NHK高校講座

世界史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:20〜2:40
※この番組は、前年度の再放送です

世界史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:20〜2:40
※この番組は、前年度の再放送です

今回の学習

第13回

西ヨーロッパ世界の成立

  • 世界史監修:一橋大学教授 大月康弘
学習ポイント学習ポイント

西ヨーロッパ世界の成立

  • フン族の進出、ゲルマン人の大移動、ローマ帝国の東西分裂
  • 部族ごとに国をつくった

今回のテーマは「西ヨーロッパ世界の成立」。

4世紀末、ローマ帝国の北方にはゲルマン人と呼ばれる人々がいました。
そこにアジア系の遊牧民フン人が進出してきます。
それをきっかけにゲルマン人が移動を始めます。
「ゲルマン人の大移動」です。
以後2世紀にわたり、数十万人が帝国内に入ります。

395年、ローマ帝国が東西に分裂。
西ローマ帝国が混乱を深めるにつれ、ゲルマン人たちはそれぞれ部族ごとに国をつくりました(画像・右)。
476年、ゲルマン人の傭兵隊長だったオドアケルによって西ローマ帝国は滅ぼされます。

中世の西ヨーロッパ世界は西ローマ帝国の滅亡後、どのように形づくられたのでしょうか。

西ローマ帝国の滅亡
  • 政井マヤさんと野呂汰雅さんと大月康弘先生
  • バルバロイ

それでは、政井マヤさん、野呂汰雅(たいが)さんと一緒に、今回も世界史のおもしろさを探っていきましょう。
お話をうかがうのは、一橋大学教授の大月康弘先生です。

汰雅 「フン人は、どうして移動してきたんですか?」

マヤ 「フン人はアジアの北方にいた遊牧騎馬民族なの。そのころに起こった地球の寒冷化で移動を始めた、とも言われているのよ。」

汰雅 「東ローマ帝国は、西ローマ帝国が倒れても知らん顔していたってことですか?」

大月先生 「西ローマ帝国が滅亡したとき、実は東ローマ帝国、ビザンツ帝国ではほとんどニュースにならなかったようですね。話題にならないくらいに、当時の西ローマ帝国は弱体化していたんです。」

汰雅 「それはゲルマン人が侵略してきたからですか?」

大月先生 「誤解されがちですが、ゲルマン人の王国が西ローマ帝国を滅ぼしたわけではないんです。
476年、西ローマ帝国はゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって皇帝が廃位されたことで、滅びました。ですが、オドアケルは西ローマ帝国に雇われていた軍人なんですよ。」

汰雅 「ゲルマン人だけど、西ローマ帝国の人なんですか?」

大月先生 「そうなんです。ゲルマン人の移動は徐々に行われ、ローマ帝国内にはローマ人とゲルマン人が長く共存していたんです。西ローマ帝国はゲルマン人を兵士としても使っていました。すでにゲルマン人の力を借りないと統治できないくらいに、弱まっていたんですね。実際は、帝国内の権力争いの結果、西ローマ帝国は滅びたということなんです。

マヤ 「ゲルマン人と西ローマ帝国のローマ人は長らく共存していたということですけれども、言葉は共通していたんですか?」

大月先生 「ローマ人の言葉はラテン語といいます。そのラテン語をしゃべる人間が文明人という認識を、彼らは持っていました。他方で、ゲルマン人は彼らの言葉を話していたと思います。それはローマ人からすると意味が分からない、まるで“バルバルしゃべっている”ような感じだったので、バルバロイとかバリバリとか、そういうふうに言われていたようですね。」

  • ビザンツ帝国はササン朝ペルシアと戦っていた

ローマ教会は、西ローマ帝国が滅びたあと、ビザンツ帝国の保護下にありました。
しかし、ビザンツ帝国はササン朝ペルシアと戦っていたため、西側の世界には手が回らず、ローマ教会は徐々に衰退していくことになります。

フランク王国の誕生
  • クローヴィス

ゲルマン人の国の中で、「フランク王国」は、5世紀の末に建国されました。
最初は小さな部族の集まりに過ぎなかったといいます。
フランク王国を建てた「クローヴィス」は国の結束を固め領土を拡大する一方、496年に国をあげてキリスト教のアタナシウス派、つまりカトリックに改宗します。
これによりフランク王国はローマ人やローマ教会から支持されるようになります。

  • ピピンの寄進
  • カール大帝の勢力範囲

7世紀ごろから、ゲルマン人の王国のひとつ、「ランゴバルド王国」がローマをたびたび侵略していました。
ローマ教皇は自らアルプスを越えて、フランク王国に助けを求めます。
フランク王、「ピピン」はランゴバルドを撃退し、756年、ローマ周辺の土地を教皇に寄進しました。
これを「ピピンの寄進(きしん)」といいます。
ピピンの子、「カール」は王位を継ぐと、ランゴバルドをはじめ、敵対するゲルマン国家を征服。
西ヨーロッパの大部分を支配するようになりました。

聖像崇拝禁止令
  • カールがローマ皇帝に
  • カール大帝像

726年、ビザンツ帝国が出した聖像崇拝禁止令をめぐり、ローマ教皇はビザンツ皇帝と対立します。
聖像は破壊され、違反者は処罰されることになったからです。
文字の読めない人が多かったゲルマン人に教えを広めるためには、聖像が不可欠でした。
ローマ教皇はビザンツ皇帝の庇護のもとから独立する道を選びます。

800年、ローマ教皇は新たに「ローマ皇帝」を誕生させたのです。
選ばれたのはフランク国王、カールでした。
ゲルマン人の皇帝の誕生は、西ヨーロッパの新しい時代の幕開けとなりました。
フランク王国の宮廷が置かれたドイツの町、アーヘンに立つカール大帝像。
右手に持つ杖は、ヨーロッパを統一した世俗の権力を、左手に持つ玉は、キリスト教の神の世界を表しています(画像・右)。

  • ローマ教会とフランク国王

マヤ 「フランク国王とローマ教皇は、お互いを必要としていたということなんですね。」

大月先生 「そうですね。ローマ教会は西ローマ帝国滅亡後、武力で外敵から守ってくれる強い後ろ盾が欲しかった。当初はビザンツ帝国に期待をしていました。ですが、外敵の侵入があって緊急にフランク王国に頼った。
一方のフランク王は、宗教的に熱心でもあって、ローマ教会を守ろうとしたようです。」

汰雅 「ローマ教会は新たに『ローマ皇帝』を誕生させたということですけど、そんな権限があったんですか?」

大月先生 「これはあきらかに越権行為でした。もともとローマ教会は、ビザンツ帝国の庇護(ひご)のもとにありました。いくらフランク王国を味方につけたといっても、ローマ教会に皇帝を任命する権限はないんです。ローマ教会は西ローマ帝国を復活させて、ビザンツ帝国に対抗しようとした、というふうに考えられます。」

神聖ローマ帝国
  • フランク王国は3つに分裂
  • オットー1世

9世紀半ば、カール大帝の孫の代になると内紛が起こり、フランク王国は3つに分裂します。
現在のフランスの元となった西フランク王国、イタリアの元となったイタリア王国、ドイツの元となった東フランク王国が生まれました。

10世紀、ヨーロッパ世界には東から遊牧民のマジャール人が繰り返し侵入していました。
これを撃退したのが、東フランク王国の「オットー1世」です。
ローマ教皇はその功績を認め、オットー1世にローマ皇帝の冠を授けます。
以後、東フランク王国を「神聖ローマ帝国」といい、国王は代々「神聖ローマ皇帝」の名を受け継いでいくことになります。

汰雅 「神聖ローマ帝国って地図で見るとローマが入ってないんですよね。なんで『ローマ帝国』っていう名前なんですか?」

大津先生 「“ローマ帝国の継承者である”というのが、当時は権威として大事だったんですね。ビザンツ帝国の人々も自分たちのことをローマ帝国と呼んでいました。この神聖ローマ帝国は近代まで続いて、ヨーロッパの歴史の中で重要な役割を果たしていきます。」

汰雅 「ということは、皇帝には絶大な権力があったんですか?」

大月先生 「実は、そうでもないんです。もちろん時代にもよりますが、中世のヨーロッパ世界は一人の強い支配者が君臨していたわけではなく、有力な王や、領主たちがいっぱいいたんです。そして、ノルマン人やマジャール人、イスラム諸国の侵入を繰り返し受けました。その敵と戦ったのはその土地の領主たちです。自分ひとりでは戦えませんから、より強い領主と主従関係を結んで、協力して戦っていたんですね。」

封建的主従関係
  • 主君と臣下
  • 主従関係は流動的

マヤ 「有力な領主という言葉が出てきましたけど、皇帝と国王、領主はどういう関係にあったんですか?」

大月先生 「領主というのは荘園などの領地を持つ支配者のことです。」

領主は自分より有力な領主を主君とし、臣下として仕えました。
主君は自分の臣下に領地の支配を保証し、その代わりに臣下は主君の軍隊に加わりました。
こうした領主間の関係を「封建的主従関係」といいます。
主に大領主を諸侯と呼び、その頂点に立つのが国王。
神聖ローマ帝国の場合は皇帝です。(画像・右)
しかし、この主従関係は流動的なものでした。
二人の主君に仕えてもいいし、条件が合わなければ主君を変えることもできました。

中世の社会
  • ローマ教会の組織

マヤ 「自分が仕える主君を変えてもいいというのは、日本や中国での封建制度とはぜんぜん違うんですね。」

大月先生 「それがヨーロッパの中世世界の大きな特徴だったといえると思います。ですから、皇帝も国王も絶対君主のような力を持っていたわけではなかったんです。
一方、ローマ教皇の方は皇帝や国王の冠を与えることで権威を保証したので、比較的に大きな力を持っていたといわれます。」

マヤ 「ローマ教会の組織はどうなっていたんですか?」

大月先生 「教会には大司教、司教、司祭という聖職者の序列があって、その頂点に立っていたのがローマ教皇でした(画像)。教会には、寄進を受けたり、開墾をしたりして、教会領という広大な土地を所有している場合もありました。司教クラスはほとんど大きな領主と同じです。大司教になると、もう国王と同じぐらいの力を持っていたということもありました。」

汰雅 「ローマ教皇が大司教や司教を任命するんですか?」

大月先生 「教会の聖職者を任命する人事権を『叙任権(じょにんけん)』というんですが、本来は教皇にありました。ところが実際は、富が集まる教会の聖職者に、国王や有力な領主たちがだんだん自分の身内を送り込むようになっていったんです。」

皇帝と教皇による叙任権闘争
  • グレゴリウス7世
  • ハインリヒ4世

本来、教皇が持つべき叙任権は、実際には国王や有力な諸侯たちが握っていました。
彼らは教会を建てたり、土地を寄進していたので発言力があったからです。
その結果、国王や諸侯の親族が聖職者となることも少なくありませんでした。
一方、教会に安定して富が集まるようになると、聖職者の中には貴族のように贅沢な暮らしをする者も現れました。

教会は堕落し、聖職の売買まで行われるようになります。
そこで教会を改革する動きが生まれます。
その中心となったのがクリュニー修道院です。
戒律を厳格に守り、本来の信仰を取り戻そうという運動が展開されました。
そうした流れの中、ローマ教皇となったのが「グレゴリウス7世」です。
グレゴリウス7世は、教会の堕落の原因は、世俗の者が叙任権を持ったことだと考え、諸侯や国王、皇帝の叙任権を否定します。

神聖ローマ皇帝「ハインリヒ4世」はグレゴリウス7世の方針に強く反発し、「叙任権闘争(じょにんけんとうそう)」という争いに発展します。
ハインリヒ4世は、叙任権を失えば、教会の力を利用した帝国の支配ができなくなると考え、グレゴリウス7世を教皇の座から引きずり下ろそうとします。
しかし、逆に破門されてしまいます。
すると帝国内の各地の諸侯たちは、もはやキリスト教徒ではなくなったハインリヒ4世に反旗を翻します。

ハインリヒ4世は破門を解いてもらうため、グレゴリウス7世への謝罪を決意、
雪の中、グレゴリウス7世が滞在していたカノッサ城に赴きます。
そして門前で三日三晩、断食を行い、許しを請いました。
これが「カノッサの屈辱」と呼ばれる事件です。
グレゴリウス7世はハインリヒ4世の破門を解きますが、この事件をきっかけに教皇の権威はゆるぎないものとなりました。

  • カノッサの位置

マヤ 「カノッサというのはどのあたりにあるんですか?」

大月先生 「北イタリアの山の中のようですね。ドイツから行くとかなり遠い。
今でもドイツでは、重要な謝罪に行くときに『カノッサに行く』っていうくらい、ヨーロッパの人たちにとって大きな事件だったんです。」

マヤ 「『カノッサの屈辱』でローマ教皇の権力が大きくなります。いよいよヨーロッパはキリスト教の時代になっていくんですね。」

大月先生 「この時代に、現代の私たちが知っているヨーロッパの原型ができたといわれています。宗教だけでなく、王や領主のもと農民たちが畑を耕したり、牧畜を行ったり、農村で生活を送る、そういうヨーロッパの暮らしの原型ができあがったのがこの時代でした。」

マヤ 「当時、農民の暮らしはどうだったんですか?」

大月先生 「荘園にいた農民はさまざまな義務を負わされていました。土地に縛られていたので、『農奴(のうど)』と呼んでいるんです。
しかし11世紀ぐらいから、鋤(すき)や水車などの農業技術が発達して貨幣経済も普及し、豊かな暮らしを送る農民も出てきました。
その結果、人口が増加し農地も足りなくなりました。それで西ヨーロッパ世界は新しい土地を求めて植民活動をしたり、聖地エルサレムの奪回を目指して十字軍を派遣するなど、外へ外へと広がって、新しい時代に突入していきます。」


それでは次回もお楽しみに!

科目トップへ

制作・著作/NHK (Japan Broadcasting Corp.) このページに掲載の文章・写真および
動画の無断転載を禁じます。このページは受信料で制作しています。
NHKにおける個人情報保護について | NHK著作権保護 | NHKインターネットサービス利用規約