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※この番組は、前年度の再放送です。

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今回の学習

第24回 第3章 近世社会の形成と庶民文化の展開

幕藩体制の危機

  • 監修講師:東京都立国分寺高等学校教諭 佐伯英志
学習ポイント学習ポイント

幕藩体制の危機

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

今回の時代は江戸時代後期、18世紀末から19世紀です。
このころ、外国の船が日本との通商を求めて次々と来航。
幕府は危機感を募らせます。
幕藩体制が危機を迎える中、老中・水野忠邦(みずのただくに)が取り組んだのが天保の改革です。
全国の諸藩も、軍事力の強化などを目指して改革に乗り出しました。

今回のテーマにせまる3つのポイントは「外国船の来航」「天保の改革」「諸藩の改革」
幕藩体制が危機を迎えた、さまざまな要因を探りましょう。

えり 「江戸幕府の権威が次第に弱くなって幕藩体制が危機を迎えます。その理由のひとつに外国船の来航がありました。」

詩乃 「外国船ってことは、いよいよ黒船だよね。」

悠也 「ペリーが来たんだよね。」

えり 「ペリー来航だと思うよね?でも、実は幕府にとって最初の衝撃は、北の大国からもたらされました。」

外国船の来航

1792年、11代将軍・家斉(いえなり)の時代、1隻の外国船が蝦夷地(えぞち)に来航しました。
大砲で武装したその船の名は、エカチェリーナ号、ロシアの船です。
ロシアは当時、東へと勢力を拡大し、日本の近海にもロシア船が頻繁に現れるようなっていました。

エカチェリーナ号に乗っていたのは、ロシアの使節「ラックスマン」でした。
ラックスマンは幕府にロシアとの通商を求めます。
それは鎖国体制を脅かす、重大な出来事でした。

幕府側は、通商を求めるなら外交の窓口である長崎に向かうことを指示し、長崎の入港証を交付しました。
ラックスマンはロシアに帰っていきました。
幕府は問題を先送りして危機を逃れたのです。

1804年、新たな使節が訪れます。
今度はロシア使節「レザノフ」が、長崎の入港証とロシア皇帝の親書を持ち長崎に来航。
再びロシアとの通商を求めます。
レザノフの来訪を描いた絵巻には、レザノフが滞在した屋敷が描かれています。
幕府はレザノフを半年以上長崎で待たせたあげく、入港証を取り上げ、通商も親書の受け取りも拒否しました。
無礼な態度で追い返されたレザノフは激怒。
部下に北の島々にある日本の施設を襲撃させました。
幕府は大きな衝撃を受けます。
そのため、北方沿岸の警備を東北の大名たちに命じ、蝦夷地をすべて幕府の直轄地(ちょっかつち)としました。

続いてやってきたのはイギリスです。
1808年、イギリス軍艦「フェートン号」が長崎に入港。
その後も外国船の(航行や)接近があったため、幕府は「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)」(1825年)を出し、オランダ、中国以外の外国船を撃退することを命じ、鎖国体制を強化します。
1837年には、通商を求めて浦賀に来航したアメリカの商船モリソン号を砲撃し、追い返しました。
その後も幕府は外国との通商を拒み続けたのです。

えり 「なんで幕府はロシアやアメリカとの通商をしなかったと思う?」

詩乃 「キリスト教の布教をされたくなかったからかな?」

悠也 「鎖国を続けたかったとか、っていうのもあるんじゃないかな?」

えり 「いろんな理由があると思うんだけども、まずキリスト教が広まるのを恐れたっていうこと。あと、貿易をすると国外に金銀も流失してしまう。それを防ぎたかった。
あとは今まで通りの幕藩体制を維持することが大事だと思った、などの理由が挙げられます。」

天保の改革

1833年、洪水・冷害などによる全国的な飢饉(ききん)が起こりました。
「天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)」です。
農村や都市には困窮した人々があふれ、多くの餓死者が出ました。
ところが大坂町奉行所は、大坂に集まった大量の米を江戸に送ることをやめず、飢えた人々への対策を取りませんでした。
このような事態に対し立ち上がったのが、元・大坂町奉行所の役人「大塩平八郎(おおしおへいはちろう)」です。

大塩は協力者とともに武装蜂起。
これが大塩の乱です。
大砲を撃ち、豪商の店や屋敷に火をつけました。
わずか1日で鎮圧されましたが、元・町奉行所の役人が起こした反乱は幕府に大きな衝撃を与えました。

老中・「水野忠邦(みずのただくに)」は、12代将軍・家慶(いえよし)のもと、「天保の改革」を行います。
改革は、厳しい倹約令と取り締まりを行うものでした。
例えば、絹や華やかな柄の衣装をはじめ、ぜいたくな料理や家の新築、鮮やかな浮世絵さえも禁止したのです。
水野はこれに違反した者を、徹底的に取り締まりました。
江戸の町人たちの娯楽の場だった寄席(よせ)は、200軒ほどから15軒にまで減らされました。
歌舞伎の芝居小屋も浅草の外れに移転させられました。
厳しい取り締まりのため、江戸の活気は失われていきました。

そんな中、水野に大きな危機感を抱かせる事件が起こります。
中国・清で起きた「アヘン戦争」です。
イギリスの近代的な武器と兵力を前に、清が大敗したのです。
イギリスは海禁政策をとっていた清に対し5つの港を開かせ、香港を奪い取りました。
中国の敗戦に危機感を感じた水野は、異国船打払令を撤回し「薪水給与令(しんすいきゅうよれい)」を復活させました。
外国船に燃料と水、食料を支給するという法です。

1843年、水野は幕府の権威を強化するため、最後の改革を打ち出します。
「上知令(じょうちれい/あげちれい)」です。
江戸・大坂周辺の大名や旗本の領地を強制的に移転させ、その土地を幕府の直轄地にすることです。
しかし、大名や旗本の激しい反発を受け上知令は撤回。
これをきっかけに、わずか2年あまりで水野忠邦は失脚。
天保の改革は失敗に終わったのです。



えり 「幕府が弱体化する中、全国の諸藩も大きな問題を抱えていたんです。」

諸藩の改革

諸藩が抱える問題、まずは財政難
貨幣経済が進む中、現金支出が増え、借金の返済に苦しむ藩が増えたのです。

もうひとつが軍備の拡張です。
外国船の来航と、アヘン戦争での中国・清の敗北を受け、外国船に対抗するための軍事力が必要だと考える藩が増えてきました。

このような状況の中、諸藩も幕府と同じように「藩政(はんせい)改革」に乗り出します。
改革に成功した3つの藩を見ていきましょう。

佐賀藩では、藩主の鍋島直正(なべしまなおまさ)が改革を行います。
直正が藩主になったばかりのとき、押し寄せた借金取りの商人たちによって大名行列が足止めされたといいます。
それだけ佐賀藩の財政は壊滅的でした。

そこで、粗衣粗食令(そいそしょくれい)を出し、経費を削減。
藩主が自ら率先して質素倹約に努めます。
また、商人と交渉して膨大な借金を帳消しにさせます。
さらに、特産品である陶磁器の専売を行い、オランダなどに輸出。
佐賀の有田焼はヨーロッパで人気が高まり、財政を潤しました。

次に着手したのが鉄製の大砲の製造。
戦国時代から使われている青銅製の大砲に勝る耐久力があり、高性能のためです。
実はフェートン号事件の際、佐賀藩は長崎の警護を任されていました。
ところが、ばく大な費用のかかる警護の手を緩めていたため、時の家老は責任を取り切腹。
このときの反省もあり、佐賀藩は軍備の増強に力を入れます。
火術方(かじゅつかた)という部署を作り、オランダの書物を調べました。
その知識をもとに、良質の鉄を溶解・精錬するための炉を築造します。
こうして、日本初の反射炉が完成しました。
反射炉とは、高度な技術を必要とする溶解炉です。
熱源と原料を分離した位置に置き、熱の反射を利用して大量の鉄を溶かし、精錬するのです。
佐賀藩は、日本で初めて鉄製の大砲の鋳造に成功します。

一方、薩摩藩では「調所広郷(ずしょひろさと)」によって改革が進められました。
膨大な借金を無利子、250年での返済にすることを、債権者の商人たちに一方的に通告します。
産業では特産品の黒砂糖の専売制を強め、さらに琉球を通じた密貿易で利益をあげ、財政を立て直します。
後の藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)の時代には、こうして蓄えた財源をもとに集成館(しゅうせいかん)という藩営工場を設立し、オランダの工作機械を導入しました。
さらに、反射炉も建設。
佐賀藩に続いて鉄製大砲の製造に成功しています。

長州藩では「村田清風(むらたせいふう)」が改革を主導しました。
多額の負債の返済を37年据え置きにさせると、紙や蝋(ろう)の専売を改革します。
また、下関に越荷方(こしにかた)という藩営の機関を置きます。
ここを通る回船の積み荷を預かり、大坂の相場が高値のときに売るなどして利益を得ました。
越荷方の運営は成功し、わずか4年で負債の3分の1近くを返済。
財政立て直しに成功した長州藩は、その資金をもとに軍備を強化しました。

このように改革に成功し、力をつけた藩は「雄藩(ゆうはん)」と呼ばれ、幕末の政局に強い発言権を持つようになりました。

詩乃 「薩摩、長州、佐賀って明治維新のときに重要な役割を果たしているよね?」

えり 「ご明察!『薩長土肥(さっちょうどひ)』っていわれているよね。薩摩、長州、土佐、そして佐賀は肥前、その4藩が、のちの明治維新を引っ張っていた藩だよね。」

悠也 「このころの改革が、次の時代につながっていくんだね。」

えり 「もちろん、幕府も外国船への対策はいろいろやっていたけど、流れは開国に向かっていくんですね。」

日本史なるほど・おた話〜漂流民と幕府の政策

今回は佐伯英志先生に伺います。

佐伯先生 「外国船の来航を見てきましたが、それにまつわるお話です。
『大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)』という日本人。ラックスマンが通商を求めて日本にやって来たとき、同じ船に乗っていた人物です。実は、この人は漂流してロシアに行っちゃったんですね。
今回は漂流民と幕府の政策との関係についてお話をしていきたいと思います。」

「この大黒屋光太夫は、現在の三重県の港を拠点とした廻船(かいせん)の船乗りでした。そこから江戸に向かう途中で、嵐にあってしまいました。そして現代のアラスカとロシアの間、アリューシャン列島まで流されてしまいました。
そこで光太夫はロシアに保護されて、ラックスマンと一緒に帰国することになったんです。」

詩乃 「大黒屋光太夫が帰ってきたときって、日本は鎖国中だったと思うんですけど、その後どうなったんですか?」

佐伯先生 「基本的には江戸にとどめ置かれました。なぜかというと、ロシアの情報を幕府が独占したかった、っていうことですとか、あるいは通訳として利用しようとしていた、そんなことが考えられています。でも、江戸の町で光太夫はある程度の行動の自由はあったといわれています。」

悠也 「光太夫のような人は、ほかにもいたんですか?」

佐伯先生 「はい。江戸時代の主な漂流民を一覧にしたものの中には、同じ船に乗っていたんだけども日本に帰ってきた人とか、残念ながら日本に帰ってこられなかった人もおりますし、いろいろなケースがあります。それから、これはわかっている範囲内で、ということになりますから、漂流民はこの何倍もの数がいたと考えられます。」

「そして、漂流民の立場は江戸時代の流れとともに変わっていくんです。例えば、19世紀前半の漂流民で音吉(おときち)という人がいます。今回出てきたアメリカの船モリソン号に乗って来たんですけど、モリソン号ってどうなったんでしたっけ?」

悠也 「確か、大砲を撃たれて追い払われちゃったよね。」

詩乃 「異国船打払令ですよね。」

佐伯先生 「そうなんです。異国船打払令が出たあとだったので、帰国できそうだったのに打払われてしまい、母国を目の前に帰国することができませんでした。
それから時代が変わって、中浜万次郎(なかはままんじろう)という人は帰国して、そして活躍した人です。」

悠也 「もしかして、あのジョン万次郎のことですか?」

中浜万次郎は漂流後、アメリカの船に救助され、アメリカの船乗りとして活躍しました。
そのとき乗っていた船『ジョン・ハウランド号』にちなんで、アメリカ人から『ジョン・マン』と呼ばれました。
そのため、ジョン万次郎といわれています。
漂流から10年、万次郎はペリー来航の少し前に帰国。
海外の情報が求められていた当時の日本で、アメリカに行ったことがあり英語が話せる万次郎は、幕府や諸藩から重宝されます。
万次郎は英会話辞典を執筆。
英語を教え、通訳としても活躍しました。

悠也 「少し時期が違うだけで、こんなに待遇が違うんだね。」

佐伯先生 「これら漂流民の体験記は、一つ一つが非常に興味深く貴重なものなんですけども、それだけでなく、ここから江戸幕府の外交政策の違いっていうものが見えてくるんですね。そこが大事なんです。」


それでは次回もお楽しみに!

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