NHK高校講座

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、前年度の再放送です。

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、前年度の再放送です。

今回の学習

第30回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展

憲法制定

  • 監修講師:立正大学教授 小風秀雅
学習ポイント学習ポイント

憲法制定

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

今回の時代は、明治時代半ば、19世紀後半です。
国会の開設に向け、憲法制定の準備が行われた、この時代。
近代化を目指す日本は富国強兵や殖産興業を推し進めます。
その原動力となったのは、外国との不平等条約改正という目標でした。
今回のテーマに迫る3つのポイントは「大日本帝国憲法の制定」「政府と議会」「条約改正の成功」

不平等条約改正の実現に向けた動きを見ていきましょう。

えり 「今日は、『大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)』についてお話しするんですが、2人は日本がなぜ憲法をつくろうとしたか、わかりますか?」

悠也 「確か、五箇条の御誓文はあったんだけど、それだと足りなかったんだよね。」

詩乃 「一番の理由は、不平等条約の改正のためだよね。」

えり 「ご明察!そこで活躍したのが、『伊藤博文(いとうひろぶみ)』です。」

詩乃 「ドイツとかオーストリアから学んで、日本に合った憲法をつくろうとしたんだよね。」

えり 「そうです。この伊藤博文が、欧米に認められようとして、がんばってつくったのが大日本帝国憲法でした。」

大日本帝国憲法の制定

ヨーロッパで学んだ伊藤博文らは、1886年頃から憲法草案の作成に着手します。
そして、3年後の1889年2月11日。
君主の意志によって制定された「欽定(きんてい)憲法」として、ついに大日本帝国憲法(明治憲法)が発布されました。

第一章は天皇についての規定です。
第一条では、天皇が国の元首(げんしゅ)として統治権のすべてを握る、と定めていました。
天皇の権限は広く、国務大臣の補佐だけで制定できる緊急勅令(ちょくれい)のほか、議会の召集・解散、陸海軍の統帥(とうすい)、条約の締結、宣戦・講和などがありました。
しかし、こうした天皇の権限は、無制限ではありません。
あくまで、憲法の条文にしたがって行使されなければならない、と定められました。

また、憲法には臣民(しんみん)である日本国民の権利義務についても明記されています。
法律の範囲内での言論や出版などの自由も認められました。
大日本帝国憲法は、民権運動で政府と対立してきた勢力も認め、海外からも高く評価されました。

統治組織は、行政・立法・司法の「三権分立制」がとられました。
帝国議会は、「貴族院」「衆議院」の二院制で、両院は対等とされました。
貴族院の議員は皇族や華族のほか、国家に勲功(くんこう)のあった者、学識者、多額の国税を納める者などです。
一方、衆議院は選挙で選ばれた議員で構成されました。

こうして、憲法と議会を備えた日本は、立憲国家として歩み始めました。

えり 「大日本帝国憲法は、海外からも高く評価されました。今と比べると、どうですか?」

詩乃 「三権分立は今と同じだよね。」

悠也 「議会の二院制っていうのも、貴族院が参議院になったって考えると、今と似てるよね。」

詩乃 「衆議院だけだけど、議員が選挙で選ばれるっていうのも、今と似てるよね。」

えり 「今の選挙の土台にもなっているよね。そして憲法の制定と同時に、『衆議院議員選挙法』が公布されたんです。」

「(最初の選挙のときは)有権者の資格が、今とだいぶ違うんです。このときは、女性は選挙で投票する資格がありません。有権者の資格は直接国税15円以上を納めている満25歳以上の男性に限られていたんです。
1890年7月の第1回(衆議院議員)総選挙では、有権者数がおよそ45万人で、総人口のたった1.1%しかありません。ちなみにその時の投票率は約94%だったんですよ。」

「そして、後に選挙資格の納税額が引き下げられて、有権者が次第に増加していきました。」

悠也 「今は納税額とか関係ないし、年齢も18才になってるから、結構違うね。」

詩乃 「女性が選挙権がないっていうのも、今と全然違うよね。」

えり 「そうですよね。このころ、欧米でも有権者の資格には制限があるのが一般的だったので、日本だけが特別、制限があったというわけではないんです。」

悠也 「じゃあ、これで不平等条約改正のための条件って、全部そろったんじゃない?」

詩乃 「ようやく世界に認められるのかな。」

えり 「そういきたいところなんだけれども、実は、この憲法を本当に運用できるのか、海外の注目が集まっていたんです。まずは最初の選挙です。」

政府と議会

1890年、第1回「衆議院議員総選挙」で、「民党(みんとう)」と呼ばれる民権派が大勝。
「吏党(りとう)」と呼ばれる政府系勢力を上回り、衆議院の過半数を占めました。

同じ年、ついに第1回帝国議会が開会します。
大日本帝国憲法も、このとき施行されました。

議会では、軍備拡張を訴える山県有朋(やまがたありとも)内閣と、減税して国民の負担を減らそうとする民党が、政府が提出した予算案をめぐり、激しく対立します。
この事態を切り抜けるため、政府は民党の要求を一部認めることで妥協をはかり、予算案の成立にこぎつけました。

第2回帝国議会では、政府の事業計画の多くが否決され、予算案も大幅に削減。
そこで政府は、衆議院の解散という手段で対抗します。

そのあと行われた第2回総選挙で、政府側は民党候補者の選挙活動を妨害。
激しい選挙干渉を受ける民党と、政府側との攻防が描かれた絵が残されています。
しかし、結果は第1回総選挙と同様に、政府系勢力の吏党は衆議院の過半数の議席を占めることはできませんでした。

このような対立があったものの、政府と民党は、政策を実現するには互いの存在を無視できないと気づきます。
そして、政府と政党は次第に歩み寄り、憲法の下で議会を運用できることを世界に示しました。

えり 「政府と議会が歩み寄って、憲法を運用できることを世界に示しましたね。これで条約改正の準備が整いました。ちょっとここで、おさらいです!まず、不平等条約で、日本にとって重要な問題はなんだったかな?」

悠也 「それは、領事裁判権の撤廃と。」

詩乃 「関税自主権の回復!」

えり 「ご明察!実は条約改正のための準備は、憲法ができるもっと前から行われていたんです。
明治の初め、岩倉使節団は条約改正のために、アメリカやヨーロッパ各国に調査に行きました。条約改正は国を挙げての長年の願いだったんです。でも、失敗の連続でした。その苦労の歴史を改めて見てみましょう。」

条約改正の成功

1879年、外務卿(がいむきょう)となった「井上馨(いのうえかおる)」は、日本の近代化を欧米各国に示そうと、「欧化(おうか)政策」を進めます。
欧米の制度や生活様式などを積極的に取り入れました。
東京・日比谷に鹿鳴館(ろくめいかん)を建設。
ここに各国の高官を招き、頻繁にヨーロッパ風の舞踏会を催しました。

そして1886年5月、欧米諸国の代表が参加する会議を東京で開催。
日本は、領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復を求めました。
しかし、イギリスが最後まで反対したため、日本は妥協案を受け入れざるをえなくなります。
それは、領事裁判権を撤廃し、関税自主権を一部回復するかわりに、外国人の裁判には外国人の裁判官を半数以上任用する、というものでした。

交渉の最中、日本国民の感情を逆なでする事件が起きます。
横浜港を出港したイギリスの貨物船ノルマントン号が、紀伊沖で沈没。
イギリス人船長ほか船員はボートで脱出しました。
しかし、日本人の乗客は全員、水死したのです。
日本人の乗客を助けなかったイギリス人船長は、領事裁判にかけられますが、禁固3か月となっただけでした。

この判決に、国民は激怒。
日本人が日本の法で外国人を裁くことができない不平等さを痛感します。
そのため、外国人の裁判官を半数以上あてる(という)妥協案が明るみに出ると、政府部内や自由民権論者などから激しい反発が起こりました。

欧化政策への批判もあり、1887年に交渉は無期延期、井上は辞任しました。
井上をオーケストラの指揮者に例えた風刺画には、一堂に集めた欧米各国をまとめられず、交渉に失敗した様子が描かれています。

続いて外相となった「大隈重信(おおくましげのぶ)」は、列国間の対立を利用し、それぞれ国別に交渉を進めました。また、外国籍の裁判官の任用を大審院(だいしんいん)に限定する案を図ります。
しかし、この案が外部に漏れると、再び反対運動が盛り上がります。
1889年、大隈は国家主義的な団体の一員に襲われ、重傷を負います。
交渉はまた中止となり、失敗に終わりました。

詩乃 「外国との交渉って本当に大変なんだね。」

悠也 「妥協案で進めることしかできないっていうのは、つらいよね。」

えり 「でも、このあとチャンスが到来します!憲法ができて議会が動き出した日本に、これまでいちばん条約改正に消極的だったイギリスが近づいてきたんです。」

このころ、ロシアはシベリア鉄道の建設など、東アジアへの進出を強化し始めました。
イギリスはこうした動きに対抗するため、日本に近づいてきたのです。
政府はこのチャンスを逃すまいと、不平等条約の改正交渉にあたりました。
しかしその矢先、1891年、日本に滞在中のロシア皇太子が滋賀県大津で警護中の巡査に刀で負傷させられる「大津事件」が発生。
外相の青木周蔵(あおきしゅうぞう)が責任を取って辞任。
交渉は、またも失敗に終わりました。

続いて外相となった「陸奥宗光(むつむねみつ)」は、青木周蔵を交渉の場に復帰させ、イギリスに派遣。
粘り強く交渉にあたらせました。
1894年、ついに新たな条約の調印に成功します。
この
「日英通商(つうしょう)航海条約」によって、領事裁判権は撤廃され、関税自主権の一部が回復されました。
ついで、ほかの欧米諸国とも改正条約を結び、1899年から実施。
幕末から苦節40年、条約改正を実現した日本は、ついに欧米と対等な国際的地位を手に入れました。

悠也 「やっと日本も欧米列強に認められたんだね。」

えり 「長い間、領事裁判権がなかなか撤廃できなかったのは、法制度が整っていない日本で自国民を裁かれるのは困る、と思われていたからなんですね。」

詩乃 「日英通商航海条約では、関税自主権の一部が回復されたってことは、まだ完全に回復されたわけではなかったんだね。」

えり 「その通りです。関税自主権の完全な回復は、1911年の条約改正でようやく実現します。」

日本史なるほど・おた話〜憲法発布式の皇后・皇后の決意

今回は小風秀雅先生に伺います。

小風先生 「まず、こちら(憲法発布式を描いた絵)を見ていただきたいと思います。天皇が当時の首相・黒田に憲法を渡している場面です。今日はこの場面で、皇后にスポットを当ててみたいと思います。」

「(絵の)真ん中に一段高く立っているのが皇后です。ドレスを着ていますね。実はこういうヨーロッパ式の儀式に皇后が参列する、日本で初めて行われた儀式です。つまりヨーロッパの儀式の中では国王と王妃とが一対で(共に)参加する、というのが決まりなわけですね。その場合には彼女も洋装である必要があったわけです。」

詩乃 「どんなドレスだったんだろうね?」

えり 「そのとき、着ていたんじゃないかといわれているドレスがこちらです。」

悠也 「華やかだね。」

詩乃 「すごいきれい。」

えり 「かわいいよね、ピンク色で。」

詩乃 「裾のフリフリもきれいだね。」

この当時、肌が大きく露出し、体の線が強調されるドレスを着ることは相当な覚悟が必要でした。
これまでの儀式での皇后の正装は「十二単(じゅうにひとえ)」という着物が中心でした。
しかし、近代国家として欧米に近づきたいと必死だった日本は、皇后がドレスを身にまとうことで、その思いをアピールしようと考えたのです。


悠也 「欧米諸国に近づこうっていうので洋服を着たっていうのはわかったんですけど、和服じゃだめな理由っていうのもあるんですか?」

小風先生 「洋装というのは、当時それほど日本が近代国家に近づこうとすることの表れのひとつ。その中のいわば最大の出来事が、皇后が洋装したということだといっても過言ではないかと思います。」

えり 「当時、皇后はこんな歌も詠まれていました。
『外国(とつくに)の まじらひ広く なるままに おくれじとおもふ ことぞそひゆく』
外国との交わりが広くなるにつれて、日本も近代化に遅れてはいけないという思いを詠んでいます。」

悠也 「最初、このドレスを見たときは、すごいきれいだなと思ってたけど、その奥にこんな意志があったなんて想像つかなかったね。」

小風先生 「そういう意味では、美しいだけじゃなくて、やはり明治という時代が感じられるドレスだろうと思います。」

えり 「皇后の覚悟が伝わってまいりますね。」


それでは、次回もお楽しみに!

科目トップへ

制作・著作/NHK (Japan Broadcasting Corp.) このページに掲載の文章・写真および
動画の無断転載を禁じます。このページは受信料で制作しています。
NHKにおける個人情報保護について | NHK著作権保護 | NHKインターネットサービス利用規約