NHK高校講座

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、前年度の再放送です。

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今回の学習

第31回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展

日清戦争

  • 監修講師:立正大学教授 小風秀雅
学習ポイント学習ポイント

日清戦争

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

今回の時代は、明治時代半ば、19世紀後半です。
憲法と国会を備え、立憲国家となった日本は、不平等条約の改正に成功。
欧米諸国にも認められ、東アジアに目を向けていきます。
そうした中、朝鮮をめぐり清との関係が悪化。
1894年、「日清(にっしん)戦争」が勃発します。
今回のテーマに迫る3つのポイントは「緊張する日中関係」「戦争の勃発と経過」「戦後の東アジアと日本」

日清戦争はどうして起こったのか、見ていきましょう。

えり 「今日は19世紀後半の世界の状況について。このころ世界はどんな状況でしたか?」

悠也 「産業革命があって、イギリスは近代化がだいぶ進んでいたよね。」

えり 「イギリスが、いろんなところに勢力を広げているのがわかりますよね。」

悠也 「アジアとかアフリカにも勢力を広げている...。」

詩乃 「ロシアとかフランスもいろんなところに進出してるね。」

えり 「そうなんです。このころ、イギリスをはじめとする欧米諸国では、資本主義が急速に発展して、資源の調達や投資市場を求めて、アジアやアフリカなどに進出していきました。そして、次第に軍事力によって勢力を拡大するようになっていきます。」

悠也 「それって植民地にしていった、ってことですか?」

えり 「そうですね。こういう政策を『帝国主義』というんだけど、世界のそういった流れの中で、日本はある危機を感じていました。
ロシアが東アジアへの進出を狙ってシベリア鉄道を建設していたんですが、終点を見てください。」

詩乃 「(終点が)朝鮮半島の近くまで迫っているね。」

えり 「そうなんです。朝鮮半島をめぐって、日本、清、ロシアの緊張が高まっていました。」

緊張する日中関係

19世紀後半、日本政府は、「列強(れっきょう)」の東アジア進出に強い危機感を抱きました。
なかでも、朝鮮をめぐって恐れたのがロシアの勢力拡大です。
朝鮮がロシアの勢力下に入ると、日本は自国の独立も危うくなるのではないかと脅威を感じたのです。
政府は先に主導権をとり、朝鮮を独立させ、日本の影響下に置くことで、ロシアなど列強と対抗しようと考えました。
しかし当時、朝鮮を属国(ぞっこく)とみなしていた清が、政治や外交の権限・宗主(そうしゅ)権を有すると主張。
これを否定した日本は、清との対立を深めていきます。

このころ朝鮮国内でも、2つの勢力が対立していました。
日本の明治維新を見習って、近代化を図ろうとする「金玉均(きんぎょくきん/キムオクキュン)」らの勢力と、清との関係を維持しつつ近代化を図ろうとする勢力の対立です。
朝鮮政府は、日本から軍事顧問団を招くなど、改革を進めていました。
この改革に不満を抱いた兵士たちは、保守的な「大院君(たいいんくん/テウォングン)」を支持して暴動を起こします。
民衆とともに日本公使館を襲った、「壬午事変(じんごじへん)」です。
このあと、朝鮮政府は日本との関係に距離をおき、清寄りの姿勢を示します。

1884年、日本の協力を得て朝鮮の国内を改革しようとする金玉均らのグループがクーデターを起こします。
「甲申(こうしん)事変」です。
しかし、清が朝鮮に軍隊を送り、鎮圧。
クーデターは失敗に終わりました。

1885年、日本は悪化した清との関係を修復するため、伊藤博文を清に派遣。
天津(てんしん)で「李鴻章(りこうしょう/リーホンチャン)」と交渉し、「天津条約」を結びます。
日本と清の両国は朝鮮から撤兵すること、さらに今後、朝鮮に出兵する場合には互いに事前通告することを約束しました。
この条約によって、日本と清の間に妥協が成立しました。
しかし、このあと朝鮮では清の政治的な立場が強まります。
日本政府は清に対抗するため、陸海軍の増強をはかっていきました。

悠也 「朝鮮の動きが、日本と清の関係にも影響を与えていたんだね。」

詩乃 「日本と清が争う様子を、欧米列強はどんなふうに見ていたんだろう?」

えり 「ちょっとおもしろいものがあります。当時、フランス人のビゴーという人が描いた風刺絵なんだけど、何を表しているかわかる?
魚を朝鮮に見立てて、朝鮮をめぐって日本と清が争っている様子が描かれています。“どちらかが釣り上げたら、俺が取り上げてしまおう”と見ているのがロシアですね。」

詩乃 「ロシアも、日本と清の動向には興味があったんだね。」

えり 「そうなんです。このあと、朝鮮での“ある事件”をきっかけに、とうとう日清戦争が勃発してしまいます。」

戦争の勃発と経過

1894年、朝鮮の南部で、大規模な農民の蜂起(ほうき)が起きました。
「甲午(こうご)農民戦争」です。
減税と外国人の排斥(はいせき)を訴える農民の武装蜂起でした。
この鎮圧のため、朝鮮政府は清に援軍の派遣を要請します。
清が出兵すると日本もこれに対抗し、朝鮮に出兵しました。
両国の出兵で農民の蜂起はおさまりました。
しかし、朝鮮政府の内政改革をめぐって日清両国は対立を深め、交戦状態となります。

1894年8月、日本は清に宣戦を布告しました。
開戦すると、それまで議会で激しく政府を攻撃してきた民党は戦争支持にまわります。
その結果、巨額の軍事予算が成立し、国民の世論も戦争遂行へと向かいました。
日本軍は、朝鮮から清の軍を一掃し、遼東(りょうとう)半島を占領。
さらに黄海(こうかい)海戦で、清の北洋艦隊を打ち破りました。
日清戦争で、日本は圧倒的な勝利をおさめます。
それでも、1万人を超える戦病死者を出しました。

1895年4月、山口県下関で講和交渉が行われ、「下関条約」を締結。
日本の全権は伊藤博文と、陸奥宗光(むつむねみつ)。
そして、清の全権は李鴻章でした。
この条約で清国が日本に約束した内容は、朝鮮の独立、遼東半島・台湾・澎湖(ほうこ)諸島を日本に譲渡すること。
そして賠償金2億テール、日本円でおよそ3億1000万円の支払い、これは当時の国家歳入(さいにゅう)の2倍強にあたる額でした。
また、日本に最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)を与えることや、沙市(さし)、重慶(じゅうけい)、蘇州(そしゅう)、杭州(こうしゅう)の4港の開港なども約束しました。
清の敗北によって、中国を頂点とする伝統的な東アジアの国際秩序は崩壊。
朝鮮は独立国となり、1897年、国名を「大韓帝国(だいかんていこく)」と改めました。

悠也 「この戦争は欧米列強にも何か影響を与えたのかなあ。」

詩乃 「そういえばロシアは朝鮮半島を狙っていたよね。」

えり 「そうでしたよね。日本の勝利は、ロシアだけではなく、欧米列強のアジア進出にも影響を与えました。では、日清戦争後の東アジアをめぐる動きについて見ていきましょう。」

戦後の東アジアと日本

東アジアの小国・日本が清国を破ったことは、欧米列強に衝撃を与えます。
列強が中国分割に乗り出す、大きなきっかけとなりました。

満州への進出を狙うロシアは、ドイツ、フランスとともに、遼東半島の返還を日本に要求します。
「三国干渉(さんごくかんしょう)」を受けた日本は、まだこれらの国に対抗する国力がないと考え、要求を受け入れました。
しかし、国内では三国干渉に対する憤りから、国民のロシアへの対抗心が高まります。
こうした国民感情を背景に、政府も大規模な軍備の拡張をはかりました。

このころ台湾では、日本の植民地化に対して各地で抵抗運動が起きます。
日本は樺山資紀(かばやますけのり)を「台湾総督(そうとく)」に任命し、抵抗運動を武力で鎮圧。
一方で、交通基盤の整備や土地調査事業などを推し進め、抵抗運動はひとまずおさまりました。
また、中国に進出したイギリス、ロシア、フランス、ドイツなど列強は、競って清国に投資を始めます。
強引に資金を貸し付け、鉱山の開発や鉄道の建設など、さまざまな利権を獲得していきました。

詩乃 「勢力が弱くなった清は、欧米列強に狙われてしまうんだね。」

悠也 「でも、ロシアとかとの関係を見ていると、まだまだ戦争が続きそうだな。」

えり 「こういう状況のなかで、日本はロシアと対立を深めていくんです。」

詩乃 「また戦争が起きちゃうんだ…。」

えり 「そうですね。」

日本史なるほど・おた話〜世界を魅了したマダム貞奴

今回は小風秀雅先生に伺います。

小風先生 「日清戦争のあと、欧米で一大旋風を巻き起こした日本の女優についてお話したいと思います。」

詩乃 「そのころに世界で活躍した女優さんがいるんですか?」

小風先生 「川上貞(かわかみさだ)。芸名は貞奴(さだやっこ)、という名前で親しまれた人です。」

女優・貞奴が世界から注目を集めるようになったきっかけは、1900年、パリ万国博覧会での劇場公演。
まるで浮世絵から飛び出したかのような貞奴の姿に、ヨーロッパ中の人々が魅了されました。
貞奴はフランスの演劇雑誌の表紙を飾り、着物風の衣装は「ヤッコドレス」として流行。
「ヤッコ」と名付けられた香水も発売されます。
“マダム貞奴”と親しまれた貞奴は、世界的な女優となりました。

悠也 「本当に世界に認められた女優なんですね。」

小風先生 「ただし、それにはちょっと前に歴史があって、特にフランスなどは日本に対する関心が非常に高まっていた。そこに彼女が登場した。」

悠也 「なんでそこに至るまでに、日本の人気は上がっていたんですか?」

小風先生 「幕末に日本とヨーロッパの間に貿易が始まりますね。そうするといろんな形で、日本の美術、特に錦絵、浮世絵、そういうものに対してヨーロッパは大変関心を寄せるわけです。その関心がどんどん高まっていって絶頂に達したのが、ちょうどこの1900年のパリ万国博覧会だった。
それまで絵でしか見たことのない日本の女性が、そこで踊り、話し、舞台に立っている。これは人気が出るのも当然と。
日本の演劇史にとってみれば、初めて本格的な女優が登場した、というふうにも評価できる。」

悠也 「それまで女性はあまり舞台には立たなかったんですか?」

小風先生 「基本的に日本の演劇というのは大体、歌舞伎が中心ですから。歌舞伎の場合には女性が舞台に立つということはなかったわけですね。『女方(おんながた)』という、男性が女性にふんして演ずる。
ところが貞奴の場合は女性が女性を演じる、そういう形で初めて新しい近代的な演劇というものを日本に導入するきっかけになった、という意味でも非常に重要な人物だったわけですね。」

悠也 「そういった活躍をしたこの貞奴ですけど、日本国内ではどういう評価をされていたんですか?」

小風先生 「実は1902年に欧米巡業から帰ってきて、貞奴は『舞台に立たない』と言ったわけです。」

一度は引退を宣言した貞奴ですが、俳優で劇団の座長でもあった夫のたっての願いで、再び舞台に立ちます。
演目はシェイクスピアの『オセロ』。
当時、日本ではまだ珍しかった西洋の劇で、女性の登場人物を演じられるのは貞奴だけでした。
ここから、貞奴は日本の近代演劇史の草創期を切り開いていきます。
引退したあとも、貞奴は後進の指導のため、女優を養成する演劇学校を作ります。
これからの日本の演劇には、絶対に女優が必要だと考えたのです。
そして1946年、日本の近代演劇の発展に尽力した貞奴は、75才でその生涯を閉じました。

小風先生 「女性の生き方としても非常に新しく、先駆的で、さらにその先の日本の近代演劇の発展に非常に大きな影響を与えた女性として、評価できるんじゃないでしょうか。」

詩乃 「本当に文字通り、今の文化の立役者って感じですね。」

えり 「今では女優って当たり前のお仕事ですけれども、当時は本当に珍しくって、切り開いていってくださった方なんですね。」

小風先生 「そうですね。」


それでは、次回もお楽しみに!

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