NHK高校講座

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、前年度の再放送です。

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今回の学習

第28回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展

明治維新

  • 監修講師:立正大学教授 小風秀雅
学習ポイント学習ポイント

明治維新

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

今回の時代は、明治の初め、19世紀後半です。
1868年、明治時代が幕を開け、欧米からさまざまな文化が取り入れられました。
天皇を中心とする統一国家が成立し、さまざまな改革が行われ、社会も大きく変化します。
これが、「明治維新(めいじいしん)」です。
近代国家へと生まれ変わろうとする日本。
それは、簡単な道のりではありませんでした。
今回のテーマに迫る3つのポイントは「廃藩置県」「維新の三大改革」「殖産興業の展開」

明治の日本は、どう変化していったのか、見ていきましょう。

えり 「今回のテーマは明治維新。このころ、欧米の文化がどんどん日本に入ってきました。」

詩乃 「『文明開化』だ!」

えり 「そう!このころ入ってきたものが、私たちの身の回りに、たくさんあるんです。」

悠也 「そこにあるのは、床屋さんの目印だよね。」

詩乃 「ちょんまげが、『ザンギリ頭』になったから?」

えり 「ご明察!明治4年に散髪脱刀令(さんぱつだっとうれい)というものが出されて、髪型は自由にしていいし、刀も差さなくていいようになりました。
それ以降、サインポールという目印を立てた西洋風の床屋さんが増えていったんです。」

詩乃 「このころ飛脚が、郵便配達になったんだよね?」

えり 「その通り!『郵便制度』も、同じ明治4年に始まりました。最初のころのポストは、木で作られていたんだって。
自転車、人力車、それから蒸気機関車、それらの乗り物も明治の初期に広まっていきました。」

詩乃 「あと、この電話もかな?電話って、もっとあとの時代じゃないの?」

えり 「電話自体は明治10年に輸入されて、通話実験が行われているんです。そのあと一般向けに、明治23年、東京・横浜間で開通しています。」

廃藩置県

1868年、明治政府は「五箇条の誓文(ごかじょうのせいもん)」を公布。
公議世論(こうぎよろん)、つまり多くの意見を尊重することや開国和親など、新政府の基本方針を天皇が示しました。
政府は江戸を東京と改称、元号を明治と改めます。
天皇は初めて京都を出て、東京に行幸(ぎょうこう)。
1869年に、東京が新しい首都となりました。

江戸時代の日本では、藩主が領地を治める地方分権型の体制がとられていました。
そこで新政府は、天皇を中心とした中央集権型の国家体制を目指しました。
国の近代化を進めるための政策、「富国強兵(ふこくきょうへい)」を行おうとしたのです。

そのため、政府は各藩に「版籍奉還(はんせきほうかん)」を命じました。
藩主の所有していた領地と領民を、返上させたのです。
しかし、藩主を知藩事とし、引き続き藩政を行わせたため、中央集権にはほど遠いものでした。

そこで政府が断行したのが、1871年の「廃藩置県(はいはんちけん)」です。
全国の藩を廃止して県を設置するという廃藩置県の詔(みことのり)が、天皇によって発せられました。
政府は旧藩主を東京に移住させ、旧藩兵の解散と武器・城郭(じょうかく)の接収(せっしゅう)を命じる一方で、各府県には中央から府知事、県令(けんれい)を派遣して行政を行わせました。
当初300以上もあった府県ですが、その後、区域が整理されて東京・京都・大阪の3府と72県になりました。

こうして幕藩体制が解体され、日本全国が政府の直接統治のもとに置かれることになったのです。

えり 「江戸時代の身分制度も廃止されます。大名や公家を『華族(かぞく)』、藩士と旧幕臣といった武士を『士族(しぞく)』、百姓と町人などの庶民を『平民(へいみん)』と改めて、皇族以外はすべて平等ということにしました。これを『四民(しみん)平等』といいます。」

維新の三大改革

日本を近代国家へと転換させるため、明治政府が行った3つの改革があります。

まず、1872年に公布されたのが、「学制」
6歳以上の男女すべてが就学できる国民教育を目指しました。
学制による小学校として開校したのが、長野県の旧開智学校(きゅうかいちがっこう)です。
1876年に完成した校舎。
正面の車寄せの上には、龍の彫刻。
しかし、その上のバルコニーには、西洋の天使(の彫刻)が舞っています。
情報の少ない中、地元の大工棟りょうが西洋建築の技法を取り入れ、造り上げた洋風校舎です。
この小学校、巨額な建築費用の7割は、地元住民からの寄付でした。
「新たな時代を担う人材を育てたい」と、全国で2万を超える小学校が作られました。

続いて「兵制」。
1873年、「徴兵令(ちょうへいれい)」が公布され、満20歳に達した男子は士族・平民にかかわらず、3年間の兵役に服することになりました。
しかし、多くの兵役免除の規定があったため、各地で徴兵に反対する「血税一揆(けつぜいいっき)」と呼ばれる暴動が発生。
政府は暴動を抑えましたが、その後、免除規定を廃止。
1889年に、国民皆兵(かいへい)となりました。

そして最も重要だったのが、財政制度の確立でした。
江戸時代(から続く)、農民が米で納める年貢は、米価の変動により国の収入が不安定でした。
そこで、政府は1873年に地租改正条例を定め、全国で土地の測量を行いました。
土地が誰のものか調査し、それぞれの地価(ちか)を決めていきました。

さらに、課税対象をこれまでの収穫高(しゅうかくだか)から地価に変更し、物納(ぶつのう)を金納(きんのう)に改め、税率を地価の3%としました。
しかし、そもそも税収を減らしたくない政府は、高額な地価を設定していたため、農民の暮らしは一向に楽になりません。
そのため、各地で「地租改正反対一揆」が発生しました。
その後、政府は地租を3%から2.5%に引き下げる結果となりました。

これらの改革は、どれも国家が直接国民個人に対して義務を求めるものでした。
日本は近代国家へと転換し、富国強兵を進めました。

えり 「この時代を語るのに欠かせない人たちがいます。『岩倉具視(いわくらともみ)』を中心とした『岩倉遣外使節団』です。彼らは明治政府の中心的人物で、ほかにも多くの人たち、100人以上のメンバーが、明治4年(1871)に横浜を出発して、およそ2年をかけて欧米12か国を歴訪したんです。」

「幕末のころ欧米各国と結んだ不平等条約、それを改正したかったんですね。その調査が目的だったんです。
そこで彼らは、いろんな国の政治や産業、文化を視察しました。イギリスではさまざまな工場を見学。プロイセン、今のドイツでは宰相のビスマルクと会見。オーストリアではウイーン万国博覧会を視察。
その結果、彼らは日本の立ち遅れを痛感して、帰国するわけです。
その情報が明治の日本人を刺激して、その後の急速な近代化を後押ししたわけですね。」

殖産興業の展開

「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」の発展をみていきましょう。

1872年、日本初の「鉄道」が東京の新橋と横浜の間に開通。
徒歩で6時間かかった、およそ30キロの道のりを、53分で走り抜けました。

また、経済の基礎となる統一的な貨幣制度を確立するため、「新貨(しんか)条例」を公布して、円・銭(せん)・厘(りん)の十進法を採用し、硬貨を発行しました。
さらに、実業家の「渋沢栄一(しぶさわえいいち)」が中心となって「国立銀行条例」を公布。
近代的な金融制度の基礎を整えていきました。

そして、欧米から機械や設備を輸入して、「官営模範(もはん)工場」を各地に建設しました。

なかでも有名なのが、群馬県の「富岡製糸場(とみおかせいしじょう)」です。
1872年にフランスの技術を導入して完成した工場では、500人を超える工女たちが働いていました。
当時の日本の輸出品の中心は、生糸でした。
質の良い生糸を生産することで、外貨獲得を目指したのです。

1877年には東京・上野公園で、第1回内国勧業博覧会(ないこくかんぎょうはくらんかい)が実施されました。
各地から機械や美術工芸品が出品・展示され、3か月間の総入場者数は45万人を超えたといいます。
こうしたイベントが、民間の産業発展にも大きな刺激を与えたのです。

えり 「日本の経済はどんどん上向きになっていきます。
1875年のときだと、日本の収入は、ほとんど地租しかないんだけれども、その後は欧米との貿易が始まって、関税だったり、所得税だったり、それからお酒・酒税だったり、ほかの要素で国の収入が増えていくんですね。」

悠也 「今もある所得税とか関税とか、あと酒税っていうのも、この時代にできたものなんですね。」

日本史なるほど・おた話〜岩倉使節団の女性たち

今回は小風秀雅先生に伺います。

小風先生 「岩倉遣外使節団について、ちょっと関係のあるお話をしたいと思います。
あのメンバーは100人以上いたんですけども、その中に、後の日本の女性たちに非常に大きな影響を与えた人物がいたんです。
岩倉使節団の中にはですね、40人以上の留学生が含まれていて、その中に北海道開拓使(かいたくし)という省から派遣された5人の若い女性がいたんです。今日はそのうちの3人について、ご紹介したいと思います。」

津田梅子(つだうめこ)、山川捨松(やまかわすてまつ)、永井繁子(ながいしげこ)。
3人は10歳前後で日本を出発し、およそ10年間のアメリカ留学のあと、帰国しました。

小風先生 「帰ってきていちばん苦労したのが、日本語だったという。向こうの言葉は覚えるんですけど、逆に自分の、日本語の方は忘れてしまう。
永井繁子という人物ですけども、彼女は帰ってきたときに、ひとつだけ日本語を覚えていた。意外なことに、『ネコ』なんです。」

アメリカの大学を卒業し、日本に帰国した山川捨松。
当時の社交場である鹿鳴館(ろくめいかん)で、見事な社交ダンスを披露しました。
さらに英語・フランス語・ドイツ語を駆使して、外国の要人をもてなし、「鹿鳴館の花」とうたわれました。

永井繁子は音楽を専攻し、帰国後は東京音楽学校(現・東京藝術大学)と東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)で、教鞭を執りました。

最年少の6歳で留学した津田梅子は、高校を卒業して11年後に帰国しました。
そして再渡米ののち、「女子英学塾」を創設。
今の津田塾大学です。
さまざまな分野で活躍する卒業生を多く輩出しています。

小風先生 「学制という教育制度を作るときに、『男女共に』と入っているんですね。だから、女性にも教育が必要だというのは、明治維新のときの改革の柱のひとつになっている。
いわば、彼女たちはそういう日本の女性たちの近代化の、最初の事例というふうに考えてもいいんじゃないでしょうかね。」


それでは、次回もお楽しみに!

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