NHK高校講座

世界史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:20〜2:40
※この番組は、前年度の再放送です

世界史

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今回の学習

第17回

明朝から清朝へ

  • 世界史監修:立教大学教授 上田 信
学習ポイント学習ポイント

明朝から清朝へ

  • 政井マヤさん
  • 野呂汰雅さん

ここは歴史の専門家も来店する無国籍雑貨屋。
政井マヤさん、野呂汰雅(たいが)さんと一緒に、世界史のおもしろさを探っていきます。

  • 金閣

今回は14世紀の末、日本で金閣が建てられた時代のお話から。
金閣を足利義満(あしかがよしみつ)が建てたのには、ある国からの使者をもてなすための目的もあったといいます。

ある国とは、中国の王朝「明(みん)」
明は、朝貢(ちょうこう)貿易以外の民間の海上交易を禁止する「海禁(かいきん)」という政策を行っていました。
ところが、16世紀、海上交易が莫大な富を生み出すようになると、海禁に抵抗する勢力が台頭します。
明の次の王朝「清(しん)」は、海上勢力を平定すると海禁をゆるめ、交易が盛んになります。

東アジアが、海上交易によって、つながっていく明朝(みんちょう)から清朝(しんちょう)の時代をみていきましょう。

汰雅 「金閣寺って、中国王朝の明を意識してつくられたんですね。」

マヤ 「金閣が最初につくられたのは、1397年。当時の将軍は、足利義満。中国と日本の国交を復活させるために、金閣をつくったとも言われているのね。」

汰雅 「でも、たしか中国に攻められていませんでしたっけ?元寇で。」

マヤ 「そう。攻められて、国交も長い間止まっていたんだけれども、民間での交易はずっと続けられていたの。」

汰雅 「民間で交易しているのに、金閣寺をつくってまで国交を復活させたかった。なんでだろう。」

マヤ 「それは、中国を治めているのが、元から明に変わったことが、大きな転換点なのね。
明の時代には、朝貢以外の貿易は認められなくなってしまったわけ。そこで義満は、明と君臣関係を結んでまで、国交を回復して交易を復活させようとしたわけ。」

明朝の海禁政策と倭寇
  • 朱元璋
  • 1368年に明を建国

14世紀中頃、中国を統治していた元(げん)は、経済の混乱から危機に瀕していました。
農民の反乱が各地で勃発。
その最大のものが、「紅巾(こうきん)の乱」です。
指導者は「朱元璋(しゅげんしょう)」、後の「洪武帝(こうぶてい)」です。
洪武帝は、1368年、南京(なんきん)を都として、「明(みん)」を建国すると、元(げん)の皇帝一族をモンゴル高原へと追いやります。
再び漢民族の王朝が中国を支配することになりました。
洪武帝は、皇帝による独裁体制を強めていきます。

  • 里甲制
  • 倭寇

一方で、反乱によって荒廃した農村の立て直しも行いました。
その一つが「里甲制(りこうせい)」です。
110戸の農家を1つの集団「里(り)」として整理。
そのリーダー「里長(りちょう)」に、徴税と治安維持を徹底させました。
人々を組織に組み込むことで、皇帝の支配を末端まで浸透させたのです。

明が建国した頃、東シナ海では、日本を拠点とする武装集団「倭寇(わこう)」による襲撃が繰り返されていました。
洪武帝は、この倭寇と国内の反乱勢力とが結びつくのを防ごうと、「海禁(かいきん)」という政策をとります。
民間の交易や海上交通を禁止し、外国との取引は朝貢貿易のみとして、国が管理するのです。
皇帝独裁の体制を固めることで、明は安定し、最盛期が訪れます。

  • 故宮博物院
  • 永楽帝

北京(ぺきん)市の「故宮博物院(こきゅうはくぶついん)」。
ここは、明の時代、「紫禁城(しきんじょう)」という宮殿でした。
その紫禁城の豪華壮麗なつくりは、皇帝の絶対的な権力をあらわしています。
建てたのは、3代皇帝の「永楽帝(えいらくてい)」です。

  • 都を北京に移す
  • 鄭和

永楽帝は、北に残る元の勢力に対処するため、南京から北京に都を移しました。
永楽帝はまた、朝貢国を増やそうと、宦官(かんがん)「鄭和(ていわ)」を南方の諸国へ派遣します。
鄭和の艦隊は、全長100メートルを超える巨大な船が60隻以上。
小型のものも含めると、200隻を超える大船団だったと言われています。

  • 28年間に7回の遠征をおこなった
  • スマラン

28年間に、東南アジアからインド洋にわたって、7回の遠征を行い、一部の船団は、アラビア半島や東アフリカまで到達しました。

訪れた国の一つ、インドネシアのスマラン。
ここでは、毎年、鄭和(ていわ)をたたえる祭りが行われています。
大航海を成し遂げた力と、幸運にあやかりたいと、多くの人々でにぎわいます。
また、鄭和の艦隊は、朝貢を結んだアフリカ大陸の国などから、お土産にキリンを持ち帰りました。
中国では、名君の治世には、伝説の生き物が現れるとされていたため、永楽帝に喜ばれたといいます。

  • 上田信先生

それでは、立教大学教授の上田信先生にお話をうかがいます。

上田先生 「鄭和の遠征というふうに言いますが、軍事力で制圧したというわけではないんです。中国からさまざまな物をお土産として持っていって、現地の権力者に渡して、中国に朝貢するように促したわけですね。
その結果、東南アジアとかインド洋の沿岸のそれぞれの国が、明朝に対して朝貢するようになったということです。
鄭和が訪れた町はそういった形で、貿易で繁栄するわけです。」

前期倭寇と後期倭寇
  • 倭寇図巻
  • 倭寇

上田先生 「明朝は海の勢力を排除する海禁を行いましたが、その最大の目的は日本出身の海賊『倭寇』の取締りにあったわけです。」

汰雅 「日本にも海賊って、いたんですか?」

上田先生 「そのころの海賊の武装勢力というのは、今の長崎県の沿海地域というものを拠点として活動し、中国や朝鮮を襲っていたわけです。これは、歴史では、『前期倭寇』と言いますね。」

マヤ 「前期ということは、のちに後期があるということですね。」

上田先生 「そういうことになります。ちょっとこのパネルを見ていただきたいと思います。
これは、16世紀の明朝と倭寇の状況を描いた絵巻物の一部分なのですけれども、こちら側(画像・右)ですね、倭寇ということになります。」

マヤ 「ちょんまげを落としたような髪型をしているんですね。」

上田先生 「そうですね。髪を落として日本風の装いをしていますね。
しかしながら、その当時の倭寇(後期倭寇)は、中国人が7割くらいで、日本人は3割くらいだったと言われています。」

  • 石見銀山
  • 日本の銀と中国の生糸・絹織物の取引

16世紀、解禁に対抗する勢力が生まれた背景には、日本の石見(いわみ)銀山がありました。
このころ、大量の銀が産出され交易に使われたのです。
日本の銀と、中国の生糸や絹織物を取引すれば、莫大な利益がもたらされます。
そのため、海禁をやぶり、武装した密貿易集団の活動が盛んになりました。
「後期倭寇」と呼ばれます。

  • 万里の長城を増強したのは明の時代だった

マヤ 「東アジアの海をまたいで活躍していた倭寇は、明にとって大きな脅威だったんですね。」

上田先生 「倭寇だけでなく、明朝にはもうひとつの脅威がありました。モンゴルの勢力はモンゴル高原に退きましたが、ずっと明朝を脅かす存在でした。
万里の長城を増強したのも、明の時代だったんです。
北はモンゴル勢力、そして南の方では倭寇が攻めてくる。これを『北虜南倭(ほくりょなんわ)』と言います。明朝にとっては、大きな被害を与えるものですし、それを防ぐために軍事費の支出は莫大になる。それが財政的に明朝をだんだん苦しめていくことになりました。」

清朝の成立と鄭成功
  • 17世紀はじめ、中国東北地方に女真民族が暮らしていた
  • 1616年にヌルハチが後金を建国

17世紀はじめ、中国東北地方で暮らしていたのは、女真(じょしん)と呼ばれる民族でした。
女真は、明の影響下にありました。

北方の各部族を統一した「ヌルハチ(太祖/たいそ)」は、1616年、後金(こうきん)を建国します。
以降、部族の名を「満州族(まんしゅうぞく)」と改め、旗の色と縁取りの有無で区別される八つの軍団を組織します。
「八旗(はっき)」と呼ばれます。

  • ホンタイジ
  • 国号を清に改める

2代皇帝の「ホンタイジ(太宗/たいそう)」は、モンゴルの君主「大ハン」の称号を得ます。
そして、国号を「清(しん)」と改めました。
1644年、明が農民の反乱によって倒れると、中国本土へ進攻。
北京を占領して都とします。
清が、明に代わり、中国を支配することになったのです。

  • 鄭成功
  • オランダ支配時に建てられた城

ところが、明を復活させようと清に挑んだ人物がいました。
中国商人と日本人女性の間に生まれた「鄭成功(ていせいこう)」です。
鄭成功は、現在の長崎県平戸(ひらど)市で産まれました。
平戸は明の時代、海禁をくぐりぬけ、海へでて交易を行った多くの中国商人たちが暮らしていました。

鄭成功は、20代で南京へわたり、科挙の勉強をしていましたが、そこで明の滅亡に直面します。
そして、明への忠義から、清と戦うことを決意しました。
1662年、鄭成功は台湾に進出していたオランダを追い払い、そこに政権を築きます。
中国本土から多くの移民も招き、戦いの拠点としたのです。


マヤ 「鄭成功は、オランダの支配から台湾を解放したことで、台湾では英雄とされているんですよね。」

上田先生 「そうですね。台湾では鄭成功は『開発始祖』と言われていますし、彼はオランダ勢力を追い出したということで、広く『民族の英雄』だと言われていますね。」

汰雅 「でも、なぜ商人の息子だった鄭成功が、王朝と戦うことができるんですか?」

上田先生 「鄭成功のお父さんの『鄭芝竜(ていしりゅう)』という人物は、単なる商人ではありませんでした。ある意味で、東シナ海の交易を一手に握っていた。鄭成功のお父さんの許可がないと安心して、海を渡ることもできなかった、ということになります。」

マヤ 「鄭一族は、それぐらいの影響力を持っていたんですね。」

上田先生 「そうですね。そういう鄭氏の資金源を断つために、清朝は1661年に海禁令のひとつになりますけれど、『遷界令(せんかいれい)』というのを出すんですね。それは沿海地域の住民を、強制的に内陸の方に移住させるという政策でした。」

  • 18世紀に清は大帝国として繁栄を迎える

台湾に清への抵抗運動の拠点をおいてまもなく、鄭成功は病で亡くなります。
その約20年後、鄭氏政権が降伏すると、清は満洲族の王朝として中国を完全に支配します。
反乱勢力がなくなったことで、清の海禁は緩和されました。
民間の海外貿易が認められたのです。

18世紀になると、清は、領土をひろげ、漢民族に加え、モンゴル族やチベット族など多民族を有する大帝国として、繁栄を迎えます。

  • 弁髪
  • 懐柔と威圧

上田先生 「清朝は、科挙や儒学などを尊重し、漢民族の制度や文化を引き継いで、高級官僚には満州族と漢民族を同数任命したというようなことがありました。しかし、抵抗するような思想などについては、徹底的に弾圧をしました。

例えば、清朝に服属した証として、こういう髪型(画像・左)を強制したんですね。
これは弁髪(べんぱつ)といって、もともと満州族が持っていた固有の髪型なんです。
満州族のこういう風俗を受け入れさせることと、漢民族の文化を尊重するという、懐柔と威圧の両面、ある意味で、アメとムチによって中国を統治していたということになります。

18世紀になりますと、モンゴルやチベットも支配下におさめていき、領土は最大になって、繁栄を遂げていくことになりました。」

日本の「鎖国」と中国
  • 唐人
  • 中国から生糸・絹織物・砂糖を輸入、日本から銀・銅を輸出

17世紀後半、清が中国を支配した頃の日本では、後に「鎖国(さこく)」と呼ばれる、外国との貿易の統制が行われていました。
清の海禁が緩和されると、江戸幕府は中国の船の来航を認めます。


当時、中国船が入ってこられたのは九州の長崎港だけでした。
長崎には、現在も清から伝わった文化が残っています。
中国商人は「唐人(とうじん)」と呼ばれ、居住を限定されていましたが、自由に出歩き取引を行っていました。
中国から、生糸、絹織物・砂糖を日本に輸入し、日本からは銀・銅を輸出していました。
さらに、干しアワビや、フカヒレなどの海産物が俵につめられた“俵物(たわらもの)”が輸出されるようになり、中国で人気だったといわれています。

  • クーブイリチー

マヤ 「江戸時代に、日本から、中国に海産物が輸出されていたんですね。しかもアワビやフカヒレと、まさに中華高級食材ですよね。」

上田先生 「当時、さまざまな海産物が輸出されていたんですけれども、汰雅さん、ほかにどんなものがあるか、わかりますか?ヒント、北海道の物産。」

汰雅 「カニですか?」

上田先生 「ではなくて、実はこんぶだったのですね。日本から中国に輸出していたんです。
経由したのは、今の沖縄にあたりますが、琉球王国なんです。琉球王国は独立国として、明の時代から朝貢貿易を行っていました。
沖縄には『クーブイリチー』という昆布を炒めた料理があるのですが、沖縄の周辺の海では昆布はとれませんが、なぜ郷土料理の食材になったのか。それは、中国との交易が深く関係していたということになります。」

マヤ 「日本はこの時代『鎖国』をしていて、中国は、清も明の時代からつづく海禁をおこなっていて、お互いに交易を統制していますよね。にもかかわらず、両国の交易は盛んだったんですね。」

上田先生 「日本と清朝の間は、朝貢関係もありませんでした。明の王朝というのは、非常に厳格に、“朝貢以外の貿易は認めない”という形をとっていたわけですが、清朝は、わりとその辺は融通を利かせて貿易を認めていました。商人たちからすれば、ある意味、海禁があろうがなかろうが、時代の流れや、利益があるというのを見て、海に乗り出していったということがあります。」

  • 16世紀ヨーロッパの日本地図
  • 石見銀山の名前が書かれている

マヤ 「海外貿易が盛んになったころの16世紀に、ヨーロッパで描かれた日本地図。
ここに、ラテン語で『Argenti fodinae』、日本語で銀鉱山。そして『Hivami(石見)』と書いてあるんですよね。島根県の石見銀山のことです。
このように、わざわざ地図に書かれていたのは、当時、日本が世界のおよそ3分の1の銀を産出していたからなんです。
石見銀山からの銀も盛んに使われて、東アジアとヨーロッパとの交易に大きな影響を与えていたんですね。」

それでは次回もお楽しみに!

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