴隷貿易を廃止したヨーロッパの国々は、アフリカの内陸部に関心を寄せてゆきます。
探検の時代の始まりです。

ヨーロッパ人として初めてアフリカ大陸の横断に成功したのが「リヴィングストン」です。
「キリスト教によって未開の土地に光をもたらしたい」という情熱に燃え、布教活動のために、アフリカの奥地にまで足を踏み入れていきました。
1855年、リヴィングストンは巨大な滝を発見します。
その壮大さに感銘を受けた彼はヴィクトリアの滝と命名し、イギリス女王に捧げました。

  • モーシ・オア・トゥーニャ

早紀 「ヨーロッパ人にとってアフリカは未知の大陸だったかもしれないのですが、滝を発見してイギリス女王の名前を勝手につけるっていうのは、アフリカの人たちにとっては、どうなんでしょうか?」

溝辺先生 「実は、この滝にはちゃんと『モーシ・オア・トゥーニャ』という名前があったんです。『雷鳴のする水煙』という意味ですね。いわゆる“発見”とか、“探検”という言葉はヨーロッパ中心的な見方だと言うことができると思います。けれどもアフリカ側から歴史を見てみると、まったく違うことに気付くんですね。それが私は歴史の勉強ではとても大切なことだというふうに考えています。」

  • 豊富な天然資源
  • コンゴ

内陸部の探検によって、アフリカに豊富な天然資源があることがわかりました。
燃料となる石炭、電線の材料、銅、機械の潤滑油となるアブラヤシなどです。
それは工業化に不可欠なものでした。

ヨーロッパ諸国による、これらの資源の争奪戦が始まりました。
そして1880年代の初め、アフリカの内陸コンゴ川流域の領有をめぐって、各国の利害は対立します。

  • ベルリン会議
  • 縦に長い形をした国々が並ぶ

1884年、事態を収拾するため、ドイツのベルリンで会議が開かれました。
この会議でアフリカを領有するルールが決められたことで、アフリカ分割は一気に進められていきます。

そのルールの一つは、沿岸部を領有していた国が、その内陸部も獲得できるというものでした。
この分割のルールは、現在の国境線にも影響を見ることができます。
西アフリカでも、内陸部へ、縦に長い形をした国々が並んでいます。

  • 直線的な境界線
  • 白の直角の線が国境

溝辺先生 「植民地の境界線を決めるときは、大きな川とか道路があった場所ではそれにならって決めたんですけども、こちらは現在の地図で、そういう目印がない場所では、ほんとにこの地図が示すような感じで、直線的に境界線が決められました。
左の方(このWEB上では右の画像)の地図、ガーナとトーゴの部分を拡大しています。で、このような形でほんとの直線でガーナとトーゴが分かれていると。」

マヤ 「この白の直角の線が国境線なんですね。」

溝辺先生 「そうですね。国境近くのロメという都市はトーゴの首都なんですね。大都会になります。一方で左のガーナの方は、ガーナの首都から離れた国境の町なので建物も道路もそんなにないところなんですね。
この辺りは、同じ言語を話す人たちがもともと暮らしていた地域だったんですが、一歩この直線の国境を越えただけで、ガーナの方は旧イギリス領なので、今でも公用語は英語で、トーゴの方はフランス領だったので、公用語はフランス語になっています。
さらに飲み物の嗜好とかも、イギリスの紅茶文化はガーナでは広まってますし、トーゴのロメに行くと、フランスのカフェ文化が広まっていて、みんな紅茶よりもコーヒーを飲むというような感じになっているんですね。」

マヤ 「言葉だけじゃなくて、文化や生活様式もそういうふうに分けてしまったんですね。」

植民地支配
  • アフリカのほぼ全域が植民地化
  • セシル・ローズ

19世紀後半、ヨーロッパの国々は、製品の市場として、また原料の調達先として、植民地の確保に一層、力を注ぐようになります。
武力を使って植民地を手に入れる「帝国主義」によって、アフリカのほぼ全域が植民地化されていきました。

イギリスの帝国主義政策のもと、南アフリカのダイヤモンドと金を独占しようとねらったのが「セシル・ローズ」でした。
しかし南アフリカには17世紀以降オランダ人が移住し、その子孫であるブール人がすでに国家を建てていました。
ローズ率いるイギリスはブール人たちと戦い、これに勝利。
1910年に南アフリカ連邦をつくります。
イギリスは、南アフリカのケープタウンからエジプトのカイロまで、南北縦断の領有を目指しました。

こうしたヨーロッパ列強の植民地では、大資本のもと、鉄道の敷設、天然資源の採掘などが進められました。
そして、現地のアフリカ人たちを、強制的に働かせたのです。


早紀 「奴隷貿易は終わったのに、アフリカの人たちはどうして酷使され続けるんですか?」

溝辺先生 「当時のアフリカには貨幣を使わずに生活していた人も多くいたんですね。植民地化はアフリカの社会の仕組みを根底からが変えてしまいました。
ヨーロッパの植民地になって、アフリカの人々は税金の支払いが義務化されました。で、その支払いのために低賃金労働者として雇用されたり、場合によっては強制労働を強いられることもあったんですね。」

早紀 「その強制労働から逃げることはできなかったんですか?」

溝辺先生 「はい。ヨーロッパの植民地政府は、アフリカの人たちが逃げないように、身体的特徴とかあと(使っている)言葉によって、いわゆる『部族』という概念でアフリカの人たちを登録してゆくことになります。もともとそういった人たちというのは、各地を移動しながら生活している人たちが多かったんですけれども、どこどこ族の場所はここで、“お前たちはここから動いてはだめだ”というような形で固定化されていくんですね。」

マヤ 「『部族』というカテゴライズというのも、ヨーロッパ人がつくったということなんですね。」

溝辺先生 「そうですね。植民地時代になると、学校教育が普及していくことになるんですけれども、そういった中でも“あなたは何々族のひとりです”という形で教えられてゆくことになります。そういう形でアフリカの人たちも自らを“自分たちは何々族なんだ”というふうに認識するようになっていって、それが今でも続いている『部族』対立のもとになってしまっているんですね。」

アメージング・グレース
  • ジョン・ニュートン

マヤ 「『アメージング・グレース』という曲は、教会で歌われる賛美歌、ゴスペルの一つです。なかでもアフリカ系アメリカ人に歌い継がれてきました。
この歌を作詞したのは、イギリス人のジョン・ニュートン。実は、彼は若いころ、奴隷貿易船の船長でした。
ニュートンは38歳で牧師になると、その過去を悔いるようになります。晩年には、隠しておきたいような奴隷船での自分のひどい行いなどを証言しました。
1807年、イギリスは奴隷貿易を廃止します。ニュートンがその生涯を閉じたのは、廃止が決まって数か月後のことでした。」


それでは、次回もお楽しみに!!

科目トップへ

制作・著作/NHK (Japan Broadcasting Corp.) このページに掲載の文章・写真および
動画の無断転載を禁じます。このページは受信料で制作しています。
NHKにおける個人情報保護について | NHK著作権保護 | NHKインターネットサービス利用規約