NHK高校講座

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、前年度の再放送です。

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今回の学習

第37回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展

太平洋戦争

  • 監修講師:創価大学教授 季武嘉也
学習ポイント学習ポイント

太平洋戦争

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

今回の時代は昭和前半、1939年から1945年までの激動の時代です。
中国との戦争が泥沼化していた日本。
ドイツ・イタリアと軍事同盟を結び、東南アジアへ軍隊を進めます。
この動きに警戒を強めたアメリカは、日本への石油輸出を禁止。
日米の対立は深まり、ついには太平洋戦争が勃発します。
今回のテーマに迫る3つのポイントは「第二次世界大戦と三国同盟」「太平洋戦争の勃発」「敗戦」
なぜ日本は、戦争への道を歩んでしまったのでしょうか。

えり 「2人は修学旅行や平和学習で、戦争の話聞いたことある?」

詩乃 「私は広島の平和記念資料館で、当時からそのまま残された遺品とか模型とかを見て、すごい衝撃的だったのを覚えてる。」

悠也 「僕は、沖縄のひめゆり学徒隊の話が印象に残ってるかな。僕と同じぐらいの年代の女子高生が最前線で看護をして、その結果半数以上が亡くなったって、あまりにも悲惨だよね。」

えり 「ほんとに胸が詰まる思いになるよね。日中戦争と太平洋戦争を合わせた日本の犠牲者は310万人に及びました。」

第二次世界大戦の勃発と三国同盟

1939年9月、ヒトラー率いるドイツがポーランドへ侵攻。
これに対してイギリスとフランスが、ただちにドイツに宣戦。
「第二次世界大戦」が勃発しました。

1940年に入ると、ドイツはデンマーク・ノルウェー・オランダ・ベルギーを占領し、ついにはフランスを破ります。
日本はこうしたヨーロッパの戦争に対して、中立の立場を取っていました。
しかし、フランスがドイツに降伏すると、日本は1940年9月、フランス領インドシナ北部へ軍隊を進駐(しんちゅう)させました(北部仏印進駐)。
石油やゴムなどの重要資源を確保するチャンスだと考えたのです。

そして同じ月、ドイツ・イタリアと「日独伊(にちどくい)三国軍事同盟」を結びます。
ヨーロッパはドイツ・イタリアが、アジアは日本が、指導的立場に立っていることを認め合い、別の国から攻められたら軍事的に助け合うことを約束しました。

えり 「日本はフランス領のインドシナ北部に、軍隊を送り込みます。この『北部仏印進駐』が、日本が大戦に突き進む、大きなきっかけとなります。」

詩乃 「フランス領のインドシナ北部って、どのあたりなんだろう?」

えり 「日本の南西、今のベトナム・ハノイあたりです。ここまで軍隊を進めた理由のひとつは資源の確保。でも実はもうひとつ理由があります。当時、日本は戦争中だったでしょう?」

悠也 「うん、日中戦争だよね。」

えり 「1937年に始まった日中戦争は、1940年になっても決着がつかず泥沼化していたの。日本側はその原因が、中国にアメリカ・イギリス・ソ連から軍事物資の援助があるからだろうと考えて、その援助を何とか遮断しようとしていました。このルートを『援蔣(えんしょう)ルート』といいます。」

悠也 「援蔣ルートって、中国・国民政府の蔣介石(しょうかいせき)を援助するルートって意味ですよね。」

えり 「そうです。その援蔣ルートのなかでも特に重要なルートが、現在のベトナムを経由するルートだったんです。」

悠也 「援助がストップすれば、日本は中国に勝てるって思っていたんだね。」

えり 「でも、このような日本の動きに警戒を強めたのが、アメリカでした。」

太平洋戦争の勃発

アメリカは日本に対して、主要原料と軍需(ぐんじゅ)資材の輸出を許可制として、経済的な圧迫を強めました。
時の首相、近衛文麿(このえふみまろ)は妥協点を見出そうと、1941年、駐米大使・
野村吉三郎(のむらきちさぶろう)に、ハル国務長官との「日米交渉」を開始させます。

一方で、アメリカとの交渉を有利に進めるため、ソ連と「日ソ中立条約」を締結。
日本とソ連はお互いの領土を侵さない、という約束を交わしました。
そして日本はさらにフランス領インドシナ南部、現在のベトナム・ホーチミンへも軍隊を進めました(南部仏印進駐)。
石油など資源を獲得するためでした。
この軍事行動に対してアメリカは、日本が東南アジア全体を侵略しようとしていると考え、態度を硬化させます。
アメリカ国内にある日本人の資産の使用や移動を禁止。
さらに、日本への石油輸出を全面的に禁止しました。
アメリカに石油のほとんどを頼っていた日本は窮地に立たされます。
こうした状況をはね返すためには、「開戦しかない」との主張が強まりました。

10月、日米交渉に行き詰まった近衛内閣は総辞職し、陸軍の「東条英機(とうじょうひでき)」が首相に就任。
アメリカと交渉を続けながらも、開戦の準備を進めていました。
そんな東条内閣のもとに、11月26日、アメリカから「ハル・ノート」が出されます。
中国領とフランス領インドシナからの全面撤兵、三国同盟の否認などを要求する強硬な提案でした。
交渉は絶望的となり、12月1日に開かれた御前会議で開戦が決定されました。
1941年12月8日、日本陸軍がイギリス領「マレー半島」に上陸を開始。
また、海軍はハワイの「真珠湾(しんじゅわん)」を奇襲(きしゅう)攻撃しました。
日本はアメリカとイギリスに宣戦を布告し、「太平洋戦争」が勃発。

三国同盟にしたがって、ドイツとイタリアもアメリカに宣戦布告。
世界60か国で多くの犠牲者を出す大規模な戦争へと突入しました。

今回は季武嘉也先生に伺います。

悠也 「日本はアメリカと戦うことになったけど、アメリカという大きな国に対して、本当に勝てると思っていたのかなあ?」

季武先生 「それは大変に難しい質問なんですが、日本は日中戦争が始まってから、軍備を拡大していたので、軍事力だけを考えると『太平洋地域でアメリカをやや上回っている』と軍部は考えていたんです。
ですから、戦争が長引けば国力の劣る日本が不利だということはわかっていたんですけれども、短期決戦ならアメリカに勝てるという考え方が軍部に生まれていたんです。」

敗戦

1942年、日本軍はシンガポールを占領。
さらに開戦後およそ半年間で、フィリピン・ジャワ・ビルマにかけての広大な地域を占領します。

日本軍が計画していた初期作戦は、ほぼ計画通りに進みました。
日本の国民は勝利に沸き立ちました。
日本は戦争の目的を日本の自衛と、東アジア・東南アジアを含めた「大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)」の建設により欧米の植民地から解放するため、としていました。

しかし、実態は違いました。
戦争継続に必要な資材の供給地として占領地域を支配。
現地の人々に過酷な労働を強制しました。
そのため各地で日本に対する抵抗運動が起こりました。
戦局が変わったのは、1942年6月、「ミッドウェー海戦」で大敗北。わずか1日で、空母4隻と3000人以上の将兵を失いました。
以後、巨大な工業生産力を背景に、アメリカを中心とする連合国の反撃が本格化。


アリューシャン列島のアッツ島では、日本軍2600人が全滅。
大本営は、これを「玉砕」と表現しました。

1943年末には、兵力不足を補うために20歳以上の学生までもが徴兵されます(「学徒出陣(がくとしゅつじん)」)。
1944年6月、アメリカ軍はサイパン島に上陸、日本軍およそ3万人が全滅。
さらに住民にも多くの犠牲者を出しました。
このサイパン島などを基地としたB29爆撃機(ばくげきき)は、日本各地の都市を空襲。
1945年の「東京大空襲」では、10万人の一般市民が犠牲となりました。
そしてついに、沖縄での地上戦が始まりました。
この戦いで、日米両軍と住民たちを合わせた死者の数は、20万人にも達しました。

7月、アメリカ・イギリス・ソ連の首脳がベルリン郊外のポツダムで会談。
日本に無条件降伏を求める「ポツダム宣言」を発表しました。
しかし、日本はこれを黙殺。

アメリカは、8月6日、広島に「原子爆弾」を投下、死者14万人(〜1945)。
8日には、ソ連が日ソ中立条約を破って日本に宣戦を布告。
中国東北部の満州や朝鮮・樺太・千島列島に侵入を開始しました。
あくる9日、長崎に原子爆弾投下、死者7万人(〜1945)。


日本は「ポツダム宣言の受諾」を決定し、8月15日、戦争の終結を発表しました。
満州事変から始まった15年にわたる戦争は、その幕を閉じました。
最後の3か月だけでも、日本人の死者は60万人を超えていました。

悠也 「早く負けを認めていれば、ここまでの被害って出なかったんじゃないのかな。」

えり 「本当にそうだよね。同盟国だったイタリアは1943年に、ドイツも1945年の5月に降伏したんだよね。それなのに、日本だけがそのあとも戦い続けて、(さらに)60万人もの人が犠牲になった…。」

季武先生 「そうですね。この戦争で310万人もの日本人が亡くなったわけですが、なぜこんなに多くの犠牲者を出してしまったのか。それを象徴する言葉があるので、紹介しましょう。こちらの言葉です。」

詩乃・悠也 「玉砕。」

詩乃 「アッツ島の戦いで全滅したことを『玉砕』と伝えたって言っていましたけど、玉砕と全滅って、どう違うんですか?」

季武先生 「玉砕には『玉が美しく砕けるように、名誉や忠義を重んじて潔く死ぬ』という意味があるんです。つまり玉砕という言葉を使うことによって、戦死することは尊いと美化したんですね。」

大本営は玉砕をたたえ、国民に死の覚悟を求めていきます。
その結果、各地で無謀な戦いが繰り広げられました。

そのひとつにインパール作戦があります。
ビルマ(現ミャンマー)から、イギリス軍の拠点があるインドの町・インパールを攻略する作戦でした。
兵士は、470kmもの険しい道のりを歩いて移動。
食糧や弾薬は補給されず、現地で調達することとなりました。
結局、誰一人インパールにはたどり着けず、兵士は密林の中で飢え、病に倒れていきました。
およそ3万人が命を落とした、あまりに無謀な戦いでした。

悠也 「どうして、こんなにも無謀な作戦が実行されたんですか?」

季武先生 「この作戦を決行したのは、陸軍の牟田口廉也(むたぐちれんや)司令官です。実は彼の部下には、無謀だと作戦に反対した人もいました。しかし、彼はその人を左遷しても作戦を決行したんです。」

えり 「どうして部下の意見を聞かないで、左遷してまでその作戦を決行したんでしょうか?」

季武先生 「牟田口は元来、積極的な軍人だったようで、インパールへの侵攻も早くから主張していました。そんな彼の耳に『この作戦は大本営上層部の希望である』という話が届いていたようです。大本営にしても、悪化する戦況を一気に覆したいという思惑があったのでしょう。」

「牟田口は、部下の反対を退け『何としても大本営の意に添いたい』と上官に提案し、上官も『牟田口の作戦を実行させてやりたい』と戦況は厳しいと思いながらも承認し、インパール作戦が強行されたのです。つまり、戦場の現実を冷静に分析し判断することができなかったんですね。」

「その結果として、作戦中止・撤退の判断も遅れ、およそ3万人が命を落とす、まさに『玉砕』とも言える、戦争を美化するような言葉とは正反対の、たくさんの尊い命が犠牲になる悲惨な戦いとなったんではないでしょうか。」

詩乃 「すごくショッキングな過去ではあるけど、二度と繰り返してはいけない歴史として、しっかり向き合って、次は私たちが後世に伝えていかなきゃいけないよね。」

えり 「もう二度と、こういった戦争を起こさないためにも、絶対に忘れてはいけないことですね。」

それでは、次回もお楽しみに!

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