NHK高校講座

世界史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:20〜2:40
※この番組は、前年度の再放送です

世界史

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今回の学習

第8回

中国の分裂と多様化

  • 世界史監修:東京大学教授・佐川英治
学習ポイント学習ポイント

中国の分裂と多様化

  • 政井マヤさん
  • 富田早紀さん

ここは歴史の専門家も来店する無国籍雑貨屋。
政井マヤさん、富田早紀さんと一緒に、世界史のおもしろさを探っていきます。

  • 三国時代
  • 三国志

紀元前202年の建国以来、中国を統一支配してきた大帝国「漢」。
しかし、紀元後2世紀の末ごろになると、国が乱れ崩壊への道をたどることになります。
そして、「魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)」が天下を三分する三国時代を迎えます。
諸葛亮(しょかつりょう)や関羽(かんう)、曹操(そうそう)らが活躍した「三国志」の時代です。
その後、南北それぞれに王朝ができては倒されるという分裂の時代が、さらに6世紀末まで続きます。
そんな不安定な時代でしたが、混乱の中で生まれた社会や経済の変化は、後の中国の歴史に大きな影響を与えることになるのです。

早紀 「マヤさん、そんなに熱中して、何を読んでいるんですか?三国志?」

マヤ 「この三国志の“三国”って、どこの国のことでしょうか?」

三国志の時代
  • 魏

マヤ 「三国志の三国というのは、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の3つの国で、天下を分けて争っていたのよね。」

早紀 「都市の名前は、見覚えがあります。洛陽(らくよう)と長安(ちょうあん)。」

マヤ 「漢の都だったのよね。この2つがあるのは、大きな川・黄河の流域で、中国の北の方にあるから『華北(かほく)』という言葉もあるんだけど、中国の中心という意味で『中原(ちゅうげん)』という言葉でも表されていたのよね。そこを押さえていたのが、魏。」

  • 呉

マヤ 「一方で、もうひとつ中国には大きな川があって、長江の中流から下流にかけて支配していたのが呉という国で、建業(けんぎょう)という都市は、今の南京(なんきん)市に当たるの。そして、長江の南っていうことで、このあたりのことを『江南(こうなん)』と呼ぶのよね。」

  • 蜀

早紀 「長江の上流にあるのが、蜀。」

マヤ 「そう。蜀の領域は、今の四川省(しせんしょう)に当たるわけね。」

早紀 「麻婆豆腐で有名な、四川料理の四川?」

マヤ 「そう。漢の時代には、実は呉や蜀という場所は辺境の地域とされていたの。でも、このころになると人口も増えて産業も興って、中原、中国の中心といわれていたところと競うほどの力をつけていたっていうことなのよね。」

早紀 「戦争が多かったっていうのは、あまりいい時代には思えないですね。」

マヤ 「争いもあって、激動の時代、不確実な時代だったんだけれども、それだけにバイタリティにあふれていて、中国の歴史の中でも大きな転換点となった時代なの。」

  • 黄巾の乱
  • 曹操・孫権・劉備

184年、漢の支配に対する大規模な農民反乱が起こりました。
反乱に加わった人たちが、頭に黄色い頭巾を巻いていたことから、「黄巾(こうきん)の乱」と呼ばれています。
この事態に対処するために、漢は各地の豪族の武力に頼りました。
すると、豪族たちは、反乱を鎮圧しながら、それぞれに勢力の拡大を図るようになります。

その中で頭角を現していったのが、「曹操(そうそう)」「孫権(そんけん)」「劉備(りゅうび)」の3人でした。
3人の対決が、三国志の物語のクライマックスのひとつ、「赤壁(せきへき)の戦い」です。
南に軍を進めた曹操を、孫権と劉備の連合軍が迎え撃ち、強敵・曹操軍を撃退。
このあと、天下が三分される状態になりました。

220年、曹操の息子「曹丕(そうひ)」が、漢の皇帝から帝位を禅譲(ぜんじょう)されて「魏」を建国すると、劉備が221年に「蜀」を、孫権が222年に「呉」を相次いで建国したのです。

なぜ漢は滅んだのか
  • 佐川英治先生

お話を伺うのは、東京大学教授の佐川英治先生です。

佐川先生 「『禅譲(ぜんじょう)』というのは、“譲る”という意味なんですね。普通は、王位というのは父から子へと継承される。これを『世襲(せしゅう)』というんですけれど、そうではなくて、(身内ではない)徳の高い人、高い道徳心を持っている人に王位を譲ることを禅譲というわけですね。
ただし、実際は、ほとんど脅迫とか芝居によるもので、漢から魏への禅譲も、実はそうだったわけです。」

マヤ 「結局は、その地位を奪われたんだけれども、見かけ上は譲ったというふうにしたわけなんですね。」

佐川先生 「そうなんです。でも、中国の儒教の考え方の中では、平和的に王位を譲ったという形が理想的な形とされていまして、王朝交替の正当性をアピールするためにも、禅譲という形式がしばしばとられたわけですね。」

マヤ 「でも、どうして漢の皇帝が禅譲させられるような事態が生まれてしまったんでしょうか?」

佐川先生 「漢も終わりごろになってきますと、非常に幼い皇帝が続くようになり、皇帝の母親の一族、これを『外戚(がいせき)』というんですけれども、それから皇帝の身の回りの世話をする『宦官(かんがん)』、こうした人たちが次第に政治的な発言力を持っていくようになります。
そして次第に政治が乱れてくると、農民の負担が大きくなって不満も高まってくる。
一方で、外戚と宦官の対立に嫌気がさした、本来政治を担当すべき優秀な官僚たちが、地元に帰っていくということになってしまいます。
その結果、皇帝の求心力が低下して、次第に帝国の崩壊へとつながっていくわけです。
これもまた、中国の歴史の中ではよく繰り返されるパターンなんです。」

早紀 「官僚は、地元に帰った後、何をするんですか?」

佐川先生 「中国の官僚は、元々地元の豪族である場合が多いものですから、彼らは自分たちの地元を治めて勢力を拡大していくようになります。
黄巾の乱を鎮圧したのもこういう人たちで、その中から曹操とか孫権といった三国志の英雄が現れてくるわけですね。」

「三国」から「南北朝」へ
  • 南北朝

三国時代は、60年ほどで終わりを告げます。
まず263年、蜀が魏に攻められて滅亡。
その2年後には、魏の重臣が禅譲を受けて「晋(しん)」を建国します。
そして、280年、その晋に呉が滅ぼされたのです。
ところが、皇帝一族の権力闘争が起こり、晋も建国から50年ほど、316年に滅亡してしまいます。

この後、黄河流域(中原)は、漢民族ではない異民族、北方の遊牧民集団による支配が続きました。
一方、長江流域(江南)では、晋の流れをくむ漢民族による国家が盛衰を繰り返すことになります。
分裂状態は、「隋(ずい)」による統一がなされるまで、およそ300年続きました。

なぜ中国は分裂したのか
  • 北は寒冷・乾燥で畑作や牧畜が中心
  • 南は温暖・湿潤で稲作が中心

早紀 「南朝と北朝が中国を統一しなかったのは、なぜなんですか?」

佐川先生 「もちろん、北朝も南朝も統一をしようとはしたんですけれども、北と南というのは、ずいぶんと文化的にも環境的にも違うわけですね。
北の方は、気候が寒冷、そして乾燥していて、畑作とか牧畜が中心です。陸のシルクロードを通じて、内陸アジアやロシア、東ヨーロッパとつながっていました。
一方、南の方は、気候が温暖・湿潤。稲作が中心で、海のシルクロードを通じて東南アジアやインドと結びついていました。」

マヤ 「中国は北の方に万里の長城を築いて、北の民族が攻め入るのを抑えていたと思うんですけれども、なぜ華北は異民族に支配されてしまったんでしょうか?」

佐川先生 「3世紀ごろから、地球規模で寒冷化が始まったといわれていまして、草原地帯に住む遊牧民が南下したのではないかと考えられています。
遊牧民は元々騎馬に優れていて、非常に高い機動力や戦闘力を持っていましたから、三国に分かれたりして内乱状態になっていくと、彼らの戦闘力を期待して、各陣営が引き入れていくようになります。やがて彼らが自立して、中国で覇権を争うようになっていくわけですね。」

マヤ 「この時代が、中国に与えた影響っていうのは、歴史的に見るとどういったところにあるんですか?」

佐川先生 「漢の時代には、『儒教』が広まっていたんですけれども、王朝が目まぐるしく交代するような不確実な時代で、儒教の価値観が次第に揺らいでいって、そこで新たな価値観として広まっていったのが、『仏教』だったわけです。」

仏教の伝来と広がり
  • 儒教は血縁関係を重視、仏教は信仰を介したつながりを重視

佐川先生 「儒教は元々、親孝行の『孝』のような血縁関係を重視する考え方だったんです。それに対して仏教は、血縁関係よりもむしろ信者同士のつながりというようなものを重視する考え方だったわけです。
漢帝国が崩壊して、社会が流動化して遊牧民も入ってくるようになると、見知らぬ者同士の共生が重要になります。そうすると、仏教のような信仰を介した人々の結びつきが、社会に広がっていくことになるんですね。

  • 雲崗石窟
  • 巨大な石仏

北朝では、人々の間に広まっていった仏教を保護し、国内統治のために積極的に利用することも行われました。
そのことを物語るのが、現在の山西省に残る雲崗石窟(うんこうせっくつ)。
岩山を掘削して作られた仏教寺院です。

巨大な石仏には、ガンダーラ美術の影響も色濃く残されています。
実は、この大仏は、当時中原を支配していた北魏(ほくぎ)の皇帝に似せてつくられたともいわれています。
皇帝を仏と同一視させることによって、仏教の信仰の下にさまざまな民族をまとめようとしたのです。

北魏では、仏教を弾圧した時代もありましたが、次の皇帝の時代には復興されました。
その際、国家事業として雲崗石窟は造営され、仏教は広く社会に浸透していったのです。

マヤ 「インドの北西部のガンダーラで仏像がつくられるようになって、大乗仏教と一緒に中国に伝わってきたんですね。」

佐川先生 「そうですね。広い肩幅とか厚い胸板に、遊牧民の風格を備えていますね。」

マヤ 「仏教は、北朝では国家の保護も受けたということですが、南朝ではどうだったんですか?」

佐川先生 「三国の呉のころにはすでに仏教が入っていたんですけれども、特にこの南朝の時代になってくると皇帝にも信仰されるようになってきまして、都の建康には非常にたくさんの仏教寺院が築かれるようになっていきました。」

  • 鶏鳴寺

南京市内にある鶏鳴寺(けいめいじ)。
1700年以上の長い歴史を持つお寺です。
今でも旧正月になると、多くの人々でにぎわいを見せます。
南朝時代、この鶏鳴寺をはじめとして、数多くの寺が建てられ、仏教が厚く信仰されていました。
その様子を詠(うた)った漢詩の一節をご紹介しましょう。

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南朝四百八十寺(なんちょうしひゃくはっしんじ)
多少楼台煙雨中(たしょうのろうだいえんうのうち)

南朝では仏教が盛んで、480もの寺院が建てられたという。
今もなお、多くの楼台(ろうだい)がその名残をとどめ、煙るような霧雨の中にそびえたっている。

<杜牧『江南春(こうなんのはる)』より>
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江南文化の発達
  • 廬山
  • 展子虔(てんしけん)「遊春図」

南北朝時代、江南地方では、自然の美しさを描いた詩や絵画など、芸術も花開きました。
北朝の異民族支配を逃れて移り住んだ人々により、進んだ農業技術が伝えられて生産力が向上、商工業も発展していきました。


長江の南、現在の江西省にそびえる「廬山(ろざん)」
その峰々がつくる雄大で奇抜な風景は、多くの芸術家の心をとらえ、詩や絵画の題材になりました。
江南の自然を描いた絵画は、やがて、中国独自の表現技法である「山水画」へと発展していくのです。

マヤ 「山水画のルーツは、南北朝時代の江南だったんですね。」

佐川先生 「そうですね。この時代以前は、自然というのは基本的に畏怖の対象であって芸術の対象ではなかったんですけれども、北から移り住んできた人たちは、平野部にはすでに人がいますから、山間部に入って山を切り開いていくわけです。
そういう人たちの中には、豪族だったり官僚だったりした非常に教養の高い人たちもいました。
漢の時代から育まれてきた教養と江南の豊かな自然が出会って、そこに自然を題材とするような芸術作品が生まれてくるようになるわけですね。」

  • 顧ィ之「女史箴図」

佐川先生 「自然だけではなくて、女性美というのが描かれたり詩に詠われたりするようになったのも、この時代です。これは、顧ィ之(こがいし)の『女史箴図(じょししんず)』という絵ですけれども、髪を結っている女性が描かれています。」

  • 銅鏡
  • 畳のようなもの

佐川先生 「日本では古墳から出土する銅鏡が、本来の鏡として使われているのがよくわかります(画像・左)。それから、畳のようなものに座っていますね(画像・右)。」

早紀 「畳も、中国から伝わったんですね。」

佐川先生 「そうですね。日本では、畳を部屋全体に敷き詰めるようになって典型的な日本家屋になっていくんですけれども、中国ではこういった習慣は次第に廃れていって、逆に椅子に座る習慣が広まっていくことになります。椅子に座るのは元々遊牧民族の習慣で、それが中国に入っていって、唐代以降、中国に広まっていきます。」

遊牧民の南下
  • 歴史をつなげて見てみよう

マヤ 「3世紀ごろ、ユーラシア大陸の北部にいた遊牧民が南下してきました。これが原因のひとつとなって、東では中国が分裂し、西ではローマ帝国が解体していきます。
この遊牧民の南下の背景には、地球規模の寒冷化があったのでは、という考え方があるそうです。
こういったことをつなげて歴史を見てみるのも面白いですね。」


それでは次回もお楽しみに!

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