NHK高校講座

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、前年度の再放送です。

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今回の学習

第32回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展

日露戦争

  • 監修講師:創価大学教授 季武嘉也
学習ポイント学習ポイント

日露戦争

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

今回の時代は、明治時代後期、19世紀末から20世紀です。
日清戦争後の中国では、列強各国が勢力を拡大し、中国を分割しました。
そんな中、中国東北部の満州に進出したロシアと日本との対立が深まります。
その結果起こったのが日露戦争です。
今回のテーマに迫る3つのポイントは「ロシアの満州進出と日英同盟」「日露戦争」「満州経営」
日露戦争はなぜ始まり、その後どうなったのでしょうか?

えり 「日清戦争の結果は列強にとって意外なものでしたよね。」

詩乃 「アジアの大国、清が負けたんだよね。」

悠也 「日本が清に勝ったっていうことは、列強にとっても衝撃だったんだよね。」

えり 「これまでは、アジアの各国が中国に朝貢をして国として認めてもらっていたよね。それが、清の敗北によって清を頂点とする伝統的な東アジアの国際関係は崩壊してしまいました。そして、日清戦争後、清がどうなったか覚えてる?」

詩乃 「勢力が弱くなった清は、欧米各国に狙われたんだよね。」

悠也 「うん、『中国分割』だよね。」

えり 「そのとおりです。ロシア、フランス、イギリス、ドイツなど列強各国は競い合って清国に投資を始め、強引に資金を貸し付け、鉱山の開発や鉄道の建設などをして、さまざまな利権を獲得していきます。そのため、清の人たちの不満はどんどん大きくなっていったんです。」

ロシアの満州進出と日英同盟

列強の進出に対して清国では、外国人の排斥(はいせき)運動が盛んになります。
「扶清滅洋(ふしんめつよう)=清朝を助け、西洋を討ち滅ぼせ」をスローガンに義和団(ぎわだん)が蜂起しました。
1900年、義和団が北京の各国公使館を包囲すると、日本やロシアなど8か国の連合軍が北京を占領して、これを鎮圧しました。
「義和団事件」です。
義和団事件をきっかけに、大軍を中国東北部・満州に派遣したロシアは、事件後も軍を引き上げず、満州を事実上占領しました。
このことが日本とロシアに緊張をもたらします。
その舞台となった朝鮮半島の経緯を見ていきましょう。

朝鮮は日清戦争で清が敗北したことによって、ロシアに接近します。
その中心にいたのが王妃の閔妃(ミンビ)でした。
1895年、朝鮮とロシアの結びつきを恐れた日本の公使などが朝鮮の王宮を襲い、閔妃を殺害する事件が起こります。
これによって、反日の機運が朝鮮で高まります。
1897年、朝鮮は「大韓帝国(韓国)」と国名を改め、独立国であることを示します。
その後、ロシアはハルビンと旅順(りょじゅん)をつなぐ鉄道の建設をはじめ、韓国の鉱山の買収や森林伐採権の獲得など、朝鮮半島での権益を求めます。
このロシアの南下政策に、日本は危機感を強めました。

中国やインドに勢力を広げようとしていたイギリスもまた、日本と同じようにロシアを警戒しました。
このころ、イギリスは南アフリカでのボーア戦争が長期化し、大きな負担になっていました。
ロシアの南下政策に対し、イギリスは日本の力を利用しようとします。
1902年、ロシアとの対立が深まる中、日本はロシアに対抗するためにイギリスと提携し「日英同盟」を結びます。
列強の1国と同盟を結んだことを日本の国民は歓迎しました。

詩乃 「なんで日本はロシアの朝鮮半島への南下政策に危機感を持ったんだろう?」

えり 「日本は安全保障に重大な影響があると考えたからです。(当時の)東アジアの地図を見てみましょう。」

詩乃 「ロシアが、朝鮮半島のすぐ近くまできているね。」

えり 「このままいくと、どんどん日本にも近づいてくるよね。当時、自分の国の隣の地域を自国の影響下に入れようとする、そういう動きが頻繁に行われていました。日本も朝鮮半島を影響下に入れようとしていたんです。」

詩乃 「日本とロシアは朝鮮半島をめぐってぶつかっちゃうね。」

えり 「朝鮮半島をめぐって一触即発の状態だよね。当時の日本の指導者たちには、朝鮮半島がロシアの影響下に入ることを脅威と感じていた人たちが多くいたんです。」

日露戦争

日英同盟を結んでから2年後の1904年2月。
日本が宣戦を布告し、「日露戦争」が始まりました。
日本はロシアの重要拠点である旅順を攻めます。

日本軍は苦戦を重ね、多大な犠牲者を出しながらも、1905年、旅順を陥落。
続いて、ロシア軍主力がいる南満州・奉天(ほうてん)で日露両軍が激突。
激しい戦いを繰り広げ、日本軍がロシア軍を破りました。
ロシアは、海軍の主力であるバルチック艦隊で、反撃に転じようとします。
これに対し日本は、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)を司令長官とする連合艦隊で迎え撃ちます。

対馬海峡で待ち受けていた連合艦隊は、バルチック艦隊に壊滅的な被害を与え、日本の圧倒的な勝利に終わりました。
しかし、日本はこのころ、戦争を続けるための戦力や資金が限界に達していました。
戦死者はおよそ8万人、戦争の費用は17億円を超えました。
これは、当時の国家予算の4年分を超えていたのです。

一方、ロシアも国内の革命運動などを抱えていたため、戦争の終結を必要としていました。
日本が頼ったのがアメリカです。
これ以上戦争を継続させる余裕がなかった日本は、大統領のローズヴェルトに講和を依頼します。
アジアに進出する機会をうかがっていたローズヴェルトは、日本とロシアの講和をあっせんしました。
1905年、アメリカのポーツマスで日露両国全権の「小村寿太郎(こむらじゅたろう)」とウイッテによる講和会議が開かれます。

およそ1か月間にわたる会議の末、「ポーツマス条約」が結ばれました。
ポーツマス条約では、ロシアは韓国における日本の優越権を認める。
旅順・大連(だいれん)の租借権、長春(ちょうしゅん)以南の鉄道と付属の利権を清国の同意を得て日本に譲り渡す。
北緯50度以南の樺太(からふと)の譲渡。
そして、沿海州(えんかいしゅう)・カムチャツカ沿岸の漁業権を日本に与えることを認めました。
しかし、この条約は日本の国民に受け入れられませんでした。

戦争の犠牲の大きさに比べると、賠償金は得られず、日本の獲得した領土や権益も期待したほどではなかったため、日本国民の政府への不満が募りました。
東京、日比谷公園で講和反対の国民大会が開かれ、参加者の一部は条約破棄などを叫びながら暴徒化します。
「日比谷焼き打ち事件」です。
政府は戒厳令を敷いて軍隊を出動。
このような民衆運動は全国各地に広がりました。

詩乃 「日露戦争ではかなりの犠牲が出たんだね。」

悠也 「うん。でも犠牲が出たとはいえ、戦争には勝ったわけだよね。なんで日比谷焼き打ち事件ほどの大きな暴動が起きちゃったんだろう?」

えり 「それは、戦争が国民の生活に大きな負担を与えていたからです。」

季武嘉也(すえたけよしや)先生にお話を伺います。

季武先生 「そうなんです。まず、多くの人が犠牲になりました。
また、戦争に行かなくても戦費調達のために非常特別税という名で増税が行われ、国民は苦しい生活を強いられました。
日露戦争は1905年に終わったのですが、その後も増税は続いたんです。」

えり 「(歳入における租税収入のグラフで見てみると)1900年と1910年、たった10年で2倍以上になってますね。」

詩乃 「織物消費税とか通行税…。通行税って何ですか?」

季武先生 「通行税は電車やバスなどの交通機関を利用したときにかかる税金なんです。この通行税や織物消費税(など)が、非常特別税として新設されました。

詩乃 「国民は戦争のために増税にも耐えなきゃいけなかったんですね。」

悠也 「でも戦争が終わっても増税が続いてしまうなんてね。」

季武先生 「もうひとつ、国民の意識の変化がありました。戦争に犠牲を払いながらも国家に協力した国民は、次第に政治や社会に関心を持つようになりました。しかし、選挙権を持っている人はまだ少ないので、このような暴動という形で自分たちの意見を表明したともいえます。」

悠也 「国民が政治に関心を持ったゆえに起きた事件だったってことですね。」

えり 「さあ、日露戦争の勝利で、朝鮮半島における優越権や満州の権益を得た日本は、大陸へと向かいます。」

満州経営

ポーツマス条約で韓国での優越権を認めさせた日本は、1910年、「韓国併合(へいごう)」に関する条約を押しつけて韓国を併合。
「朝鮮総督府(そうとくふ)」を設置して、武力を背景とした植民地支配を推し進めました。

満州で、日本はロシアがハルビンから敷いた鉄道の長春(ちょうしゅん)以南を譲渡されました。
この鉄道を母体に「南満州鉄道株式会社」、通称「満鉄」を設立します。
満鉄は鉄道だけでなく、沿線地域での鉱山開発や製鉄所の経営も行います。
撫順(ぶじゅん)炭鉱はロシアから利権として譲り受けました。
大規模な露天掘りを採用したことで採炭量(さいたんりょう)は増加し、満州や日本国内に石炭を安定供給しました。
満鉄は、都市建設などの事業も展開しました。
中国東北部には、当時の日本の満州経営で建てられた建物がいくつも残っています。
満州鉄道の本社ビルは満鉄の博物館として、当時の姿のまま保存されています。
満鉄時代に建てられた大連駅も、今でも現役で使われています。

日本が満州に勢力を拡大する中、1911年、中国で「孫文(そんぶん/スンウェン)」による「辛亥(しんがい)革命」が起こり「中華民国」を建国します。
この間、日本はロシアと「日露協約」を結び、中国における勢力範囲を定めます。
その結果、東部内蒙古(ないもうこ)にまで勢力を広げました。
日露戦争後の日本は大陸へとその勢力を拡大していったのです。

詩乃 「日露戦争で手に入れた権益を生かして勢力を拡大していったんだね。」

えり 「ロシアを恐れていた日本ですが、逆にロシアを押しのけて大陸に勢力を伸ばして行きました。そして今度は、ロシア、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなどの列強各国が日本の勢力拡大に危機感を持ったんです。」

悠也 「ロシアに危機感を持っていた日本だったけど、今度は世界の国々から危機感を持たれる側になってしまったんですね。」

季武先生 「そうなんです。そして日本を最も警戒したのがアメリカでした。アメリカはペリーが日本に来航して以来、中国大陸への経済的進出を狙っていました。ポーツマス条約のあっせんの裏側にもその思惑があったからです。」

「特にこの時期のアメリカは経済的に大発展していて、その投資先を探していました。
そこで、アメリカの実業家から、満鉄を共同経営しようという申し込みがあったんですが、日本はこれを断り単独で経営することになりました。
これをきっかけに、アメリカと日本の関係はしだいに冷めていくんです。」

詩乃 「アメリカとも仲が悪くなっちゃうんですね。」

えり 「日本の大陸への勢力拡大がアメリカなどの列強を刺激して、そのあと大きな戦争へとつながっていくんです。」

日本史なるほど・おた話〜「戦友」が伝える日露戦争

引き続き、季武嘉也先生に伺います。

季武先生 「今回は、日露戦争中にはやった軍歌を紹介したいと思います。『戦友』という曲です。」

此處(ここ)は御國(おくに)を何百里(なんびゃくり) / 離れて遠き滿洲(まんしゅう)の / 赤い夕陽に照らされて  / 友は野末(のずえ)の石の下

『戦友』は日露戦争の最中に作られたものといわれています。
作詞者の真下飛泉(ましもひせん)は京都の学校の先生であると同時に詩人で、自分自身は戦地に行った経験はありませんが、実際に戦地に行った人から話を聞いて作詞したそうです。

季武先生 「『戦友』は14番からなる長い歌なんですけど、簡単に紹介しますと『満州に行く船の中で初めて知り合い仲良くなった2人の兵士のうちの1人が負傷して死んでしまい、その遺体を戦地でお墓に葬る』という内容なんです。」

詩乃 「悲しい歌なんですね。」

悠也 「今の話を聞くと、軍歌というより、鎮魂歌という感じですか。」

季武先生 「そのとおりですね。この歌はいわゆる戦意高揚のための軍歌ではなく、哀愁に満ちた切ない国民の心情を表現したものです。この歌がはやった背景には、ただ戦争に勝ったというだけではない国民の複雑な思いがあったと思います。」

えり 「当時の日本は国民を挙げて日露戦争に傾倒していたように思えたんですけど、そこには大切な人を失った人のそういう心の傷とか、いろんなものを犠牲にした複雑な思いがあったんですね。」

季武先生 「『戦友』は真下飛泉の故郷、京都を中心に全国に広がり、誰でも知る曲になりました。ところが、昭和に入りこのままの歌詞で歌うことが禁じられてしまいます。」

詩乃 「どうしてですか?」

季武先生 「『歌詞が軍律に違反する』という理由です。」

その理由は4番の歌詞にありました。
負傷した友を見捨てられずに、しっかりせよと抱き起こし、包帯を巻いてあげる。
これが軍律に違反していました。
実は、戦闘中に負傷した兵隊をほかの兵隊が治療することは、軍隊の規則では許されないことだったのです。

悠也 「じゃあ友人がもし目の前で撃たれたとしても、助けてあげられないってことだよね。」

詩乃 「想像してみただけで本当につらい気持ちになりますね。」

季武先生 「さらに、戦意高揚にふさわしくないということで、後には歌うこと自体が禁止されました。しかし、それでも人々の間でこっそり歌い続けられていたといわれています。」

悠也 「それだけ国民の心に響いた曲だったってことですよね。」

季武先生 「『戦友』には日露戦争を体験した兵士の思いが込められています。当時の人たちはこの歌の中に、自分の戦争でのつらさ、過酷さ、悲惨さを重ね合わせて歌っていたんだと思います。」

悠也 「戦争に勝ったからよかったってだけじゃなくて、その裏ではこういう物語があるってことを覚えておかないとね。」


それでは、次回もお楽しみに!

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