NHK高校講座

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、前年度の再放送です。

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今回の学習

第36回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展

日中戦争

  • 監修講師:創価大学教授 季武嘉也
学習ポイント学習ポイント

日中戦争

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

今回は20世紀、昭和前半を取り上げます。
昭和恐慌という深刻な不況にあえいでいたこの時代。
日本国内では経済と社会の不安が深まるなか、軍部が次第に政治的発言力を持ち始めます。
そして、東アジアでの勢力拡大を狙った軍部は、中国との戦争に突き進みます。
今回の時代に迫る3つのポイントは「満州事変」「軍部の台頭」「日中戦争のはじまり」

日中戦争をきっかけに、大きな戦争へと突き進む歴史を見ていきましょう。

満州事変

えり 「世界的に大不況に見舞われたなか、同じく不況に苦しむ日本が重要視していた場所がありました。
こちらをご覧ください。今の中国東北部の満州(まんしゅう)と、内蒙古(ないもうこ)です。特に、満州は日本が不況から抜け出すために重要な場所とされていました。」

悠也 「満州では日露戦争後に、鉄道とか炭鉱の権益を日本が獲得して、関東軍をおいていたよね。」

えり 「その通り。満州は、当時発展しつつあった重化学工業の資源となる鉄を確保するために、重視されていました。ほかにも、このころ人口が増加していた日本にとって、満州は移民先としても重視されていたんです。」

日本が重要視していた満州。
その権益が蒋介石(しょうかいせき)率いる中国・「国民政府」によって、脅かされるのではないか。
危機感を抱いた関東軍は、参謀・石原莞爾(いしはらかんじ)を中心に行動を起こします。
1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖(りゅうじょうこ)で、南満州鉄道の線路を爆破。
それを中国軍の行為だと主張し、軍事行動を開始しました。
「満州事変(じへん)」です。

中国側は、「満州事変は日本の侵略行為である」と国際連盟に提訴しました。
日本政府は、協調外交路線をとっていた若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣のもと、不拡大方針を決定します。
しかし、関東軍はこれを無視して戦線を拡大。
世論の多くも軍の行動を支持します。
戦況を伝える報道に、不況に苦しんでいた民衆は熱狂しました。

1931年12月、若槻内閣にかわり、立憲政友会(りっけんせいゆうかい)の犬養毅(いぬかいつよし)が内閣を組織します。
犬養も若槻内閣と同じように、交渉によって事態の解決をはかろうとしました。
しかし、関東軍の戦線拡大は止められませんでした。

1932年初め、関東軍は満州の主要部を占領します。
さらに、関東軍は清朝最後の皇帝・「溥儀(ふぎ)」を執政におき、「満州国」を建国させました。
それでも中国と交渉を続ける犬養は、関東軍が建国させた満州国をすぐに承認しようとはしませんでした。

満州をめぐる混乱が続くなか、中国からの訴えを受けた国際連盟が、イギリス人のリットンを団長とする調査団を派遣。
調査が始まりました。

えり 「日本の不況が深刻化していたため、満州事変が起きる前から、国内では政党内閣への不満が高まっていたんです。
そこに、満州事変について国際連盟の調査団が入ったことで、日本は大きな岐路に立たされることになります。」

国際連盟の調査が進むなか、満州国建国によって軍事行動を正当化したい軍部と、満州国を承認しない犬養内閣の関係は緊張していきます。

1932年5月15日、政党内閣に不満を抱く海軍将校らによって犬養首相が暗殺される「五・一五(ご・いちご)事件」が起きました。

事件のあと、海軍の長老・斎藤実(さいとうまこと)が政権を握ります。
斎藤は非常時の名のもとに、各機関や政治集団から人材を集める挙国一致内閣(きょこくいっちないかく)を組織します。
こうして政党政治は幕を閉じ、政府は軍部よりになっていきました。

そして、リットン調査団の報告書が公表される直前の1932年9月、斎藤内閣は軍部の主張を認め、満州国と「日満(にちまん)議定書」を取り交わし、満州国を承認します。
日本軍の駐屯(ちゅうとん)を認めさせ、満州国を実質的に支配するようになりました。
10月、国際連盟によるリットン調査団の報告書が発表されます。
それは、満州に対する中国の主権を認めるものでした。

1933年2月、国際連盟の総会で、満州からの日本軍の撤退などを勧告する決議案が42対1で可決。
唯一の反対票を投じた、日本の全権・「松岡洋右(まつおかようすけ)」は国際連盟への決別宣言ともとれる発言を行います。
この発言を残し、松岡はただちに退場しました。
3月に日本は、国際連盟からの脱退を通告します。
新聞など、日本のメディアはこれを支持。
松岡の熱弁をたたえました。

このころ、大蔵大臣・「高橋是清(たかはしこれきよ)」が金輸出を再び禁止し、管理通貨制度を採用したことで、為替相場は円安状態でした。
その影響もあって、綿製品の輸出がイギリスを抜いて世界一になるなど、日本は国際収支を好転させます。

日本商品の進出に対して、イギリスやフランスは、高率の関税や輸入の割り当てを減らすなどして対抗し、日本と列強の間に経済摩擦が発生します。
こうして日本は、国際社会から孤立する道へと突き進んでいくことになりました。

軍部の台頭

えり 「テロやクーデターが起きるたびに政府は軍部よりになっていったんですが、このあと政府が決定的に軍部よりになる事件が起きます。
その背景には、軍部内での2つの派閥争いが関係しています。」

詩乃 「『皇道派』と『統制派』?」

えり 「皇道派は農村出身の青年将校が多く、天皇を中心として国難打開を目指していました。一方の統制派は、軍部の統制のもと、強力な総力戦体制の確立を目指す、陸軍の幕僚将校が中心でした。
皇道派と統制派の派閥争いから、軍部の力がより強くなる決定的な事件が起きてしまいます。」

1936年2月26日、陸軍皇道派の青年将校たちが決起。
およそ1400人の兵士を率い、皇道派中心の軍事政権を樹立しようとしました。
「二・二六(に・にろく)事件」です。
彼らは首相官邸や警視庁などを襲撃。
大蔵大臣・高橋是清、内大臣・斎藤実らを暗殺。
政治の中心地である永田町一帯を占拠しました。
まもなく統制派と海軍が中心となって鎮圧に乗り出します。
そして、4日間におよぶ企ては失敗に終わりました。

軍部を統制できなかった責任を取り、岡田啓介(おかだけいすけ)内閣は総辞職。
続いて広田弘毅(ひろたこうき)が内閣を組織しました。
統制派を中心とした陸軍は、広田に迫り、「軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)」の復活を認めさせます。
これは、軍部大臣を現役の軍人に限る、という制度でした。
軍部の意向に沿わない内閣に対し、軍部は大臣を出さないことで、内閣の成立を阻止できるようになりました。
こうして、軍部の政治的発言力はますます強まり、軍備の拡張も進んでいきました。

今回は季武嘉也先生に教わります。

えり 「このころ、世界はどんな状況だったんでしょうか?」

季武先生 「ドイツやイタリアでは独裁政権が誕生していました。ドイツは『ヒトラー』率いる『ナチス』、イタリアは『ムッソリーニ』率いるファシスト党が政権を握っていました。日本でも一部には、ドイツやイタリアをまねようとする人々が出てきました。」

えり 「それは何のために、何をまねしようとしたんですか?」

季武先生 「世界恐慌以来、世界中が経済で苦しんでいるなかで、大きく発展した国がありました。それがドイツ、イタリア、ソ連でした。これらの国に共通しているのは、ひとつの政党が強大な権力を持って独裁的な政治体制を敷き、経済面では資本主義になかった新しい制度を加えているという点でした。日本でもそのような方向を目指そうとする人々が出てきたんです。」

「日本では、『主権が天皇にある大日本帝国憲法に反する』という強い意見もあって、ナチスのような政党は生まれませんでした。しかし、軍部大臣現役武官制などにより、軍部よりの独裁的な政権に近づいていきました。その結果、『日独防共(にちどくぼうきょう)協定』などが結ばれ、『日独伊枢軸(にちどくいすうじく)』が形成されていきました。」

日中戦争のはじまり

国際連盟を脱退した日本は、中国への進出を続けます。
華北(かほく)への勢力拡大をはかり、華北を国民党政府の統治から分離させようとする、「華北分離工作」を行います。
1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で日中両軍の武力衝突が起きました。
時の首相・「近衛文麿(このえふみまろ)」は、不拡大方針を声明しつつも、その一方で中国への派兵を認めます。

戦火は華北から華中へと拡大。
日本は中国との全面戦争、「日中戦争」へとなだれこみます。
中国では、内戦を繰り広げていた蒋介石率いる国民政府と、毛沢東(もうたくとう)率いる共産党との提携が実現しました。
「第2次国共合作(こっきょうがっさく)」です。
これによって結成された「抗日(こうにち)民族統一戦線(せんせん)」が、頑強な抵抗を続けます。
日本軍は大部隊を送り込み、国民政府の首都・南京(なんきん)に総攻撃をかけ、一気に占領します。
この際、日本軍が多数の捕虜や民間人などを殺害する「南京事件」を起こし、諸外国からも非難を浴びました。

1938年1月、近衛首相は和平交渉が難しいとなると、「国民政府を対手(あいて)とせず」と、自ら和平の機会を断ち切ります。
同年末、「東亜(とうあ)新秩序」建設の声明を発表。
日本の出兵目的を正当化します。
さらに1940年、国民政府の要人・「汪兆銘(おうちょうめい)」をたて、南京に新政府を樹立させました。
一方、蒋介石と毛沢東が協力して結成された抗日民族統一戦線は、イギリス・アメリカ、ソ連の援助を受け、徹底抗戦。
戦争は長期化し、日本は苦戦を強いられます。

日本国内では、日中戦争をきっかけに「国民精神総動員運動」が始まります。
勤労奉仕や、消費節約が奨励されました。
続いて、政府は議会の反対を抑えて「国家総動員法」を公布。
1939年には「国民徴用令(ちょうようれい)」を制定し、国民を強制的に軍需産業などに動員できるようにします。
こうして国民をも巻き込んだ戦争は、終結の見えないまま泥沼の世界戦へと突入していきます。

えり 「それにしても、『戦争を止めよう』って言う人はいなかったんですか?」

季武先生 「実は、いました。例えば、反軍演説をしたので有名な、斎藤隆夫という代議士がいました。
その反軍演説というのは、政府は『東亜新秩序建設』などという美しい言葉で自分たちの正義を言っているが、その内容はまったく抽象的で意味不明である、戦争は現実なのだから、戦争の目的も、戦争の終わらせ方も具体的にすべきである、と彼は批判しました。」

「この演説に対し、衆議院では賛成して拍手をする人もいたんですが、結局はこの演説をしたために斎藤は衆議院議員を除名されてしまいました。」

えり 「反対の意見が言いづらいっていうような、ひとつに思想が偏りすぎるっていうのもちょっと恐ろしいことだな、と感じました。」

季武先生 「日中戦争は、このあと第二次世界大戦、そして太平洋戦争へとつながっていきます。」


それでは次回もお楽しみに!

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