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※この番組は、前年度の再放送です。

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今回の学習

第23回 第3章 近世社会の形成と庶民文化の展開

幕藩体制の動揺と政治改革

  • 監修講師:東京都立国分寺高等学校教諭 佐伯英志
学習ポイント学習ポイント

幕藩体制の動揺と政治改革

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

今回の時代は、18世紀、江戸時代中期です。
江戸・大坂・京都の三都が発展し、交通網が整備され、日本全国で産業が発達したこの時代。
貨幣経済が浸透し支出が増え、幕府は財政難に直面し、たびたび政治改革の必要に迫られます。

今回のテーマに迫る3つのポイントは「享保の改革」「田沼時代」「寛政の改革」
8代将軍・吉宗(よしむね)から11代将軍・家斉(いえなり)の時代に行われた改革を見ていきましょう。

享保の改革

商業が発達し、貨幣経済が浸透。
幕府の財政は支出の増加により、悪化しました。
1716年、7代将軍・家継(いえつぐ)が8歳で亡くなり、家康以来の徳川本家の血統が途絶えると、徳川御三家のひとつで紀州藩主の「徳川吉宗(よしむね)」が8代将軍に迎えられました。
吉宗は幕府の財政を再建するため「倹約令」を出し、質素倹約を奨励。
そして、財源確保のため
「上米(あげまい)の制」を打ち出します。

諸大名に対して参勤交代の江戸滞在期間を、1年から半年に減らす代わりに、石高(こくだか)1万石につき米100石を納めさせました。
また、商人や職人が営業を独占する「株仲間」をつくることを認め、運上金(うんじょうきん)や冥加金(みょうがきん)と呼ばれる営業税を納めさせました。

財政難のもとで人材を登用するための「足高(たしだか)の制」を設け、下級武士でも上の役職に就けるようにしました。

「享保(きょうほう)の改革」で活躍したのが、町奉行の大岡忠相(おおおかただすけ)です。
大岡は市政の改革に努め、裁判や刑罰の基準となる「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」を編集しました。

ほかにも、吉宗は裁判を簡素化するため、「相対済し令(あいたいすましれい)」を出し、金銭の貸し借りは当事者の間で解決させることにしました。

幕府の財政は、吉宗の晩年、年貢の徴収高が江戸時代を通じて最高に達し、一時的に立ち直ります。
吉宗が行った享保の改革は、将軍を退く1745年まで続きました。

えり 「吉宗が行った改革はほかにもあります。吉宗は庶民の意見を政治に反映させようと、目安箱(めやすばこ)を設置しました。そこから、貧しい人たちの救済施設『小石川養生所(こいしかわようじょうしょ』が生まれたんです。」

詩乃 「養生所ってなんですか?」

えり 「ここでは、貧しい人たちが無料で診察を受けられました。明治維新で廃止されるまで長きに渡り、多くの貧しい人を救ったんですよ。」

詩乃 「貧しい人のことも考えてるね。」

えり 「その場所は今でも小石川植物園として残っています。」

悠也 「植物園って、何か関係があるんですか?」

えり 「小石川養生所があったところは、もともと薬草園があって、なんと今も同じ場所で薬用植物を育てています。その当時の歴史に今でも触れられる貴重な場所なんです。」

「今にもつながる政治改革が行われていったよね。でも、1732年にイナゴやウンカという稲の茎や葉を食べる害虫が大量発生して全国的な飢饉(ききん)、『享保の大飢饉』が起きました。
そのため、米の価格が急騰して、江戸で有力な米問屋が打ちこわしを受けたりします。一時的に幕府の財政は立ち直ったかに見えたんだけど、相変わらず財政の危機は続いてしまいます。」

田沼時代

10代将軍・家治(いえはる)のとき、老中になった「田沼意次(たぬまおきつぐ)」が幕政の実権を握りました。
年貢収入に限界を感じた意次は、商人の経済力を利用して幕府の財政を再建しようとします。
特定の商人に座(ざ)を作らせて、株仲間(かぶなかま)も積極的に公認し、営業税を納めさせ、増収を図りました。

意次は貿易の拡大も図ります。
長崎貿易では、銅のほかに、干しアワビや干したなまこなど(の海産物)を俵につめた、「俵物(たわらもの)」の輸出を奨励しました。

このころ、蝦夷地ではアイヌの人々が、ロシアとの交易を始めていました。
そこで意次は、新たにロシア人との交易も計画し、北方探検家の「最上徳内(もがみとくない)」らに、蝦夷地の調査を命じました。

意次の政治は、経済の発展に着目し、商人資本を利用する革新的なものでした。
しかし、特権や地位を得ようとする商人や武士により、賄賂が公然と行われるようになり、政治の公平性が損なわれていきます。
意次の政治に不満が高まっていきました。

さらに、1783年大きな出来事がありました。
浅間山の大噴火です。
噴火による火山灰は、関東平野一帯に降り積もりました。
噴煙が日光を遮り、農業にも被害を与えました。
大凶作も続きます。
「天明(てんめい)の大飢饉」は、東北地方を中心に多くの餓死者を出しました。
天災による社会不安の中で、意次は次第に勢力を失い、将軍・家治の死去とともに失脚しました。

詩乃 「結局、意次が進めていた政治って、意次が失脚したあとは、どうなっちゃったんだろう?」

えり 「失脚はしてしまったけど、意次が行ったことは、よいものはちゃんと引き継がれたり、廃止されたものもあとで復活したりするんですよ。」

「でもこのあと、天明の大飢饉が引き金となって、貧しい人たちの不満が高まり、打ちこわしや百姓一揆といった直接行動に出るんです。幕府は否が応でも改革をせざるを得ない、そういう状況に追い込まれます。」

寛政の改革

1787年、天明の打ちこわしが起きます。
江戸では、市中の米屋などへの打ちこわしが4日間も続く大騒動となり、幕府に衝撃を与えました。

また農民は、たびたび領主に対して「百姓一揆(ひゃくしょういっき)」と呼ばれる直接行動を起こしました。
飢饉に加え、厳しい年貢の取り立てが農民たちを駆り立てたのです。
農民たちは、最後まで行動をともにすることを誓い、連判状(れんぱんじょう)を書きました。

こうした混乱の中、白河藩主の「松平定信(まつだいらさだのぶ)」が老中に就任します。
定信は、8代将軍、祖父・吉宗の政治を理想にかかげ、「寛政(かんせい)の改革」を始めました。
華美な生活をおさえるため「倹約令」を出すとともに、生活文化の取り締まりを強化。
武士には学問と武芸を奨励し、質実剛健(しつじつごうけん)な気風を取り戻そうとします。
そして、困窮した旗本・御家人を救済するため「棄捐令(きえんれい)」を出し、借金を帳消しにしました。

飢饉対策としては、「旧里帰農令(きゅうりきのうれい)」を出して江戸での出稼ぎを制限し、関東の農村から江戸に来ていた定職を持たない農民たちを故郷に帰し、農業人口を確保しようとします。
また、飢饉に備えて米穀を供出させ蓄えさせる「囲米(かこいまい)」を実施します。

江戸では、町費の節約分の7割を積み立てる「七分積金(しちぶつみきん)」の制度をつくり、災害や飢饉に備えて米と金を貯えさせました。

さらに、江戸の石川島に「人足寄場(にんそくよせば)」と呼ばれる職業訓練校のような施設を造り、犯罪を犯していない無宿人(むしゅくにん)を強制的に収容し、技術を身につけさせようとしました。

さまざまな改革を行った定信ですが、11代将軍・家斉(いえなり)と対立し、6年あまりで失脚。
しかし、その社会政策は享保の改革、田沼時代同様、その後の政治に大きな影響を残しました。

詩乃 「6年で失脚しちゃったんだね。飢饉対策はしっかりしてたのにね。」

悠也 「なんで短期間で終わっちゃったのかな?」

えり 「やっぱり、あまりにも厳しすぎたってことですかね。寛政の改革で定信はその後の社会にも影響を残す、いいこともしているんです。ただ民衆の不満を買っちゃいましたよね。」

佐伯英志先生にお話を伺います。

佐伯先生 「松平定信の政治っていうのは、本当に厳しかったので、当時こんな狂歌が生まれています。
“世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといふて夜もねられず”
どういう意味かわかりますか?」

詩乃 「ぶんぶっていうところが、学問と武芸の文武かなあと思った。」

悠也 「確かに。ということは、蚊は、松平定信を指してるのかな?」

佐伯先生 「なかなか鋭いですね。そういう意味もありますし、あと、蚊ほどっていうところが、これほどっていう意味にもとれるんです。ぶんぶについては、まさに詩乃さんの言った通りで、学問と武芸を一所懸命やりなさいと、そういうことを松平定信がしきりに言ったもんですから、それに対して民衆がいやになってしまう。そういう部分があったので、このような狂歌が生まれたんですね。」

「今まで見てきたように、享保の改革・田沼意次の政治・寛政の改革と、どの政治も一生懸命改革を行っているんですね。でも、残念ながら幕府財政はよくならない。
これは一体どうしてなんだろうか。江戸時代の中心は、石高制(こくだかせい)という制度です。武士にとって土地とかお米が一番大事だとされている中で、貨幣経済がどんどん浸透していく。そのスピードに政治が追いつかなくなって、“改革改革”とやってもなかなか幕府財政がよくならない。」

えり 「ちょうど時代の過渡期だったわけですね。いろんな改革を打ってもなかなかよくならない。ちょっと苦しい時代でしたね。」

日本史なるほど・おた話〜上杉鷹山

引き続き、佐伯英志先生に伺います。

佐伯先生 「今日のテーマは幕府の改革でしたけれども、改革が行われたのは幕府だけではないんですね。各地の諸藩でも改革が行われているんです。
今日は特にその中で米沢藩の上杉治憲(うえすぎはるのり)、鷹山(ようざん)について説明をしたいと思います。」

江戸時代中期、米沢藩で政治改革を行った上杉鷹山。
17歳の若さで藩主となった鷹山を待ち受けていたのは、藩が抱える莫大な借金でした。
その額およそ20万両。
若き鷹山はいきなり大きな問題に直面したのです。

佐伯先生 「皆さんにしてみれば、17歳で会社の社長になったようなもんなんですね。」

「本当に大変な状況だったんです。でも彼が藩主になったときにこんな歌を詠んでいるんですね。
“受次て(うけつぎて) 国のつかさの身となれは 忘るましきは 民の父母”
藩主の地位を受け継いで国のトップの身となったと、そうなったときに忘れちゃいけないのは、藩主っていうのは民衆の保護者的な存在であると、そういう気持ちを常に忘れずに政治をやらなければいけない、そういう決意を述べた歌なんですね。」

悠也 「17歳にしてこんな決意を持ってたんだね。」

鷹山は、藩の財政を再建するため、大倹約を誓います。
まず、自らの生活費を7分の1に削減。
食事は一汁一菜(いちじゅういっさい)、着物は木綿とします。

鷹山は、藩主自ら田に入り鍬(くわ)をとりました。
それだけではなく、農民たちと直接交流することもありました。
ある農家のおばあさんが娘に宛てた手紙に、稲刈りの途中で夕立にあって困っていたとき鷹山に助けられたことが記されています。

目先のことだけでなく、改革には長期的な視野も必要だと考えた鷹山は、人材育成のため、多額の費用をかけ、儒学者の細井平洲(ほそいへいしゅう)を招き、藩校・興譲館(こうじょうかん)を再興します。

農民への教育も行われ、皆が藩を支える一員であるという意識が芽生えたことで、改革は勢いを得ます。
新たな産業を興すため、植樹する木の苗を無料で配布したり、食料とするため鯉の稚魚を城のお堀で養殖するなど、その改革はまさに民の父母であるという意識を持って行われたのです。

佐伯先生 「なんとか米沢藩を少しでもいい状態にしようと頑張ったのが上杉鷹山なんです。
上杉鷹山が優れた政治を行ったことは間違いないんですが、当時の人々がそういった良い政治を求めていた、それこそが江戸時代のひとつの特徴かなと思います。」

えり 「わたし上杉鷹山の言葉でもうひとつ好きなのがあって、“なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり”という言葉が好きで、成らない、成功しないのは行動を起こしていないからだと、行動を起こしていけば成功するんだっていう、この言葉に大きな壁にぶち当たったときは勇気をもらっているんです。」


それでは次回もお楽しみに!

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