NHK高校講座

世界史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:20〜2:40
※この番組は、前年度の再放送です

世界史

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今回の学習

第9回

唐と東アジア

  • 世界史監修:東京大学教授・佐川英治
学習ポイント学習ポイント

唐と東アジア

  • 政井マヤさんと野呂汰雅さん
  • 佐川英治先生

ここは歴史の専門家も来店する無国籍雑貨屋。
政井マヤさん、野呂汰雅(たいが)さんと一緒に、世界史のおもしろさを探っていきます。
お話をうかがうのは、東京大学教授の佐川英治先生です。

  • 最も華やかな時代のひとつ

6世紀末、中国では「隋(ずい)」によって、300年近くにおよぶ南北分裂の時代が終わりました。
続く「唐(とう)」は、中国で、最も華やかな時代のひとつといわれています 。
周辺諸国との外交や交易で、唐の都・長安は、国際都市となりました。
日本は「遣隋使(けんずいし)」に続き、「遣唐使(けんとうし)」を送り、中国の政治制度や文化を取り入れていきました。
唐の繁栄と、日本をはじめとした東アジア文化圏の形成を見ていきましょう。

  • 日本書紀
  • 推古天皇15年

佐川先生が取り出したのは、漢文の本。

佐川先生 「『日本書紀』といって、奈良時代の初めに、日本で書かれた歴史書なんです。
例えば、ここには遣隋使のことが書かれています。
この十五年というのは(画像・右)、推古天皇の十五年という意味です。

『秋七月(あきふみづき)戊申朔庚戌(つちのえさるのついたちかのえいぬのひ) 大禮小野臣妹子遣於大唐(だいらいおののおみいもこをもろこしにつかわす)』

西暦の607年7月3日に、『小野妹子(おののいもこ)』を中国へ遣わしたということが書かれています。
当時の日本の天皇、推古天皇の手紙を中国の皇帝に渡したわけです。」

  • 推古天皇の手紙

汰雅 「その手紙には、何が書いてあったんですか?」

佐川先生 「手紙の書き出しは『日出(ひいづ)る処(ところ)の天子、書を日没する処(ところ)の天子に致す。恙(つつが)なきや』というものでした。
つまり『東の国の王が、西の国の王へ手紙を送ります。お元気ですか?』という意味です。
受け取った隋の皇帝、煬帝(ようだい)は大変怒って『こんな無礼な手紙を自分に見せるな』と言った、といわれています。どの部分に怒ったと思いますか?」

汰雅 「日本を『日出る処』と言っているので、上がってくるという感じで、中国を『日没する処』、下げられた感じが嫌だったのかなって思います。」

佐川先生 「実はそうではなくて、『天子から天子』へという部分だったようなんです。煬帝にとって『天子』は隋の皇帝ただ一人、天下でただ一人だったんです。
ですから、当時、日本は倭国(わこく)といわれていましたが、『倭国の王』が『天子』を名乗ったことに強い不快感を示したといわれています。」

隋の南北統一
  • 隋によって再び統一された
  • 文帝

中国では、300年近くにわたり北朝と南朝による対立が続いていましたが、589年、隋によって再び統一が果たされました。
隋の初代皇帝「文帝(ぶんてい)」は、都を長安に置き、皇帝による国の支配を強化していきます。
その政策のひとつが、「均田制(きんでんせい)」という土地制度です。
広く農民に土地を分配し、税を安定して集めようとしました。
一方で、「府兵制(ふへいせい)」を行い、農民に兵役を課しました。
さらに、家柄や身分を問わず優秀な人材を集めようと、この時始まったのが、「科挙(かきょ)」という人材登用制度です。
こうして、文帝の時代に隋という統一国家の基礎ができました。

  • 煬帝
  • 大運河

文帝の後、即位したのが文帝の子「煬帝(ようだい)」です。
煬帝は、ある大事業を成し遂げました。
それが大運河の建設です。
この大運河は、黄河流域と長江流域を南北に結び、総延長は、2500キロメートルにおよびます。
完成には6年かかり、男女問わず数百万もの民衆が工事へかりだされました。
派手好きだったといわれる煬帝は、黄河沿いの洛陽から運河に豪華な龍の船を浮かべて、長江沿いの揚州まで大運河開通のデモンストレーションをしたといわれています。

  • 江南の経済力を吸い上げる
  • 高句麗遠征のための補給路とする

マヤ 「なぜ煬帝は、大運河をつくろうと思ったんですか?」

佐川先生 「それには主に2つの理由がありました。
ひとつは、南朝時代に発展した江南の経済力を吸い上げていくという目的があります。
もうひとつは、高句麗(こうくり)と戦う上で戦争のための補給路を確保するという目的がありました。」

汰雅 「遣隋使が持ってきた手紙に怒った煬帝が、この大事業を成し遂げたんですね。」

佐川先生 「そうですね。煬帝は、暴君としてよく知られています。
煬帝は民の負担を考えずに、大運河だったり、洛陽に宮殿をつくったり、各地に離宮などをつくったりと、大事業をたくさん行いました。」

マヤ 「それだけの力、権力があった煬帝からしてみると、倭国の王が、自分と同じ天子を名乗るのは許せなかったんですね。」

  • 隋、百済、高句麗、新羅、倭国

佐川先生 「ところが、煬帝は使いに返書を持たせて、日本に送っています。それは、煬帝が当時、高句麗遠征を行おうとしていたからなんです。高句麗の背後にある倭国の存在というのが気になっていたんです。
では、日本の立場としては、どうして遣隋使を送ったんだと思いますか?」

汰雅 「中国を統一した隋の文化を取り入れたいからかな、と思いますけど…。」

佐川先生 「それだけではないんですね。当時、百済は高句麗に対抗するために隋と同盟したいと考えていました。一方、日本は新羅に対抗するために、百済や隋の力を利用したいと思っていました。そういった複雑な情勢の中で、遣隋使が行われたわけなんです。」

汰雅 「隋は高句麗と戦って、勝ったんですか?」

佐川先生 「大規模な遠征を3度行ったんですが、いずれも失敗してしまいました。
煬帝の行ったこの大事業、あるいは遠征の失敗が原因で、隋は統一からわずか30年で滅びてしまいます。」

唐の繁栄と国際都市長安
  • 西安市
  • 李淵

中国・西安市。
かつての唐の都・長安です。
隋の滅亡後、「李淵(りえん)」によって、都が引き継がれました。
長安は唐の時代、人口が100万人を超える、世界で1、2を争う国際都市となりました。

  • 女性たちが描かれた壁画
  • 馬に乗って玉を追いかける

皇族の墓に描かれた壁画から、当時の華やかな様子をうかがうことができます。
この壁画には、色鮮やかな衣装をまとった女性たちが描かれています。
皇族に仕えた宮女たちの姿です。
馬に乗って玉を追いかける、ペルシアから伝えられた競技を、貴族たちが楽しむ様子も見られます。

  • 律令制
  • 租調庸制

唐の繁栄を可能にしたのは、隋から引き継がれ、整えられた制度でした。
刑法にあたる「律(りつ)」と、行政のしくみをまとめた「令(れい)」などの法典の整備は、唐の国内政治だけでなく、外交にも重要な役割を果たしました。
税制度も整えました。
穀物を納める「租(そ)」、絹や綿を納める「調(ちょう)」、公共事業など、肉体労働の提供とその代わりの「庸(よう)」
これらは、後に日本でも取り入れられました。

  • 唐は大帝国になった
  • 玄宗

唐は7世紀後半、高句麗を滅ぼし、モンゴル高原、中央アジアなどを含む大帝国となります。
シルクロードを通じて、西方の民族と交易も行いました。
長安の都には、世界各地の学問や文化がもたらされ、外国からの使節もやってきました。

8世紀はじめ。
6代皇帝「玄宗(げんそう)」の時代に、唐は空前の繁栄を迎えます。
税制改革や徴兵制度の見直しを行い、社会の安定をもたらした玄宗の時代は、「開元の治(かいげんのち)」と呼ばれます。

  • 楊貴妃
  • 華清池

ところが玄宗は、その晩年、絶世の美女といわれた「楊貴妃(ようきひ)」に心奪われていきました。
西安の東にある華清池(かせいち)は、玄宗の楊貴妃への寵(ちょう)愛を物語る場所のひとつです。
この地に玄宗は楊貴妃のための離宮をつくって、一年の半分を宴を開いて過ごし、政治を省みなくなっていったと伝えられています。
755年、政治への不満が高まり、反乱が起こります。
「安史(あんし)の乱」です。
この反乱で唐が混乱に陥ると、楊貴妃はその責任を負わされて、玄宗の命令で殺されてしまいました。
この後、唐の中央集権的な支配は崩れていきます。

マヤ 「(楊貴妃)は国を傾ける『傾国の美女』なんて言われ方もされますよね。それにもかかわらず、300年近くにわたって唐という国が続いたのは、どんな理由があるんですか?」

  • 突厥や吐蕃の台頭

佐川先生 「外交方針の転換というのがあると思います。
7世紀の終わりに、唐は高句麗や百済を滅ぼして、さらに新羅とも戦います。一方で、北方に突厥(とっけつ)、西方に吐蕃(とばん)が台頭してきた。唐は、新羅との関係を修復していくようになっていきます。
こうして、戦争で解決する方法から、外交によって秩序を作る方向へ転換していくわけなんですが、8世紀になると、唐を中心とした東アジアの国際秩序が安定していくことになります。
日本も、唐を見本に国家建設をすすめていくようになるんです。」

遣唐使の時代
  • 白村江の戦い

汰雅 「唐の制度や文化を取り入れるために活躍したのが、遣唐使だったんですね。」

佐川先生 「初めの遣唐使は、制度や文化を取り入れるというよりは、外交のための情報収集のような意味合いが強かったんです。」

マヤ 「遣唐使の役割が変化したのは、いつ頃なんですか?」

佐川先生 「やはり7世紀から8世紀にかけて、大きく変化したようです。
7世紀には、663年の『白村江(はくそんこう)の戦い』などがあって、日本は百済との連合軍で、唐と新羅の連合軍と戦ったんです。いわば、東アジアの動乱の時代だったわけです。
その頃は唐との関係が悪化していて、一時期、遣唐使を停止していましたが、8世紀になると安定してきて、遣唐使を再開することになります。」

マヤ 「その頃から役割も変わってきて、情報収集というよりは、いろんな文化を得るようになったんですね。」

佐川先生 「そうです。その頃から、定期的に遣唐使を派遣するようになっていきます。」

  • 冊封と朝貢
  • 遣唐使

唐の時代、東アジアには、ある国際秩序がありました。
唐を中心に周辺諸国と君臣関係を結ぶ「冊封(さくほう)体制」です。
周辺諸国の中には、唐の皇帝から王位を授かる「冊封」という関係を持つ国や、唐の皇帝に貢物(みつぎもの)を送り、その貢物よりも価値の高い返礼品を受け取る「朝貢(ちょうこう)」によって、外交を行う国もありました。
日本も、朝貢使節として、7世紀前半から9世紀前半にかけて、遣唐使を派遣しました。

  • 唐の都・長安の再現CG
  • 平城京の復元模型

遣唐使が目にした唐の都・長安は、巨大都市でした。
南北8.7キロメートル、東西9.7キロメートル、メインストリートの朱雀街の道幅は150メートルもあったのです。
この様子が伝えられてつくられたのが、平城京や平安京です。
ほかにも、さまざまな制度や文化が、遣唐使たちによって伝えられ、日本に取り入れられました。

  • 阿倍仲麻呂

遣唐使とともに唐へ渡り、活躍した留学生もいます。
その一人が「阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)」です。
阿倍仲麻呂は十代で唐に渡りました。
唐で、科挙に合格して官僚となり、全盛期の玄宗皇帝の政治を支えました。

汰雅 「遣唐使は、唐で何をしていたんですか?」

佐川先生 「最も重要な目的は、天皇の贈り物を中国の皇帝に届けて、中国の皇帝が主催する儀式に参加することでした。それに対して、中国からは、日本では決して手に入らない優れた工芸品が贈られました。しかも、遣唐使の滞在費は中国持ちだったんです。」

マヤ 「日本だけ、特別ということはないんですよね。すべての国々に、こういう対応をしていたと。これが、『朝貢』なんですね。」

佐川先生 「周(しゅう)の時代から続く考え方なんですけど、“王は天子”と言われ、中国だけでなく、周辺世界・天下も治める存在だと考えられていたんですね。
そのために、海外から多くの人が来ることで、中国の皇帝の権威も高まったということがあるわけです。」

マヤ 「日本も、唐の支配下に入るという思惑があったんですか?」

佐川先生 「そうではないんです。日本は自分もひとつの中国、中華になろうとしていたんですね。
そのために、日本は平城京をつくったり、あるいは大宝律令を定めたり、唐の文化を積極的に導入していくことになったわけです。『日本』という国号(国の名前)も、この頃定まりました。
『日出ずる所』という意味なので、中国や朝鮮を意識したネーミングと言うことができると思います。」

汰雅 「『日本』という国づくり自体が、唐の影響を受けているということなんですね。」

野菜の共通点
  • とうもろこし、かぼちゃ、唐辛子

マヤさんが用意したのは3つの野菜。
これらには共通点があるといいます。

マヤ 「唐辛子。とうもろこしは別名、唐きび。そしてかぼちゃの別名は唐なす。すべて名前に『唐』という字が入っているんです。
でも、どれも唐から入ってきたものではないんです。どれも戦国時代以降に、ポルトガルを通して入ってきたものだといわれています。“外国から伝わったもの”、“高級で貴重なもの”という意味合いで、頭に唐の字がつけられているんですね。
唐が滅んでから、600年以上経っているのに、唐への憧れが残っていたようで、面白いですね。」


次回もお楽しみに!

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