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Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、前年度の再放送です。

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今回の学習

第22回 第3章 近世社会の形成と庶民文化の展開

江戸時代の経済と産業の発達

  • 監修講師:東京都立国分寺高等学校教諭 佐伯英志
学習ポイント学習ポイント

江戸時代の経済と産業の発達

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

今回の時代は、17世紀から19世紀前半の江戸時代です。
人口およそ100万人の大都市となった江戸、「天下の台所」と呼ばれた大坂、朝廷や多くの寺社がある京都「三都(さんと)」が栄えました。
水上交通や陸路が整備され、各地でさまざまな産業が発達しました。

今回のテーマにせまる3つのポイントは「三都の繁栄」「交通の発達」「産業の発達」
江戸時代の経済と産業の発達を見ていきましょう。

三都の繁栄

17世紀後半、世界でも有数の大都市となった江戸。
人口が密集する江戸は、日本で最大の消費都市となっていました。
参勤交代により、江戸には多くの武士が集まり、人口が増大。
10キロメートル四方に満たない地域に、武家、町人を合わせて100万人あまりがひしめき合っていました。
江戸には幕府直轄地の年貢米の多くが集まり、幕府の経費や旗本・御家人の俸禄(ほうろく)となりました。
俸禄は「札差(ふださし)」と呼ばれる商人に委託して販売され、庶民の食料にもなっていました。
江戸の各地には専門の卸売市場ができ、特に日本橋(にほんばし)の魚市場はにぎわいました。

しかし、大消費都市・江戸の需要は関東地方の生産物だけでは賄いきれなかったため、多くは大坂や京都など、経済と文化の先進地だった上方からの輸送に頼っていました。
「天下の台所」と呼ばれた大坂は、西日本や北陸・東北地方の藩から年貢米や産物が集まる大商業都市でした。
中之島や堂島(どうじま)には、諸藩の倉庫兼取引所である「蔵屋敷(くらやしき)」が集中。
運ばれた年貢米や特産物は、商人が売りさばいていました。

京都は、古くから栄えていた都です。
朝廷や多くの大寺社が集まる町は、西陣織(にしじんおり)や友禅染(ゆうぜんぞめ)、清水焼(きよみずやき)など、伝統工芸の中心地で、高級品店が建ち並んでいました。
伝統工芸が栄えたこの地では、今もその技が脈々と受け継がれています。

このように、江戸・大坂・京都の三都を中心に全国の物資の流通が活発になりました。

悠也 「当時の江戸が100万人の都市だったというけれど、世界と比べてどうだったんですか?」

えり 「1801年、ロンドンは人口がおよそ86万人、パリはおよそ55万人だったといわれているので、100万人ほどの人口が集まる江戸は、世界でも有数の大都市だったってことだよね。大坂はおよそ42万人、京都もおよそ34万人でした。」  

詩乃 「ずば抜けて江戸が多かったんだね。」

交通の発達

年貢米をはじめとする大量の物資は、水上交通を利用して輸送されました。
特に、江戸−大坂間は、海路が大動脈でした。

17世紀中頃からは、木綿や油を運ぶ「菱垣廻船(ひがきかいせん)」や、主に酒を運ぶ「樽(たる)廻船」が、大坂−江戸の物流を担いました。
また、東北・北陸地方と大坂・江戸を結ぶ航路が、江戸の商人「河村瑞賢(かわむらずいけん)」により整備されました。
東北地方と江戸を結ぶ「東廻り(まわり)航路」
そして、東北地方・日本海沿岸と大坂を結ぶ「西廻り航路」です。

陸上交通では、幕府が全国支配を固めるために道路を整備しました。
日本橋を起点に、江戸と京都を結ぶ東海道のほか、中山道(なかせんどう)、甲州道中、日光道中、奥州道中の
「五街道(ごかいどう)」と、その支線となった脇(わき)街道などです。
街道には一里塚(いちりづか)や、橋、関所などの設備が整備されました。
2里〜3里ごとに置かれた宿場の様子を、当時描かれた絵から知ることができます。
街道沿いに、一般の旅行者用の旅籠(はたご)と呼ばれる宿泊施設があり、宿場を歩く旅人が旅籠の呼び込みを受けている様子が見られます。
また、幕府の役人や大名が宿泊する「本陣(ほんじん)」を描いたものもあります。
旅行者が荷物を継ぎ送りするための公営施設「問屋場(といやば)」を描いた絵では、次の宿場まで荷物を運ぶため、人足(にんそく)や馬が常備されていたことが伺えます。
関所を出入りする人々を描いた絵には、人や物の出入りを監視する施設が見えます。

五街道の起点、日本橋を始まりに、今も各地を結ぶ交通網が整備されました。

悠也 「今にも残る東海道とか中山道も、このころ整備されたなんて知らなかった」

えり 「陸上交通が整備されたことで、通信機関も発達したんです。この時代、何人もの人がリレー形式で書状や荷物を運ぶ体制が整えられました。
馬に乗った飛脚(ひきゃく)は定飛脚(じょうびきゃく)といって、二人体制で荷物を運んでたんですよ。」

詩乃 「人や馬が荷物とか手紙を運んでたんだね。」

産業の発達

幕府や諸藩は財政を安定させるため、新田開発を奨励。
耕作地が拡大します。
また、新しい農業技術や知識を解説する「農書(のうしょ)」が数多く出され、農具や肥料の普及に大きな役割を果たしました。
農具では、「備中鍬(びっちゅうぐわ)」のほか、作業効率を格段に上げる農具も普及しました。
脱穀用の「千歯扱(せんばこき)」や、灌漑(かんがい)用の「踏車(ふみぐるま)」
そして、選別用の「唐箕(とうみ)」は、風の力を利用して籾(もみ)を分ける農具です。
肥料は、都市部周辺では、人の糞尿「下肥(しもごえ)」を購入するようになりました。
綿花や菜種など商品作物を生産する先進地域では、干した鰯や、油をしぼった粕など、お金を払って購入する「金肥(きんぴ)」が普及するようになりました。

漁業では、各地に漁場が開かれました。
蝦夷地・松前の刺し網による「にしん漁」、九十九里浜の地曳網(じびきあみ)による「いわし漁」が有名です。

また、手工業の生産が各地で行われるようになりました。
織物業、陶磁器、漆器(しっき)、醸造(じょうぞう)業や製紙業など、各地で特産品が生まれます。
主に都市の職人によるものが多かった手工業が、農村にも広がりました。
絹織物は、高度な技術を持つ京都・西陣から技術が伝わり、桐生や足利などで生産されるようになりました。
このような地域では、問屋商人が原料や資金を生産者に貸し、生産物を買い上げる「問屋制家内工業(といやせいかないこうぎょう)」もあらわれました。

詩乃 「いろんな産業が発達したってことは、お金も動いたんじゃないかな?」

えり 「商業が盛んになったことで全国各地の村で現金収入を得るために、商品作物を生産することも多くなったんです。そうした状況のなかでお金を扱う金融業も発達します。」

産業が発達し、さまざまな物をお金で購入するようになり、貨幣経済が全国に浸透します。
徳川家康の時代に江戸幕府が設けた「金座(きんざ)」・「銀座(ぎんざ)」では、金貨・銀貨がつくられました。
日本全国で使うことのできる統一貨幣がつくられたのです。
3代・家光の時代には「銭座(ぜにざ)」が設けられ、全国共通の銅銭「寛永通宝(かんえいつうほう)」も大量につくられます。
江戸を中心とする東日本では主に金、大坂を中心とする西日本では主に銀が使われ、東西で流通する貨幣が異なりました。
金・銀・銅銭は、換算率が変動するため「両替商(りょうがえしょう)」が生まれ、金融業が発達。
両替商は、両替の他に為替や貸しつけなどの金融業務を行いました。

えり 「当時のお金の価値、どれぐらいだったか気になるよね。」

佐伯英志先生にお話を伺います。

佐伯先生 「江戸時代の小判は、一両という単位なんですけども、この小判が一体今のお金でいくらぐらいかわかりますか?」

悠也 「買い物とかにも使える金額だろうから、一万円ぐらいですか?」

佐伯先生 「実はこの小判、計算の仕方はいろいろあるんですけれども、現在のお金で約10万円といわれています。江戸時代のお金は金貨のほかに、銀貨、銅貨、三種類のお金があったんですけれども、銀貨は匁(もんめ)という重さの単位を使っており、天秤ばかりを使って、毎回重さを量って値段を決めていたんですね。
それから銅のお金、銭は一枚で一文(もん)という単位でした。銭が4000枚集まると、小判一枚の一両ということになります。」

えり 「結構複雑ですね。」

佐伯先生 「そうですね。しかも、その相場というのがあり毎日変動していて、今日はいくら、今日はいくらというふうに変わっていったんです。」

悠也 「なんか今と似てるよね。」

詩乃 「円とドルみたいですね。」

えり 「そういうときにもうかったのが両替商ですよね。両替商ってどういう人がなったんですか?」

佐伯先生 「両替商は基本的にお金をたくさん持っていないとできない職業なので、大商人がやっておりました。でも、両替商が本業ではなくて、呉服商ですとか、そういった大商人が両替商を兼ねるというような形で営業しておりました。」

日本史なるほど・おた話〜火事に見る江戸っ子の気質

日本史のおもしろくてためになる話。
引き続き、佐伯英志先生に伺います。

佐伯先生「『火事と喧嘩(けんか)は江戸の華』これは江戸の町の特徴を表した言葉です。
江戸の町は木造家屋が多かったので一旦火事が起こるとものすごい勢いで燃え広がってしまったんですね。
実際、江戸時代の大火、大きな火事は全部で49回、それから小さいものも含めると1798回も起こったといわれています。」

「一番大きかったのは、1657年の明暦の大火と呼ばれる火事なんですけれども、なんとこの火事では江戸の町の3分の1を焼き尽くし、天守閣も焼けてしまったんです。ちなみに、江戸城の天守閣はここで焼けてしまってから再建されておりません。」

「もうひとつ、喧嘩というのが江戸の町の特徴なんです。江戸の町は男性の比率が非常に高かったといわれているんですね。そこからけんかっ早い気風が生まれた。もうひとつ、江戸っ子は正義感が強くて気が早い、そういう性格の人たちが顔を合わせると喧嘩に発展することが多く、そして派手な喧嘩になったといわれています。」

悠也さんが江戸の火消しの格好をして入ってきました。

詩乃 「勇ましい感じですね。持っているものはなんですか?」

佐伯先生 「これは纏(まとい)っていうものなんですけれども、ここが火事だよっていうことを知らせる目印であったり、振り回すことによって火消しの士気を上げるっていう、そういう用途で使われたものなんです。
実際にはこれを持ったまま、はしごで登って、屋根に上がって、周りから見えるようにしたんですね。」

「当時の消火活動の考え方っていうのは、今燃えているところをどうこうするよりも、それ以上燃え広がらないように風下の家を壊して延焼を防ぐと、これが当時の消火活動の考え方なんですね。そこで、またそのあと家を建てなきゃいけないということになりますんで、日雇いの大工の仕事なんかが舞い込んでくる。そういうことによって、宵越しの金を持たなくても生活できるような、そういう江戸っ子の気質っていうのが生まれていったといわれています。」

えり 「なんかうまいこと回ってますね。」

佐伯先生 「そうですね。火事をも、きちんと受け入れて、そしてそこに誇りを持っている、そういう人たちだったといわれています。ですから『火事と喧嘩は江戸の華』っていう言葉も生まれるんですね。」

えり 「からっとして後ろを振り向かない。そういう江戸っ子の気質、見習いたいですね。」


それでは次回もお楽しみに!

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