NHK高校講座

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、前年度の再放送です。

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今回の学習

第27回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展

幕府の滅亡

  • 監修講師:立正大学教授 小風秀雅
学習ポイント学習ポイント

幕府の滅亡

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

今回の時代は、江戸時代が終わる19世紀半ばから後半です。
200年余りに渡り鎖国を続けた江戸幕府は、ペリーの来航をきっかけに開国へと向かいます。
一方、国内では、西郷隆盛、坂本龍馬ら幕末の志士たちにより、江戸幕府・徳川家の支配が終焉を迎えます。
今回のテーマに迫る3つのポイントは「桜田門外の変から公武合体へ」「攘夷から倒幕へ」「大政奉還から王政復古へ」
日本の歴史の中で大変革が起きた、そのときを見ていきましょう。

桜田門外の変から公武合体へ

日本が開国に踏み切ったころ、幕府では13代将軍・徳川家定(いえさだ)に子がなかったため、あと継ぎ問題が起きていました。
水戸藩の徳川斉昭(なりあき)、薩摩藩の島津斉彬(なりあきら)ら有力大名は、斉昭の実子「一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)」を立てて幕政改革を進めようとしました。
一橋派です。
これに対して、南紀派の彦根藩主・井伊直弼(いいなおすけ)ら譜代大名は、将軍と血縁が近い紀州藩主「徳川慶福(よしとみ)」を推して対立しました。
井伊直弼が大老に就任すると、一橋派を押し切り、慶福を将軍のあと継ぎに定めました。

一方、幕府はこのとき、より大きな問題に直面していました。
アメリカとの通商条約の交渉の際、天皇の許可を得ないまま、井伊は独断的に日米修好通商条約に調印しました。
幕府が朝廷の許可なく通商条約を結んだことから、天皇を中心に国をまとめようとする「尊王(そんのう)論」や外国の勢力を排除しようとする「攘夷(じょうい)論」が高まっていきました。

また、条約調印やあと継ぎ問題での井伊直弼の強硬な姿勢に対し、一橋派をはじめ諸藩士や公家の中から、幕府を非難する動きが高まりました。
井伊直弼は、こうした動きをおさえるために、反対派の公家や大名らを処罰しました。
「安政の大獄(あんせいのたいごく)」です。
長州藩士の「吉田松陰(よしだしょういん)」や福井藩士の「橋本左内(はしもとさない)」らが処刑されるなど処罰を受けた者は100人を超えました。
幕府の専制に対する批判が広がっていきます。

そして1860年、江戸城、桜田門の付近で井伊直弼が襲われました。
「桜田門外(さくらだもんがい)の変」です。
襲撃したのは、尊王攘夷をかかげる水戸藩と薩摩藩の浪士たちでした。
井伊が行った安政の大獄に対する報復行動でした。
この事件以後、幕府の専制的な政治は行き詰まり、幕府の威信は大きく揺らぎます。

井伊直弼が暗殺されたあと、幕府の政治を担当した老中「安藤信正(あんどうのぶまさ)」は、朝廷との融和によって幕府の権威を回復しようとします。
将軍・家茂(いえもち)の夫人に「孝明(こうめい)天皇」の妹「和宮(かずのみや)」を迎えたのです。
公としての朝廷、武としての幕府が手を結ぶ、「公武合体(こうぶがったい)」です。
これにより、政治を安定させようという狙いでした。
しかし、これは幕府が朝廷を利用する政略結婚として、かえって「尊皇攘夷派」を刺激しました。

1862年、江戸城、坂下門外(さかしたもんがい)で安藤信正が水戸藩の浪士らの襲撃を受け負傷(「坂下門外の変」)、まもなく老中を退くことになりました。
幕府の権威は失墜し、幕府に反対する尊皇攘夷派の動きも激しくなり、長州藩を中心とした大きな勢力となっていきます。

えり 「このころから、朝廷のある京都が政局の中心になっていきます。」

攘夷から倒幕へ

尊皇攘夷派の中心になった長州藩は、朝廷内部の尊皇攘夷派の公家とも結び、京都で大きな勢力をもっていました。
彼らは、朝廷に働きかけて攘夷の実行を幕府に迫ります。
幕府はやむなく、1863年の5月10日を期して攘夷を行うことを諸藩に通達、この日を境に、長州藩は下関海峡を通過する諸外国の船を砲撃し、その後も砲台を強化して海峡を封鎖しました。

そんな中、長州藩から政治の主導権を取り戻そうとした薩摩藩と会津藩は、公武合体派の公家と結んで朝廷内の主導権を奪い、長州藩などを京都から追放しました。
「八月十八日の政変(せいへん)」です。

長州藩は、失った主導権を奪還する機会をうかがっていました。
そんな矢先、京都市中の警備にあたっていた幕府指揮下の新撰組によって尊皇攘夷派の志士が殺傷されます。
「池田屋事件」です。

長州藩は、この事件を機に藩兵(はんぺい)を京都に攻め上らせます。
しかし、京都御所のあたりで迎え撃った幕府側の薩摩・会津などの藩兵と戦い、長州藩は敗れました。
「禁門(きんもん)の変」です。

さらに、幕府は、その罪を問うという理由で、長州追討の軍をおこし、長州藩を攻撃しました。
「第1次長州戦争」です。

一方、イギリス・フランス・アメリカ・オランダは、この機に乗じて、下関海峡の封鎖を条約違反として、四国連合艦隊を組織して長州藩の砲台を攻撃、占領しました。
このとき、欧米の軍事力を痛感した長州藩の「木戸孝允(たかよし)」「高杉晋作(たかすぎしんさく)」らは幕府を倒し、欧米列強に対抗できる統一国家をつくるべきだと考えるようになり、倒幕への動きが加速していきます。
そのころ、長州と対立している薩摩では、「西郷隆盛(さいごうたかもり)」らが藩の実権をにぎるようになっていました。

西郷隆盛、「大久保利通(おおくぼとしみち)」などのいる薩摩藩は、幕府の中で存在感を示していました。
しかし、1862年、神奈川の生麦(なまむぎ)で薩摩藩の行列を横切ったイギリス人の非礼をとがめ、殺傷事件が起きます(「生麦事件」)。

その事件をきっかけに翌年、「薩英(さつえい)戦争」が勃発。
薩摩藩は、イギリス艦隊と鹿児島湾で戦闘を繰り広げ、大きな被害を受けました。
この薩英戦争などにより、欧米諸国との実力の差を感じた西郷隆盛や大久保利通らは、武器の輸入や留学生の派遣など改革を進めていきます。

一方、一度は幕府に屈服した長州藩でしたが、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)らが中心となって倒幕へと動いていました。
武力で対抗する長州に対して幕府は、1865年、再び長州追討の命令を下しました。
しかし、薩摩藩は幕府の命令に応じず、ひそかに長州藩を支援、1866年には同盟を結びました。
「薩長(さっちょう)同盟」です。
これまで、反目して相いれなかった二つの藩を仲介したのが、土佐藩出身の「坂本龍馬(りょうま)」です。
龍馬は欧米に負けない新しい国をつくるためには、薩摩藩と長州藩が協力する必要があると考えたのです。

薩摩藩などから協力を得られない幕府は、長州との戦いで敗北を重ね、将軍・家茂の病死を理由に、戦いは中止になりました(「第2次長州戦争」)。
この戦いを機に幕府の求心力はいっそう衰え、また凶作や戦争による物価上昇で民衆の生活は苦しくなり、一揆や打ちこわしが頻発し社会の混乱は深まっていきました。

えり 「龍馬は、『船中八策(せんちゅうはっさく)』という国家論の中で、外交や経済のこと、新しい統一国家の姿を構想していたんですよ。」

詩乃 「この時代で、二院制の議会政治とか不平等条約の改定とか、当時としてはすごい画期的なことを考えていたんだね。」

大政奉還から王政復古へ

幕府の求心力が衰える中、15代将軍に就任した「徳川慶喜(よしのぶ)」は幕府政治の立て直しを図ります。
そんなおり、公武合体を主張して幕府を支えていた孝明天皇が崩御します。
すると公武合体の立場をとる土佐藩は、坂本龍馬らが前藩主「山内豊信(やまうちとよしげ)」を通じて、将軍・慶喜に政権の奉還(ほうかん)を行うよう、意見を申し立てます。

「大政奉還(たいせいほうかん)」、政権を朝廷に返し新たな政治体制をつくる、ということです。
15代将軍・徳川慶喜はこれを受け入れて、1867年10月14日、260年余りにおよぶ江戸幕府に終止符を打ちました。

しかし大政奉還後も、慶喜は政治と長い間距離をおいてきた朝廷から、政治を任されます。
これに対し、武力による徳川勢力の排除を進めていた公家の「岩倉具視(いわくらともみ)」や西郷隆盛らは、大政奉還からおよそ2か月後の1867年12月9日、朝廷を動かして、「王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)」を発し、天皇中心の新政府樹立を宣言しました。
さらに、同日夜には「小御所(こごしょ)会議」が開かれ、徳川慶喜の政治力を奪うため、官位の辞退や領地の返上を命ずる厳しい処分を下しました。
しかし、これに反発した旧幕府側は京都に進撃。
薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と京都郊外の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)で戦いが勃発して、一連の「戊辰(ぼしん)戦争」が始まりました。
「鳥羽・伏見の戦い」で勝利を収めた新政府軍は江戸に進撃、戦うことなく江戸城を開城させました。
その後、さらに戊辰戦争は各地で激化していきますが、新政府軍が旧幕府軍を圧倒し、会津落城で大勢が決しました。
翌1869年の箱館の五稜郭の戦いで旧幕府軍は降伏、新政府による国内平定がほぼ完了しました。

えり 「京都の鳥羽・伏見から始まった戊辰戦争ですが、会津の戦いでは、とても悲しくてやりきれない出来事として『白虎隊(びゃっこたい)』、聞いたことあるかな(16〜17歳の少年によって編成された部隊。会津の戦いでほぼ全員が自刃)。よくドラマや映画になっていますよね。」

日本史なるほど・おた話〜西郷・勝会談と江戸城無血開城

日本史のおもしろくてためになる話。
今回は小風秀雅先生です。

新政府側の西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟(かつかいしゅう)。

小風先生 「今回は、戊辰戦争の最中にこの二人が行った、ある会談についてお話したいと思います。」

この会談は両者が戦う戊辰戦争のさなか、目前に迫る西郷ら新政府軍による江戸城総攻撃を回避するための交渉の場でした。
新政府側は江戸城総攻撃を中止するための条件を、旧幕府側に提示しています。
例えば、「慶喜を備前藩に預ける」という条件を出していますが、旧幕府側は、「慶喜の故郷、水戸で謹慎したい」と嘆願しています。
また、「軍艦・武器をすべて引き渡す条件」に対しても、旧幕府側はすべてを受け入れるとはしていません。
攻撃される旧幕府側が強気の嘆願を提示していました。
勝は、この旧幕府側の要求を通すために、無謀ともいえる覚悟を胸に秘めていました。

小風先生 「もし、(新政府側が)受け入れてくれない場合は、江戸を焼き払ってしまう。そのために江戸の火消したちに火をつけてくれと頼んでいたという説もあるくらい。
つまり、もし(新政府軍が)攻め込んでくるようなことがあれば、江戸は壊滅するぞ、自分の手で壊滅させるぞ、という覚悟を背後に秘めていたというふうに考えられます。」

それほどの覚悟で勝が嘆願したことに対して、西郷ら新政府側が出した答えとは?

小風先生 「(新政府側が旧幕府側の嘆願を)ほぼ丸のみした(受け入れた)形で、新政府側は、この条件をのむという。」

江戸を焼き払うという脅しがあったとはいえ、なぜ受け入れがたい旧幕府側の嘆願を西郷は受け入れたのか。
一説には、西郷には“決して江戸を壊滅させてはいけない”という強い思いがあったといわれています。

小風先生 「戦争せずに江戸が開城された。ただし、それで戊辰戦争は終わっていないわけです。江戸でも、上野・寛永寺に旧幕臣たちがこもって朝廷側と戦争になったことがありました。」

江戸城の開城後、徳川慶喜を擁護するため、彰義隊(しょうぎたい)など旧幕臣が、上野で新政府軍と戦いました。

小風先生 「上野の入り口に黒門口という口があるんですけど、そこがいちばん頑強に抵抗したわけですね。そこで活躍したのが、西郷隆盛なんです。
西郷隆盛の銅像が立っているところは、まさに黒門口(付近)。それが除幕されたときに、実は勝海舟も参加しているんです。勝海舟と西郷というのは、その前から知り合いだったんです。非常に親しい関係にある、そういう二人だからこそ無血開城が成功した、ということもいえるんじゃないでしょうか。」


それでは次回もお楽しみに!

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