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今回の学習

第39回 第5章 現代の世界と日本

国際社会への復帰と高度経済成長

  • 監修講師:東京都立日野高等学校教諭 武藤正人
学習ポイント学習ポイント

国際社会への復帰と高度経済成長

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

今回は昭和の半ば、1950年代から1970年代を取り上げます。
日本は世界48か国と平和条約を結び、独立。
国際社会への復帰を果たし、主権を回復します。
その後、経済の復興を重視した日本は、どのような経済成長を遂げたのでしょうか。
今回のテーマに迫る3つのポイントは「サンフランシスコ平和条約」「安保改定と国内対立」「高度経済成長」
日本の独立から急激な経済発展までの歩みをたどりましょう。

えり 「前回は、日本が太平洋戦争に負けてGHQによる占領政策が進められたというお話をしました。その間に世界情勢が大きく変化したことを覚えていますか?」

詩乃 「冷戦が始まったんだよね?」

悠也 「アメリカを中心とした資本主義国と、ソ連を中心とした社会主義国が対立したんだよね。」

えり 「ご明察!当時の世界は、資本主義陣営と社会主義陣営とに分かれて対立を深めていました。そんな中、アメリカは占領政策を転換します。」

悠也 「民主化を優先していたところから、経済的自立を援助する方針に転換したんだよね。」

詩乃 「日本の国力を高めて、資本主義陣営の有力な国家に育てあげようとしたんだよね。」

えり 「またまたご明察!そのためには、世界の国々と講和条約を締結して、敗戦で失った日本の主権を回復することが必要だったんです。」

サンフランシスコ平和条約

1951年9月、日本の独立を話し合う講和会議が、サンフランシスコで行われました。
この会議に日本代表として臨んだのが、吉田茂(よしだしげる)首相でした。
吉田首相は「サンフランシスコ平和条約」に調印。
日本は資本主義陣営に立つ48か国と講和し独立、主権を回復したのです。

しかし、日本との主要な交戦国であった中国が会議に招かれなかったことを理由に、ソ連などの社会主義国は調印しませんでした。
サンフランシスコ平和条約で日本は朝鮮の独立を承認し、台湾、千島列島、南樺太などの領有権を放棄。
奄美群島や沖縄諸島、小笠原諸島は引き続きアメリカの施政権下に置くことなどが決められました。

サンフランシスコ平和条約調印と同じ日に、吉田首相はもうひとつの条約を結びました。
「日米安全保障条約(安保(あんぽ)条約)」です。
この条約によって、極東の平和と日本の安全を守るという理由で、日本の独立後もアメリカ軍が国内に駐留(ちゅうりゅう)を続けることになりました。
アメリカ軍による安全保障のもとで、吉田首相は日本の「経済復興」を優先させたいと考えたのです。
吉田茂は、後にこう語っています。
「貿易を盛んにすること、あるいは外国のマーケットをもう少し開拓する。私の時には金のかかる軍備はアメリカ持ち、と。」

一方、アメリカは社会主義国である北朝鮮の侵攻によって始まった朝鮮戦争に危機感を持ち、日本を「資本主義陣営のとりで」にしようと考えたのです。
しかし、金のかかる軍備はアメリカに任せるという吉田首相の方針は修正を余儀なくされます。
1952年、日本は7万5千人を擁する警察予備隊を、保安隊へと改編(かいへん)しました。
1954年には、アメリカと相互防衛援助協定(「MSA協定」)を結び、アメリカの軍事・経済援助を受けるかわりに、防衛力増強の義務を負うことになります。
そのため、およそ16万人からなる「自衛隊」と防衛庁が発足(ほっそく)しました。

悠也 「朝鮮戦争が起きたとはいえ、戦後10年もたっていないのに自衛隊がつくられちゃうって、なんか複雑だよね。」

詩乃 「防衛力の増強って、憲法第9条の『戦争放棄と戦力の不保持』と、ちょっと矛盾するよね?」

悠也 「『国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する』だったよね。」

えり 「そういう声が実はたくさんあがりました。そのため、国内では日米安全保障条約(安保)をめぐって激しい対立が起こります。」

安保改定と国内対立

吉田首相の政策があまりにアメリカに依存しすぎるという不満が、吉田内閣を組織する自由党内などから高まってきました。
そうした政治勢力が集まり、日本民主党(にほんみんしゅとう)を結成。
総裁は鳩山一郎(はとやまいちろう)でした。

日本民主党などの野党は、自由党の吉田内閣に不信任案を突きつけ、退陣に追い込みます。
その後の政権を日本民主党が引き継ぎ、「鳩山一郎内閣」が成立。
鳩山内閣が目指したのは、アメリカからの自立でした。
鳩山は軍備の保有を認めるために、日本国憲法を改憲し日本独自の「自主憲法」を制定すべきだと訴えたのです。

この改憲に反対したのが、日本社会党(にほんしゃかいとう)でした。
社会党は党の理念を「平和、民主憲法の擁護」とし、日本国憲法を守る「護憲(ごけん)」を掲げました。
これに対し同じように改憲を目指していた、日本民主党と自由党は合同。
1955年11月、「自由民主党」を結成します。
自民党は党の理念として「自衛軍備の整備」「憲法の自主的改正」、改憲(かいけん)を掲げました。

その後の選挙で、改憲派の自民党は過半数の議席を確保して政権を担い、護憲派の社会党は改憲を阻止できる3分の1以上の議席を獲得。
1955年に始まったこの体制を「55年体制」といいます。
この対立は38年にわたって続きました。

えり 「『55年体制』についてまとめてみましょう。
憲法を改正しようとしたのが自由民主党、財界などの強い支持を得ています。
これに対して憲法を守る護憲の立場をとったのが日本社会党、労働組合などが支持しています。
自民党を中心とする勢力を保守、それに対抗する社会党などの勢力を革新と呼び、
保守が優位に立って政権を担い、革新がこれに対抗する体制を、『55年体制』と呼んでいます。」

悠也 「改憲に賛成か反対かが、55年体制の始まりだったんだね。」

えり 「実はこの55年体制には、もうひとつの争点がありました。日米安全保障条約(安保)です。自民党は安保を支持、社会党は反対の立場をとったんです。」

「でも、安保を支持する自民党内でも、アメリカとの関係が対等ではない安保条約を改正しようとする動きも出てきたんです。」

1957年に成立した自民党の「岸信介(きしのぶすけ)内閣」は「日米新時代」をとなえ、アメリカと対等な立場で提携関係の強化をはかろうとしました。
1960年1月19日、岸首相は日米安全保障条約の不平等な点を改めた新しい安保条約「日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)」に調印しました。

これに対し、大規模な反対運動がわき起こります。
「安保闘争」です。
新安保条約は軍事同盟の性格を持ち、日本がアジアにおけるアメリカの戦略体制の中で戦争に巻き込まれる危険があると、労働組合や学生、多くの一般人が参加しました。

新安保条約を承認する国会で、岸内閣は議場から社会党などをしめ出し、自民党だけで採決(さいけつ)を強行しました。
このやり方が国民の怒りを買い、新安保条約への反対運動は、一層激しくなります。
反対派は国会を取り囲み、参加者はおよそ13万人に膨れ上がりました。

激しい反対運動が続く中、1960年6月19日午前0時、新安保条約は成立したのです。

えり 「新安保条約ができて、日本とアメリカは対等になったんでしょうか?
1、アメリカによる日本防衛の義務。
2、在日アメリカ軍の軍事行動についての事前協議。
3、発効(はっこう)後10年で廃棄を通告(つうこく)できる。
これは、日米の立場をより対等に近づけているものです。
4、日本の防衛力の増強。」

悠也 「アメリカとの関係が対等に近づいた分、日本はさらに防衛力を増強することになったんだね。」

詩乃 「これでますます、安保への反対運動が活発になったのかな?」

えり 「実はこのあと、人々の関心は政治よりも経済のほうに移っていきます。」

高度経済成長

日本は、1955年から70年代にかけて急激な経済成長を遂げました。
「高度経済成長」です。
これを方向づけたのは、1960年に成立した自民党の「池田勇人(いけだはやと)内閣」が打ち出した「所得倍増(しょとくばいぞう)計画」です。

10年で「国民総生産(GNP)」を2倍にするというこの計画によって、池田内閣は集中的に公共投資を行い、産業構造を鉱工業中心に変化させていきました。
さらに、「技術革新(かくしん)」を推し進め国際競争力を強化する中で、日本の輸出は拡大していきました。

一方、東京でのオリンピック開催に向けた整備が急ピッチで進められました。
上下水道や空港と都市を結ぶ交通機関の整備、首都高速道路の建設、そして東海道新幹線の開通です。
1964年、東京オリンピック開催。
そして日本は目標だったGNP2倍を10年経たないうちに達成。
アメリカに次いで資本主義世界第2位の経済大国に成長します。
1970年には日本万国博覧会(ばんこくはくらんかい)を大阪で開催。
社会構造が大きく変化した日本では、消費生活が豊かになり、国民のおよそ9割が「自分は中流階級だ」と認識するようになりました。

えり 「高度経済成長のころの日本は、終身雇用といって、企業などが正規に雇用した労働者を定年まで雇用するのが一般的でした。仕事が安定している上に、お給料はどんどん上がっていくんだから、当時の人たちは今と比べて将来に対する不安も少なかったんじゃないかな。経済的にはいい時代だよね。」

詩乃 「いまは終身雇用は一般的じゃないし、非正規雇用も増えているっていうから、将来に不安な人も多いんじゃないかな。」

悠也 「うん。でも一方で、働き方が自由になったっていう、いい面もある気がする。」

日本史なるほど・おた話〜高度経済成長と公害

今回は武藤正人先生に伺います。

武藤先生 「今回は、高度経済成長の時代について見てきたんですけど、その負の側面である公害についてお話したいと思います。」

高度経済成長期には、「四大公害病」として知られる4つの公害が発生しました。
三重県四日市市で発生したのが「四日市ぜんそく」です。
石油化学コンビナートのばい煙に含まれる「亜硫酸(ありゅうさん)ガス」などが原因でした。

富山県の神通(じんづう)川流域では「イタイイタイ病」が発生。
上流の工場から流されていたカドミウムが原因でした。
激しい痛みをともなって骨が折れ、進行すると死亡します。

熊本県と新潟県で発生したのが、水俣(みなまた)病です。
化学工場から垂れ流された工業廃水に、有機水銀が含まれていたことが原因でした。
有機水銀に汚染された魚介類を食べた住民が発症したのです。
手や足の神経がまひし、最悪の場合は死に至りました。

悠也 「とてもひどい症状だったけど、それが人為的に引き起こされていたってなるとね。」

詩乃 「工場の廃棄物をそのまま流すって、今じゃ考えられないよね。」

武藤先生 「今回はこれらの中でも、水俣病についてお話したいと思います。
水俣病は、1956年頃に病気が確認されたんですけれど、それから70年近くたった現在も病気で苦しんでいる人がいます。病気が確認された2年後の1958年には、その原因が工場から排出された廃水であることがわかったにも関わらず、水銀中毒患者はその後も増え続けてしまったんです。」

悠也 「なんで原因がわかっていたのに増えていったんですか?」

武藤先生 「企業が利益を追求した、利益を優先したからですね。工場を所有する企業は操業を続けたかったので、工場の排水を止めなかったのです。そして廃水が水俣病の原因であることを否定しました。」

悠也 「考えられないような話ですけど、その後はどうなっていったんですか。」

武藤先生 「水俣病はまだ終わっていない、と言われているんです。」

水俣病は1968年、ようやく国から公害の認定を受け、原因となった廃水を流した企業の責任が認められました。
しかし、水俣病をめぐる裁判では、企業だけでなく県や国の責任を求めるものもあって長期化しました。
損害賠償などをめぐって、いまも裁判が続いています。

悠也 「本当に繰り返しちゃいけない歴史ですよね。」

詩乃 「政府はその後、公害への対策をとっていくんですよね?」

武藤先生 「はい。1967年に『公害対策基本法』が公布されて、1971年には環境庁が発足しました。その結果、水質汚染や大気汚染などの公害対策は一段と進みました。」

えり 「ところで、最近では新たな問題も注目されていますよね。」

武藤先生 「そうですね。最近では、世界では海洋プラスチックのゴミによって生態系に影響が及んでしまったりですとか、それから砂漠化の問題、温室効果ガスによる温暖化などの環境問題が注目されていますよね。持続可能な社会のあり方が問われているかと思います。」

「その実現のためには、過去に経験したひずみからも真摯(しんし)に学んで、本当の意味での成長や発展について考えていくことが大切なんじゃないでしょうか。そのためにも歴史を学んだり、歴史から学ぶということが求められているんだと思います。」

詩乃 「みんな同じ地球に住んでいるから、世界中で協力しなきゃいけないですよね。」

それでは、次回もお楽しみに!

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