NHK高校講座

世界史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:20〜2:40
※この番組は、2020年度の新作です。

世界史

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今回の学習

第7回

中華帝国の形成

  • 世界史監修:東京大学教授・佐川英治
学習ポイント学習ポイント

中華帝国の形成

  • 政井マヤさんと野呂汰雅さん
  • 佐川英治先生

ここは歴史の専門家も来店する無国籍雑貨屋。
政井マヤさん、野呂汰雅(たいが)さんと一緒に、世界史のおもしろさを探っていきます。
お話をうかがうのは、東京大学教授の佐川英治先生です。

  • 兵馬俑
  • 始皇帝

地下の世界からよみがえった、数千体にものぼる等身大の像。
古代中国の「兵馬俑(へいばよう)」です。
兵馬俑は、1974年、畑で井戸を掘っていた農民たちによって偶然、発見されました。
調査の結果、兵士や馬の像は、秦の「始皇帝(しこうてい)」の墓を守るように埋められていることがわかりました。
始皇帝は、強大な軍事力で周辺の諸国を征服し、紀元前221年、中国を初めて統一した皇帝です。

中国初の統一国家はどのようにつくられ、その後の王朝にどう受け継がれていったのでしょうか?

  • 司馬遷「史記」

佐川先生 「今日は貴重なものを持ってきました。これは『司馬遷(しばせん)』『史記(しき)』です。全130巻あるんですけれど、これはその一部で、中国の伝説の王朝から漢の武帝の時代までの歴史が書かれています。漢字ですから、意外と意味はわかるんです。」

それでは、秦の始皇帝のお墓の中がどうなっているかについて書かれているところを読んでみましょう。

「以水銀為百川江河大海、機相灌輸、上具天文、下具地理。」
(水銀を以(もっ)て百川江河(ひゃくせんこうが)大海(たいかい)をつくり、機(き)もて相(あい)灌輸(かんゆ)し、上は天文を具(そな)え、下は地理を具う。)

佐川先生 「水銀で河川や海をつくって、それを流して、上には星空、下には地理がつくられたと書いてあります。」

マヤ 「お墓の中に河川まで再現して造ったんですか?」

佐川先生 「そういうことです。始皇帝のお墓の真下にそういう地下宮殿を造ったわけですね。水銀は不老不死と関係があると言われていたので、始皇帝は永遠の命を求めたのかもしれません。」

始皇帝の中国統一
  • 甲骨文字

司馬遷の「史記」には伝説の時代から紀元前1世紀までの中国の歴史が綴られています。
「史記」が伝える中国最古の王朝は「夏(か)」、そして続く王朝、「殷(いん)」の名を伝えています。
存在が確認されている最古の王朝、殷(いん)は紀元前1700年ごろ、黄河(こうが)中流域におこりました。

この時代、王は占いによってものごとを決定していました。
動物の骨や亀の甲羅を火であぶり、入ったひびで吉凶を占いました。
この骨や甲羅に刻まれていた文字が「甲骨文字(こうこつもじ)」です。
神の意志を問い、それに基づいた政治を行うことを、「神権政治(しんけんせいじ)」といいます。

  • 封建制度
  • 青銅器

紀元前11世紀、殷の西にあった「周(しゅう)」が勢力を広げ、殷を攻め滅ぼしました。
周は「封建制度(ほうけんせいど)」という統治の仕組みを生み出しました。
王は一族の者などを諸侯(しょこう)に任じて地方を治めさせ、周の統治を強固なものとしたのです。

周から統治した諸国に送られた青銅器には、このころ発達していた「漢字」で、周の王の命令が刻まれています(画像・右)。
漢字は言葉が異なる諸国をまとめるため、欠かせないものとなっていました。

  • 孔子
  • 老子

やがて周は内乱と外敵の侵入で衰え、紀元前5世紀、諸侯たちが自ら王を名乗って戦争を繰り返す「戦国時代」に入ります。
弱肉強食の時代、王たちは競って軍備を増強し、すぐれた人材を登用しました。
それに呼応して、「諸子百家(しょしひゃっか)」といわれる多くの思想家が生まれました。
「孔子(こうし)」は、他人を思いやる仁(じん)の心と礼節を重んじ、社会秩序の回復をめざしました。
孔子の思想は「儒教(じゅきょう)」として後の世に大きな影響を与えました。
一方、「老子(ろうし)」は孔子の考え方に反して、人間の知恵や行動から生まれたものを否定し、ありのままの自然体で生活を送るべきであるという「無為自然(むいしぜん)」という考え方を説きました。

  • 郡県制

550年続いた戦乱の世を終わらせたのが「秦(しん)」です。
紀元前221年、秦がついに中国統一を成し遂げます。
秦の王は、神にも等しい存在として「皇帝」を名乗りました。
ファーストエンペラー、始皇帝(しこうてい)の誕生です。

始皇帝は広い領土を一つにまとめる統治制度を生み出しました。
「郡県制(ぐんけんせい)」です。
全国を郡に分け、その下に県を置きました。
そして中央から役人を派遣し、皇帝の命令が隅々まで及ぶようにしました。
また、それまで地域でばらばらだった文字や通貨を統一し、交易や税の取り立てが効率的に行われるようにしました。
始皇帝は秦の思想に合わない書物を燃やし、秦とは違う考え方を持つ思想家たちを生き埋めにしました。
「焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)」です。

  • 匈奴と戦争
  • 万里の長城

北方の遊牧騎馬民族、「匈奴(きょうど)」とも国力を挙げての大掛かりな戦争を始めました。
始皇帝は匈奴の侵入に備え、それぞれの国ごとに造られていた長城(ちょうじょう)を一つにつなげ、「万里(ばんり)の長城」として修復しました。

  • 戦国時代の地図

マヤ 「どうして秦の始皇帝は焚書,坑儒という、かなり厳しい思想統制を、ここまでやったんですか?」

佐川先生 「『焚書』で焼かれたのは民間に伝わる、それぞれの地域文化を伝える歴史書や文学書だったんです。こちらの地図をご覧ください。秦の統一前、七国に分かれていた戦国時代の地図です。国々は、それぞれ独自の歴史や文化を持っていました。例えば秦と楚では、言葉も文字も違ったんです。それぞれの国の文化を強引に抹消しなければ国を統一することはできなかったんです。『坑儒』も同じように、秦の考え方に反対する人々を殺して、自分たちの考え方を押し付けたんですね。」

マヤ 「秦の中国の統一は、その後の中国にどんな意味があるんでしょうか?」

佐川先生 「絶対的な権力をもつ皇帝が、官僚制度を通じて全国を統治するシステムが受け継がれてゆくわけですね。秦の生み出したこの統治機構は、中国だけではなく、日本を含めた東アジア全体のその後の歴史に影響を与えていくことになります。」

  • 全国から人々を徴兵

北方の騎馬民族、匈奴は盛んに秦の国境を脅かしました。
始皇帝は全国から人々を徴兵し、匈奴との戦いや万里の長城の修復に当たらせました。
その負担は支配者への怒りにつながりました。
紀元前210年、秦の始皇帝が死ぬと各地で反乱が起こり、秦は中国統一後、わずか15年で滅亡しました。

  • 項羽と劉邦

その反乱軍のリーダーとなったのが秦に滅ぼされた楚の武将、「項羽(こうう)」と農民出身の「劉邦(りゅうほう)」です。
二人は対立しますが、勝利をおさめたのは劉邦でした。
劉邦は紀元前202年、皇帝の座につきました。
「漢(かん)」「高祖(こうそ)」です。
その後400年にわたって中国を支配した漢帝国が誕生したのです。

漢帝国の繁栄
  • 長安に都を置いた
  • 郡国制

漢は「長安(ちょうあん)」に都を置き、秦の行政制度を受け継きました。
ただし、秦の郡県制(ぐんけんせい)を改め、新たに「郡国制(ぐんこくせい)」という制度を
始めました。 
皇帝の影響力が強い都周辺の地域は、秦の郡県制と同じ方法で直接統治します。
一方、独自の文化を持つ地域は、それぞれの土地の王の存在を認め、周の封建制(ほうけんせい)にならって、その地の統治を任せたのです。

マヤ 「漢は秦とは違う方法で国を統治したんですね。」

佐川先生 「そうですね。漢は、もともとあった国を残して、ゆるやかな『郡国制』を築いたんです。まず周の『封建制』。各地の諸侯に統治を任せる方法です。
次の秦の時代に行われたのが『郡県制』。こちらは各地に中央から役人を派遣して、その土地を治めるようにする。中央集権制のシステムですね。
しかし、このやり方は人々の反発を招いたわけです。そこで漢が始めたのが周の『封建制』と秦の『郡県制』を合わせた『郡国制』です。こうすることによって、地方の不満を和らげようとしたわけです。」

  • 武帝

漢帝国の成立から70年、紀元前2世紀後半、7代皇帝「武帝(ぶてい)」は積極的な対外政策に乗り出しました。
北の匈奴を撃退し、さらに周辺諸国を滅ぼしました。
司馬遷が「史記」を書いたのはこの激動の時代です。
武帝は内に対しては中央集権化をすすめ、国内統一をより堅固なものとするため、「元号(げんごう)」を定め、「暦(こよみ)」の改革にも取り組みました。

汰雅 「元号というのは『令和』とか『平成』とか、今でも使われているものですよね。」

佐川先生 「そうです。その起源は漢の武帝の時代にあるんです。」

汰雅 「それは、支配するにあたってなんの関係があるんですか?」

佐川先生 「それまで国の年は、それぞれの王の即位年、例えば楚国でいうと“楚の何々王の何年”という数え方をしていました。そのために、国によって年の数え方がばらばらだったわけです。それを漢の武帝は元号というものを作って、全国の年の数え方を統一しようとしたんです。」

汰雅 「一体感を生むためですか?」

佐川先生 「そういうことです。」

汰雅 「あともうひとつ。暦、カレンダーですね。それも支配するにあたって大切だったんですか?」

佐川先生 「はい。これはとても大事なんです。年中行事といいますけど、一年間の重要な祭祀や儀式というものを合わせる。それまでは10月が今で言えば年度初めだったのですが、この時から正月が年の初めになり、以後この習慣は、中国ではずっと維持され続けました。」

  • 光武帝
  • 洛陽

武帝の死後に起こった宮廷内の権力争いや豪族や農民たちの反乱をおさめ、紀元25年、漢を再興したのが「光武帝(こうぶてい)」です。
光武帝以降の漢は「後漢(ごかん)」と呼ばれます。
光武帝は古くから交通の要衝であり、商工業の中心地として栄えていた「洛陽(らくよう)」に都を移しました。

  • 西域にも領土を拡大
  • 漢委奴国王印

後漢は匈奴の弱体化により、西域(さいいき)にも領土を拡大。
シルクロードを通じて中国からは絹製品などが遠くペルシアやローマに送られました。
後漢の歴史を記した後漢書(ごかんじょ)には、紀元57年、「委奴国」(わのなこく)の国王の遣いが来たことが記されています。
光武帝はその遣いに対して金印(きんいん)を授けました。

マヤ 「今でも中国の人たちのことを漢民族という言い方も聞くんですが、漢からきているんですか?」

佐川先生 「実は、漢民族という民族が最初から存在したわけではないんです。秦や漢が中国統一をしていく長い歴史の中で、いろんな国や文化の人たちをまとめていくわけです。そういう中で、徐々に自分たちは仲間だというアイデンティティが生まれてきまして、それが今の漢民族のもとになっていると言えると思います。」

司馬遷「史記」
  • 司馬遷

司馬遷の「史記」は紀元前1世紀の初めごろ、漢の武帝の時代に書かれました。
途中、武帝の怒りにふれ、3年の投獄期間を経て書き継がれた130巻です。
「史記」は後の中国に大きな影響を与えました。

佐川先生 「いわば漢民族としての最初の歴史書、これが司馬遷の『史記』なんです。」

汰雅 「それまでの歴史書とはどこが違うんですか?」

佐川先生 「司馬遷は、『史記』で特に個人に焦点を当てた歴史を書きました。帝王の年代記である『本紀』と、それから歴史上活躍した個人の伝記である『列伝』。これを組み合わせて『紀伝体』といいます。『列伝』には、武将とか思想家だけではなく、歴史上に活躍したさまざまな人物が登場します。なぜいろいろな個人の伝記を入れたのか、わかりますか?」

汰雅 「人に焦点を当てる方が、ストーリー性があっておもしろいからですか?」

佐川先生 「それだけではないようで、個人を歴史の主役にすえることで、それまでの歴史を各国史の寄せ集めにすることを避け、統一した中国にふさわしい新しい歴史を書こうとしたんじゃないかと思います。そしてこのスタイルが、その後の王朝の歴史書にも踏襲されていくことになります。

マヤ 「この司馬遷の『史記』って、すごく人気ですよね。そして司馬遷も投獄や、つらい目に遭いながらも『史記』を書き遂げたといわれていますが、その思いというのはどんなところにあったんですか?」

佐川先生 「秦の始皇帝は焚書で各国のアイデンティティを消し去ろうとしたんですけれども、実際はうまくいかなかったんです。それに対して司馬遷は全中国人が共有できる歴史というものを書こうとしたんですね。そういう意味で、秦・漢の時代は漢民族のアイデンティティを最初に確立する時代だったと言えると思います。」

「史記」と故事成語
  • 史記からとられた言葉

マヤ 「『先んずれば人を制す』、『四面楚歌』、『背水の陣』、『枕を高くして寝る』、こういった言葉聞いたことありますか?実はどれも司馬遷の『史記』からとられた言葉なんです。どんなエピソードから生まれた言葉なのか、調べてみるのもおもしろいですよ。」

それでは次回もお楽しみに!

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