NHK高校講座

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、前年度の再放送です。

  • 高校講座HOME
  • >> 日本史
  • >> 第29回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展 立憲国家を目指して

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、前年度の再放送です。

今回の学習

第29回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展

立憲国家を目指して

  • 監修講師:立正大学教授 小風秀雅
学習ポイント学習ポイント

立憲国家を目指して

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

今回の時代は、明治初期から中期、19世紀後半です。
1868年に生まれた明治政府は、旧薩摩藩・長州藩出身の人間が中心となって、急速な近代化を推し進めていきました。
一部の人間が実権を握っている政府に対して、士族や農民の反発が強まります。
そんな中、大衆の支持を得て盛り上がりを見せたのが、自由民権運動です。
一方、政府は、国会と憲法の作成という難題に立ち向かっていきます。

今回のテーマに迫る3つのポイントは「自由民権運動の発展」「明治十四年の政変」「立憲制度の調査」

明治政府の重要人物たちが、どう関わっていったのか、見ていきましょう。

えり 「今回は明治政府の立憲制度が整うまでの、激動の歴史を見ていきます。
まず紹介するのが、西郷隆盛(さいごうたかもり)・「板垣退助(いたがきたいすけ)」・大久保利通(おおくぼとしみち)・岩倉具視(いわくらともみ)・木戸孝允(きどたかよし)の5人です。」

悠也 「尊敬している西郷さんはじめとして、これみんな明治維新の立役者ですよね。」

実はこの5人は、2つのグループに分かれて対立することになってしまいます。
岩倉・大久保・木戸は遣外使節団のメンバーとして、1871年からおよそ2年間、欧米を歴訪しました。

その間、日本で明治政府を支えていたのが、西郷と板垣でした。
当時、政府は鎖国中だった朝鮮に西郷を派遣して開国を求めることを、閣議で決定していました。
そこへ帰国した大久保や岩倉は、国内の整備が先決と、この案に反対。
西郷の朝鮮派遣を強引に覆しました。
すると、西郷や板垣は、合議を無視した専制的な姿勢だと批判し、政府の要職を辞任します。
彼らを支持する官僚や軍人も次々と辞職。
これを「明治六年の政変(せいへん)」といいます。

悠也 「閣議で決まったことなのに、ひっくり返されちゃうなんて、そりゃ不満出るよね。」

えり 「政府から去った西郷さんは、そうした体制を打破しようと、鹿児島の士族らを率いて反乱を起こします。これが『西南(せいなん)戦争』に発展するんですね。
政府側でそれに対抗したのが、西郷さんの幼なじみ、大久保利通です。
7か月の死闘の末、西郷軍は鎮圧されて、西郷は自ら命を絶ってしまうんです。」

自由民権運動と国会開設

西南戦争で亡くなった西郷。
一方、板垣は「武力より言論で政府に対抗しよう」と考えました。

1874年には、「民撰(みんせん)議院設立の建白書(けんぱくしょ)」を政府に提出。
薩摩藩と長州藩の一部の人間が動かしている状態の政府を批判し、国民の選んだ議員による国会の開設を求めたのです。
ここから自由民権運動の口火が切られました。

板垣は高知で「立志社(りっししゃ)」を結成し、自由民権思想の普及に努めます。
「人民は生まれたときから自由で、誰でも政治に参加できる権利を持つ」。
それが彼らのポリシーでした。

一方政府も、欧米に対抗するために憲法を制定し、国会を開設する必要性を感じていました。
そこで、板垣を政権に復帰させます。
はじめは士族中心だった民権運動は、商工業者や地主なども参加して、全国的な国民運動に発展していきました。
政府は集会条例を定めて運動を抑えようとします。
しかし、民衆の要求は高まる一方。誰もが早期の国会開設を求めていたのです。

詩乃 「板垣は早く、国会を開きたかったんだよね。でも、政府も同じように国会を開きたかったはずだよね?」

えり 「そうです。国会を作りたい、というのは同じですね。政府としては、近代的な憲法と国会を作って、あの不平等条約を改正したい、という強い思いがあったんです。」

悠也 「日米修好通商条約のことですよね。」

詩乃 「アメリカだけじゃなくて、オランダやロシア、イギリス、フランスとも同じような条約を結んでいた(安政の五カ国条約)よね。」

えり 「そうです。外国人が日本国内で犯罪を犯しても、日本の法律で裁けない領事裁判権を認めていたり、関税自主権がないため、輸入品の関税を日本だけで決めることができませんでした。
これを変えるには、日本も憲法や国会のある近代国家になって、相手の国と協議に臨む、そういう必要があったんです。」

明治十四年の政変と政党の成立

憲法の制定とともに重要なのが、国会の開設です。
そこに関係するのが、「大隈重信(おおくましげのぶ)」「伊藤博文(いとうひろぶみ)」の2人です。

1881年、大隈は1年以内に憲法を制定し、2年後には国会を開設すべき、という内容の意見書を提出しました。
これに驚いたのが、当時政府のリーダーシップを執っていた伊藤博文でした。
伊藤は、岩倉らとともに、時間をかけて憲法と国会を準備したかったのです。

その頃、新聞のあるスクープが日本中を騒がせます。
政府の長官が、同じ藩出身の実業家に、国有施設を安価で払い下げるといううわさです。
そしてこのうわさを広めたのが、民権派と手を組んだ大隈だったという情報が政府内に流れました。
こうした事態を受け、伊藤は大隈を政府から追放。
「国会開設の勅諭(ちょくゆ)」 を発して、9年後(1890年)に国会を開くことを国民に約束しました。
これが「明治十四年の政変」です。

その後、内閣制度を創設し、伊藤は初代「内閣総理大臣」に就任。
自らの主導権のもとに政府をけん引し、憲法制定に力を注いでいきました。
国会開設の勅諭を契機に、政党の結成も進みます。

板垣退助を総理とする「自由党」、大隈重信を党首とする「立憲改進(かいしん)党」、そして、福地源一郎(ふくちげんいちろう)らが結成した政府支持の「立憲帝政(ていせい)党」です。
どの政党も政党内閣の実現を目指し、こうして国会開設の準備が整っていきました。

悠也 「大隈重信がうわさを立てたっていうのは、本当だったのかな?」

えり 「どうなんだろうね、うわさはあるけれども、証拠はないんだよ。
それよりも憲法を時間をかけて作りたかった伊藤博文が、スキャンダルを利用して、ライバルだった大隈を追放した、という見方もあるんです。それで国会開設を約束すれば、民権派も文句は言えないし。」

詩乃 「でも、本当だとしたら、伊藤ってちょっと強引だよね。」

えり 「確かに。でも伊藤はこの後、自分の内閣のときに、大隈に外務大臣を任せたりしているんです。実力は認めていたんですね。この2人と、あと早くから国会開設を訴えた板垣退助、その3人が日本の国会開設の功労者といえますね。」

詩乃 「私、その3人に会ってきました!」

えり 「どういうこと?」

詩乃さんは国会議事堂にやってきました。
板垣退助や大隈重信が夢見た、国会。
国民によって選ばれた議員たちが政治を行う、その舞台となる国会議事堂とは、一体どんなところなのでしょうか。

現在は、衆議院と参議院で構成される国会。
その参議院を、衛視の田中直樹さんに案内してもらいます。
議事堂の中には、テレビでもおなじみの、赤いじゅうたんが敷いてあります。

詩乃 「すごいフカフカ!初めて議員になった人が、踏んで感動する気持ち、わかる気がします。」

参議院の本会議場にやってきました。国会中継でおなじみの、本会議が行われる場所です。

詩乃 「議場の中って、ほとんどが木なんですね。」

田中さん 「そうなんです。石だと音が反響して、発言の内容が聞こえにくくなってしまうということで、木材であるケヤキを一面に使用することになりました。」

また、壁や柱に施された彫刻も、装飾だけでなく、反響を防止する効果があるそうです。

国会議事堂が完成したのは1936年。
それまでは、木造の仮議事堂を使用していました。
完成当時は日本一の高さを誇ったそうです。
詩乃さんはその最上部、中央塔の真下にやって来ました。

詩乃 「ここが、あのピラミッド型の屋根の真下なんですね。」

田中さん 「そうです。国会議事堂の中心部の中央広間と呼ばれる場所です。」

天井まで32mもの高さがあり、広間の四隅には日本の議会政治の基礎を築いた政治家の銅像が立てられています。
国会開設を求めて自由民権運動を起こした、板垣退助。
政党内閣制と、国会の即時開設を主張した大隈重信。
大日本帝国憲法を立案した、初代内閣総理大臣の伊藤博文。
そしてもうひとつは、なぜか台座だけです。

詩乃 「あそこには誰の銅像が立つんですか?」

田中さん 「未来にこの3人を抜くほどの有望な政治家が出たときのために、あえて空席のまま取っておいたのではないか、っていう説。またですね、『政治に完成はない、未完の象徴である』として、今後もずっと銅像が立たない、とも言われています。」

詩乃 「未完の象徴って、なんかカッコいいですね〜!」

えり 「3人に会ってきたって、こういうことだったのね!この3人の銅像が国会議事堂にあるって、すごく意味のあることなんだよね。」

詩乃 「板垣と大隈は、早く国会を作りたいって、奮闘したんだからね。」

悠也 「伊藤博文も、憲法を制定した後で国会を開きたい、という思いは同じだったしね。」

立憲制度の調査

1882年、伊藤たちは近代国家の憲法や議会制度の調査のため、ヨーロッパへと渡りました。

まず伊藤が訪ねたのは、ドイツでした。
宰相(さいしょう)ビスマルクのもと、強力な君主主義で強国への途(みち)を歩んだドイツを、憲法作成の手本にしようと考えたのです。

その後、オーストリアでは当時ウィーン大学の教授だったシュタインに学びます。
シュタインは、王による君主主義を理想と考えていました。
それは、天皇の権限を重視したいと思っていた伊藤にとって、参考になりました。
シュタインからさまざまなことを学んだ伊藤は、帰国すると直ちに「憲法草案(そうあん)」の作成に着手しました。

並行して政府は、立憲制開始に備える改革を進めていきました。
初代内閣総理大臣に就任した伊藤博文の統轄のもとに、各国務大臣をもって内閣を構成し、政治運営の中心としました。

またその前年には「華族(かぞく)令」を制定し、華族を5つの爵位(しゃくい)に分けた他、国家に功労のあった人々にも爵位が授与されました。
これは国会が開設されたときに備えてのもので、当時、議院は公選の衆議院と華族中心の貴族院を設ける予定でした。
その貴族院の選出の母体を作ったのです。

そして伊藤は憲法草案をまとめました。
1889年、政府は『大日本帝国(だいにっぽんていこく)憲法』を発布したのです。

悠也 「欧米から学んで、日本に合う憲法を作るって、すごいことだよね。」

えり 「日本の立憲制度は、多くの人の苦労があって成立したんだね。」

日本史なるほど・おた話〜板垣退助 あの名言は?

今回は小風秀雅先生に伺います。

小風先生 「板垣退助、彼が語ったという有名な言葉『板垣死すとも自由は死せず』についてお話したいと思います。」

えり 「これって、板垣退助が暴漢に襲われたときに叫んだ言葉ですよね。」

悠也 「この『自由は死せず』ってところが、板垣らしいなあ、なんて思ったりします。」

小風先生 「岐阜で演説会を行った後、暴漢に刺されたときに言ったといわれている言葉です。でも本当はどうなのか、実はよくわかってないんです。
板垣自身は後になって、あの時には『アッと思うばかりで、声も出なかった』と言っていますので。」

悠也 「普通は襲われたら、それぐらいの反応しかできなさそうだよね。」

小風先生 「隣にいる自由党員の人が思わず叫んだ言葉だった、という説もありますし、ちょっと残念なんですけど、『痛い!医者を呼んでくれ』と言ったという説も残っています。
ただし、この事件を扱った岐阜の警察署の調書には、『吾(われ)死スルトモ自由ハ死セン』と報告書に書いてあるんですね。だから、まんざらうそだという風に伝わってるわけではない。」

「面白いのは、この事件が東京に伝えられたときに、ちょうど政府は閣議を開いていたのですが、直ちにその閣議を中断して、山県有朋(やまがたありとも)がこれを天皇に上奏(じょうそう)した。
そうしたら明治天皇は、『勅使を派遣せよ』と命じた、という風にいわれています。
それから自由党のライバル政党である、立憲改進党の大隈重信も『お見舞いをしろ』と言った。
それくらい、板垣退助という人物が政治家としてのすばらしさ、人格者であるというようなことが、象徴されているんではないかと思います。」

えり 「板垣退助のような政治家が、現代でも出てきてほしいですね!」

小風先生 「本当ですね。」


それでは、次回もお楽しみに!

科目トップへ

制作・著作/NHK (Japan Broadcasting Corp.) このページに掲載の文章・写真および
動画の無断転載を禁じます。このページは受信料で制作しています。
NHKにおける個人情報保護について | NHK著作権保護 | NHKインターネットサービス利用規約